(約3900文字) その二 almonds
早く逃げなければ! さもなければ、本性を現した男に殺されてしまう! しかし少年の心の叫びに反して、恐怖に彩られた彼の身体は言うことを聞かず、ガクガクと膝を震わせて、その場に立ちすくむだけだった。
立っているのがやっとでともすればその場に尻もちをついてしまいそうな少年に、ひとしきり笑い終えた男が懐から何かを取り出して、少年の足元へと放り投げる。一本のナイフだった。折り畳み式の、子供や女性でも扱えるような小さなナイフ。
「ほらよ、ハンデだ、やるよ。てめえのそんな役立たずの異能じゃ、無能と同じだろうからな。安心しな、オレはオレでちゃんと武器は持ってる。オレだけが武器持ちで、丸腰のやつを殺すなんてフェアじゃねえからな。査定に響く」
不公平な状況で勝利したとしても、それは当たり前のことであり、昇格の面接官の心証は良くならないだろう。逆に、自ら武器を放り出し、たとえ見せかけだけとしてもフェアな戦いを提案することで、昇格面接をより有利にすることができる。すべては男の計算だった。
……クククク、さあ拾えよ、てめえがそれを拾い上げた瞬間に、こいつを一発ぶち込んでやるぜ……。
懐に差し入れている男の手が握っていたのは、一丁の拳銃だ。弾数六発装填式の、汎用的なリボルバー拳銃。小口径ではあるが、腹部や胸部に命中すれば、充分に命を奪うことができる。カチリ。撃鉄を起こして、少年がナイフを拾うのをいまかいまかと待ち構える。
しかし男の意に反して、少年は首を横に振った。
「……いりません……俺は誰も傷付けたくないんです、殺したくなんかないんです……!」
当てが外れて、男が拍子抜けした声を出した。
「あっそ、じゃあ死ね」
フェアな勝負を断ったのはコイツで、オレのせいじゃねえぜ。分かってくれよ女神さまに天使さま。男が拳銃を構えた。少年の目が見開く。引き金が引かれた。弾丸は真っすぐに少年の胸元へと向かっていく。
それは死にたくないという少年の生存本能が成せた業かもしれない。あとコンマ数秒で弾丸が少年の胸を撃ち抜こうとした刹那、ガクガクと震えていた膝がついに限界を超えて折れ、彼はその場に尻もちをついたのだ。的を失った弾丸は空を切り、少年の背後の壁を覆っていたブルーシートへと命中した。
「あ、あ、あ、あ……」
「チッ、外したか。運のいいヤローだ。だが幸運は二度も続かないぜ」
男が再び引き金を引こうとしたとき、少年が手に持っていたブドウを投げつけた。舌打ちをして払いのけてから、もう一度男が拳銃を構え直したとき、少年の姿はもうそこにはなかった。とっさに立ち上がり、地を這うようにして、死に物狂いで物陰に隠れたのだ。
まずったな、逃がしたとなると始末するのに時間が掛かっちまう。そうなると査定に響いてきちまう……。
一瞬で一撃で殺すという最初の算段は失敗に終わったが、天使候補生の男は余裕の笑みを浮かべていた。男は床に転がっていたナイフを拾い上げて懐にしまい込む。
ここから本気の殺し合いが始まった? なわけあるか。これは蹂躙だ。超エリートのオレが、ザコのガキを手早く片付ける、ただの殺戮にすぎない。
オレには銃がある。ナイフもある。この日のために身体も鍛え抜いてきた。だがヤツはどうだ。武器はない。防具もない。唯一持ってる異能だってクソの役にも立たない。そんなザコにオレが負ける要素なんか微塵もありゃしない。
コンテナや木箱の陰、ブルーシートの裏側、果ては照明の届かない天井の隅にまで視線を這わせて、男は注意深く周囲を探っていく。だがどこにも見当たらない。イライラが募るが、ここで焦ってはいけない。ガキを油断させるんだ。
「オレが悪かった、いきなり銃で撃ってゴメンよ、実はオレも無理矢理戦うように言われて怖かったんだ。もう撃ったりなんかしないからでてきなよ。ほら銃だって持ってないだろ」
少年から見えないように、銃は懐の中に隠している。返事はない。辛抱強く男は続ける。
「そうだ、いま思い出したよ、これは練習試合で本番じゃないんだ。だから死んだとしても、すぐに生き返って天使がいた神聖世界に連れ戻されるんだった。と言っても、やっぱり痛いのや死ぬのは嫌だよね。うんうん、オレも嫌だよ」
男が床に滴る何かしらの液体を見つけた。血……ではない。ほのかに甘い香り、ブドウのような匂いが漂っている。さっき男が銃を撃ったとき、少年が持っていたブドウの端に当たっていたのだ。その飛沫が少年の服を濡らし、わずかな雫となって、彼の足取りを示している。
男は心の中でほくそ笑んだ。これをたどっていけば、じきに獲物を仕留められる。
「こんな不毛なことはもうやめようじゃないか。それよりも二人で協力して、なんとかしてここから脱出できる方法を探そう! 幸いなことに、天使はこの戦いのルールに制限時間をつけなかった。考える時間はたっぷりあるんだ!」
