(約3200文字) その三 cherries
充満していく薄青色のガスから逃げるように男は壁際に寄っていき、片手で口元を押さえながら、もう一方の手で天井のスイッチを探す。しかし見つからず、イラ立たしげな様子で壁に掛かっていたブルーシートをはぎ取ると、見つけた。ドンッ! 握りしめた拳で、たたくようにそのスイッチを押した。
途端に天井が開いていき、周囲に満ちていたガスが外部へと流れだしていく。代わって舞い込んでくる新鮮な空気を、肺の奥にまで行き渡るように吸い込んで、男は少年の無駄なあがきを踏み潰した優越感に浸る。
「ガハハハハ……! しょせんはガキの浅知恵ってやつさ! オラアッ! ムダなことなんかしてねえで、さっさとオレに殺されやがれってんだ!」
近くの木箱を蹴飛ばし、いきり立っていた男の視界が、突如としてくらんだ。……なんだ⁉ 立っていることができず、男はその場に膝をつく。……息が……! 息ができないっ⁉ 足に力が入らず、崩れるように床に倒れ伏す。かすむ視界に、少年の姿が映った。憐れむように男を見つめて、悲しそうな声でつぶやく。
「……果物の中には、種にほんのわずかですが毒を含むものもあるんです。とはいえ、よほどの量を食べない限りは、普通はそれによる中毒症状は起こさないんですけど……。いま俺が出したのは、その毒成分だけを凝縮した毒ガスです」
男の指先が、肩が、全身が小刻みにケイレンする。意識が混濁し始め、悪態をつくことすらままならない。そんな男の様子から目をそらして、少年は床を転がっていた拳銃を拾い上げた。その銃口を男へと向け、撃鉄を起こし、引き金に指を掛ける。
「あなたが悪いんです……あなたが俺を殺そうとするから、正当防衛で、仕方なく……いま終わらせてあげます、すべてを……この引き金を引いて、あなたを……っ!」
二人がこの倉庫に入ってきてから、時間にして数十分程度。少年が引き金を引くことで、いまその戦いに終止符が打たれる。
そのはずだった。しかし、少年はガチガチと歯の根を鳴らし、息を荒くし、指先を震わせるだけで、引き金を引こうとしない。いや、引けなかった。大粒の涙をボロボロと流しながら、少年が銃口を下ろす。
「ダメだ……ッ! やっぱり、俺にはできない……ッ! 人を、誰かを殺すなんてこと……ッ!」
この戦いは練習試合で、たとえ死んだとしても、すべての傷を回復した上で元いた神聖世界に完全復活される。そのことは重々、少年は承知していた。それでも……できなかった! 殺せなかった!
少年は手にしていた拳銃を捨てた。両手を合わせ、開けたとき、ミカンのような果物の薄皮に包まれた小さなカプセルが現れる。男の元へとしゃがみ込み、少年はそれを男の口元へと差し出した。
「解毒剤です。飲んでください。いまなら、まだ、間に合うはず……!」
消えかかる意識の中、男は口を開けようとするが、しかし思うように動かない。それを察した少年が慌てて男の口の中へと、小さなカプセルを押し込んだ。
「早く飲んでください……!」
残された意識を総動員して、飲み込むことだけに筋肉を動かすことを集中させて、ようやくの思いで男はそのカプセルを飲み込んだ。
少しの間……。解毒剤が効果を現すにはわずかばかりの時間を要する。男の体内の毒が完全に死をもたらす前に……間に合ってくれ……っ! 少年のその願いが通じたのか、閉じようとしていた男の瞳が光を取り戻した。
倒れたまま、男が指先をわずかに動かそうとする。……動く……! 解毒が効いたことを悟った瞬間、男は瞬時に身を起こし、少年から離れるように飛びすさった。
男が喉を押さえる。息ができる。両手のひらを見る。震えはない。視界も良好だ。顔を前に向けると、男が助かったことを心から喜んでいるといったように少年が顔をほころばせていた。少年の行為の意味を理解しかねるといったように、探り探り、男が問う。
「どうして……オレを助けた? 銃で撃つなり、あのまま放っておくなりすれば、きみはオレに勝てたんだぞ……?」
