第30話 遠慮しないからね!
初めて、人にキスをされた。
ほんの少し、頬を撫でるくらいの軽いものだ。きっと外国ならば、親しい人への挨拶にも満たない。誰も気に留めさえしないだろうほど、浅いもの。
けれど、ここは日本だ。どれだけ一瞬だろうと、それは大きな意味を持つ。大事な人からされたなら、ことさらだった。
早姫姉が、俺のことを異性として見ていた。あまつさえ好きだと言って、キスをくれた。こうして振り返ると、全部作り話みたいに思えるのに、頬に灯った熱はそれが本物であることを雄弁していた。
冷たいシャワーを顔に浴びてみても、すぐにまた火がつく。
食事終わり、俺は逃げ込むように風呂場へと来ていた。他に部屋のないワンルームだ。唯一、長時間、一人になれる場所だった。
沸かしたお湯に浸かりながら、天井を見上げる。何度目かの深呼吸をして、目を閉じた。高鳴る胸との戦いに集中するためだ。どうにか抑えて、とりあえずでもいいから、平常心を取り戻したかった。
外に出れば、また早姫姉とは顔を合わせるのだ。朝も、昼も、夜も会う。このままでは、ゴールデンウィークまでさえ、まともに暮らすこともできそうにない。
深い息を繰り返す。もはや修行僧の気分。全身から汗が滲み出した頃、カチャと音がした。
扉のロックが緩む音だ。
やや立て付けが悪いらしく、風呂場の扉はたまに勝手に開く。閉め切ろうと目を開けて、点になった。
「こうくん、お邪魔するね♪」
半裸、それも頼りない薄手のタオル一枚纏っただけの姉が、そこにいた。
……邪魔しすぎじゃない?
こちとら、早姫姉のことを頭から拭うのに必死だったというのに、本人が目の前に来てしまったら、どうしようもない。
それも、美貌を惜しげもなく曝け出しているときた。
胸はタオルをはちきらんばかりに盛り上がり、ヒップラインは艶かしく曲線美を示す。
無防備かつ、暴力的な攻撃力だった。
勝ち目はない。でも、抵抗はしなければならない。
俺は目一杯湯をすくって、彼女の顔めがけて、かける。
「俺の努力返せ! 俺がどれだけ悩んでだと思ってんだ!」
見事に命中した。ただ効果は今ひとつのようだ。むしろ、早姫姉の子供心スイッチを押してしまったらしい。
「おっ、やる気〜? お姉ちゃん負けないよ! 食らえ、水シャワー!!」
「卑怯がすぎない!? って冷たいから!」
「湯船に顔沈めたって無駄だよ〜♪ 水攻めだ〜」
交戦、いや一方的に虐げられる。が、降参とも言い出せず、泥沼のやり合いを続けること五分。
「まだまだやるよ〜!」
激しく動いたからだろう。早姫姉は、なお扇情的な姿になっていた。
タオルが右側だけずり落ちて、たぶんギリギリ大きな房に引っかかっている。背中で止めていた結び目は、ほどけてしまったらしい。
「早姫姉、とりあえずタオル! 早く結び直して!? 俺、壁の方向いてるから」
「……こ、こうくん。見た?」
「見てない見てない、断じて!」
本当である。巨乳のおかげで、タオルは落ちず、貞操を救われたのだ。
「み、み、み、見てもよかったんだよ?」
「見たらよくないだろ、先生」
「む、ここでそれを持ち出す方がよくないよ。今は一人の女の子だもん、普通の女の子」
「……普通の女の子は、男の風呂に入ってこないと思う」
「それはー…………別腹ってやつ?」
「俺はスイーツかよ! もう少し恥じらいを持ってだな……」
「でも、さっき遠慮しないって言ったもん」
「遠慮しない、ってそういうことかよ!」
少なくとも、遠慮はせずとも配慮はしてほしかった。俺はナイーブなおセンチボーイなのだ。
綺麗な女の人の裸を見て、平常心でいられるほど、できていない。
「こうくん、大きな腕になったね。太い腕!」
「……どこがだよ。どっちかって言うと、筋力ない方だよ」
「昔と比べたら、だよ。胴体も大きくなったし、あと……」
早姫姉は、湯船の淵に手をかける。湯の中を覗き込もうとしてきたので、俺はとっさに手で覆った。両足も固く締める。
早姫姉はそこでやっと自分の行動の大胆さに気づいたらしい。頬を朱色に染めて、それから湯船に顔を思いっきり埋めた。
な、なにごと? 戸惑いつつも、危ないゾーンだけは守る。男として、最後の防衛ラインなのだ。
早姫姉が水面から顔を上げた。くじくじと歪んでいる。
「……ち、ちがうの。お姉ちゃん、足を見るつもりだったんだ! 誤解しないでね。別に見ようとなんて。別に大事なところは、別におーーーー」
「言うな!!! もうそれ以上言うな!!」
うん●なんてワードを平気で口にするのだから、早姫姉なら言いかねない。
俺は、フックにかかっていたシャワーを取ると、彼女の顔に向けて浴びせかける。
「きゃっ!」
勢いは大したことなかったが、災いの元たる口を封じ込めることはできた。
「私が使うの! こうくん、返しなさいっ!」
しかし、しぶとい。早姫姉は目を瞑りながら、手探りにシャワーを奪おうとする。俺は俺で、この武器の有用性はよく分かっていた。なんとか渡すまいと、高く上げてみたり左右に動かしてみたりする。
結果。
「こうくん、動けないよぉ」
「なんでそうなる……?」
早姫姉の身体に、ホースが巻かれる形になった。身体のラインに沿って、蛇とかその類の生き物が這っているように見える。
一部マニアに受けそうな、危険な絵面になっていた。
「……責任とってよ、私をこんなにするなんて」
「とれるか!!」
解こうにも、いかんせんホースのほとんどが、早姫姉の柔肌に食い込んでいる。
健全な男子としては、触れずに対処したかった。
やや強引にヘッドを引き寄せる。
すると、根本から水飛沫が上がった。ホースが、弾け飛ぶ。
早姫姉の身体からも、カランからもだ。早姫姉を軸にホースはくるくる回った後、床に落ちる。
水のトラブルであった。狭い浴室全体に、熱い湯が飛び散る。
二人、四方から小雨を浴びる。凄惨なことになっていた。
「……こうくん。責任とってよ?」
「むしろ、とってくれないかな?!」
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