口ではそう言いながら、男はゆっくりと床の雫をたどっていく。その雫は撮影所の明かりの届かない薄暗い隅の、いくつも積まれた木箱へとつながっていた。思わず知らず、男の口の端がゆがむ。
ここが正念場だ。下手に近付いて反撃されたり、また逃げられては面倒くさい。今度こそ確実に仕留めるために、積まれた木箱の少し手前で立ち止まり、男は諭すように話しかける。
「確か、戦場のフィールドは挑戦者、つまりきみが通ったドアが出現した場所から半径1キロメートルの範囲だったよね。その範囲から10秒以上外に出たら、問答無用で負けるルールだったはず。これを利用しない手はないよ」
依然として返事はない。しかし男のことを信じようかどうか、その言葉に耳を傾けている気配が伝わってくる。ここで信じさせれば、勝利はもう目前だ。
「つまりだ。オレたちが同時に10秒以上外に出れば、両者両成敗ということでこの練習試合は終わるかもしれないってことさ。な、いい案だろ。そうするためにはヴァレーくんの協力が不可欠だ。さあ、出てきてくれないかな」
それまでも少年の名前を呼んでいたが、いまはより一層親しみを込めて呼びかける。名前を呼ぶことで警戒心を解き、こちらを信頼させるためだ。
……さあ、出てこい、出てきやがれ。出てきた瞬間、今度は避ける暇もなく撃ち抜いてやるぜ! 息を飲んだ一瞬後、木箱から影が飛び出した。時間にして一秒もないかもしれない、男は懐から拳銃を抜き取ると、その影目がけて引き金を引いた。銃弾は見事に影の胴体に命中し、内部に詰まっていた液体がほとばしる。
……勝った! もはや隠すこともなく、男は嬉しさを全身で表現するように、ガッツポーズをした。しかし直後に充満した異臭に気が付いて、ゴホゴホッ、と激しくむせ返る。
「クセエッ! 何だコレッ!」
木箱の上に転がったのは手のひらよりも大きな、ギザギザの付いた何かしらの果物だった。その果物が飛び出た木箱とは別の木箱から少年の声が響く。
「ドリアンです。……やっぱりウソじゃないですか! 協力しようとか言って、本当は俺を殺す気じゃないですか!」
「ルセエッ! 勝ちゃあいいんだよ、勝ちゃあ! そうすりゃオレは天使になれるんだ!」
少年の声がした木箱へと、突進するように男は走り出す。
「分かってるぜ! このクッセエ臭いで、隠れていてもオレの居場所が分かるようにしたんだろ! だったら、逃げる暇もなく撃ちまくってやるぜ! こうなりゃ効率がどうとか言ってやれるか!」
迫り来る男の足音と声に慌てたのだろう、木箱の裏からガタッという音がして、リンゴの実が一つ飛び出してきた。カカカカ、そうさ、そんなちっぽけな能力じゃ、その程度のことしかできねえようなあ! 小さなその実を腕で振り払って、男が拳銃を一発撃つ。
「うわあっ!」
ビビった少年が声を上げた。その声を待っていた。少年がいる位置を正確に把握するために撃ったのだ。身代わりや何かしらのトリックではまったくなく、今度こそ確かに、少年は目の前の木箱の陰にいる。木箱の裏へと回り込んだ男が、間髪入れずに2発撃ち放った。
「あ゛あ゛っ゛!」
目の前の床に、赤くにじんだ肩を押さえる少年が、転がるように倒れていた。傷口は一つしか見当たらない、どうやら命中したのは一発だけらしい。残念ながら致命傷には至っていないが、それでも動きを鈍らせるには充分だ。次の一発でトドメを刺してやるぜ!
男が少年の胸へと銃口を構える。カチリ……。撃鉄を起こす。引き金に指をかけ、ニヤリと、悪魔的な笑みを浮かべた。
「ケケケケ、殺す前に、何か言い残したいことがあったら聞いといてやるぜえ」
自分は超エリートだという優越的自意識から発した言葉だった。この状況で逆転される可能性はまずありえない、男はそう思ったのだ。
痛みをこらえるように、ハアハア……と息を荒げ、顔をうつ向かせて、少年はつぶやいた。
「……この……なかった……」
「ああっ⁉ なんだって⁉」
問い返した男へと視線を向けて――そう、それまで見せたことのない、戦う決意をたたえた瞳を向けて、少年は言った。
「この能力をこんなふうに使ったことはなかった……でも、あなたがどうしても俺を殺すというのなら、俺は……ッ!」
パンッ。少年が両手のひらを合わせるとともに、そこから勢いよく大量のガスが生み出され、一時的に彼の姿がかすんでいく。男はとっさに拳銃を撃つが、鋭い音が床を反射しただけで、少年の悲鳴は聞こえない。外したのだ。
「クソがッ! 目くらましのつもりかッ⁉ なんだこのアーモンドみてえな臭いはッ!」
視界を確保するために、その薄い青色をしたガスを男は振り払おうとするが、量が多く、腕の動作だけでは消すことはできない。そこで男は思い出した。そうだ、この倉庫の天井は開閉式だったはず。近くにそのボタンがあるはずだ。
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