その問いに、少年は顔をうつむかせる。振り絞るように、つぶやきを漏らした。
「……そう……かもしれませんね……」
「なら、どうして⁉」
男が吼えた。
ポタリ。少年が床に涙を一粒こぼす。
「だって、天使候補生さんにだって、お母さんとかお父さんとか、好きな人とか、大切な人がいるはずです」
「……⁉」
「どんなことをしてでも天使になりたいのだって、もっと幸せに人生を暮らしたいからって、そう思ってのことのはずです」
「…………」
「そう考えたら、天使候補生さんだって、俺と同じ人間なんだって。だったら、殺しちゃダメだって、そう思ったんです……」
ポロポロと涙を流す顔を上げて、しかし心からの喜びの笑みを浮かべて、少年は言った。
「良かった……天使候補生さんが死なずに済んで……」
「……………………」
ウソ偽りのない心からの少年の言葉に、それまでの邪悪な態度を一変させて、天使候補生の男は深いため息を吐き出した。全身から、心から、戦う力をそがれたように、口を開く。
「……負けたよ……」
「……え……?」
「オレの負けさ。そんなことを言われちゃ、いくらオレでも、もうきみを殺す気にはなれない」
一回肩をすくめて、
「死にそうなところを助けられちまったしね」
「え……じゃあ……」
少年が声を掛けようとする前に、男は立ち上がる。そうそう、と思い出したように、懐に手を入れて、取り出したナイフを少年の近くの床に放り捨てた。
「こんなこと言っても信用できないだろうからね。そのナイフと、そこに転がってる拳銃はきみが持っていてくれ。それなら安心だろ」
ナイフと拳銃を顎で示す男に、しかし少年は首を横に振る。
「あ、いえ、俺は武器を持ちたくないんです。だから……」
少年がナイフと拳銃を拾い上げる。するとそれらが淡い光に包まれて、その光がやんだとき、ナイフと拳銃は二個のサクランボに変わっていた。感心したように男が口笛を吹く。照れながらも少年はそのサクランボを口に含んだ。
「これでもう、武器はありません」
「なるほどなあ。きみの能力はそんな使い方もできるんだね」
サクランボの種を一度手のひらの上に出して、床に捨てた後、少年は男に聞いた。
「でも、戦わないならどうするんですか? どちらかが死なないと……」
「おいおい、忘れたのかい? この戦闘のルールじゃ、十秒以上、戦場の外に出ていても負けになるんだぜ」
「え、でも、どっちが……」
出るのか、少年がそう問おうとするより前に、当たり前だというように男が答える。
「オレが出るさ」
「でも、それじゃあ、天使になれなくなっちゃうんじゃ……」
「はははは。水くさいこと言うなよ。きみが何と言おうと、オレが外に出る。恩返しってわけじゃないが、それが、オレを助けてくれたきみに対するせめてもの償いだ」
それ以上少年が何か言うより前に、男は彼に背を向けて、倉庫の出口へと歩き出した。一歩、また一歩。その歩みに揺るぎはない。
「じゃあな、ヴァレーくん」
背中越しに、男が手を振る。
去り行くその背中を見ながら、少年の心に感傷が沸き上がっていた。
――これで、やっと終わる、すべて――
自分が生き残った喜び。相手を死なせずに済んだうれしさ。のみならず、敵対していた対戦者と分かり合えたという感動。それらの感慨に一筋の涙を流しながら、少年は開いた天井を見上げた。まるで彼らの戦いと清廉さを讃えるかのように、雲間から光が差し込んでいた……。
――その一瞬の隙を、男は待っていた――
「ナイフが一本だって、オレは一言も言ってないぜえッ!!!!」
男は瞬時に振り返り、懐から取り出したナイフを、少年へと投擲した。ナイフは少年の足へと突き刺さり、「あ゛あ゛ッ゛!」少年が床へと崩れ伏す。口元に邪悪な笑みをたたえ、懐から三本目のナイフを取り出しながら、少年へと歩み寄っていく。
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