第26話 迷楽(431日前)
和尚さんは手にかけて脱ごうとしていた袈裟から手を離し、体ごと俺の方に向けた。
「それで、ご相談というのはどのようなことでしょうか?」
優しい口調で話しかける。
「言いづらいことなのですが……」
一瞬口を塞ぐ。相談といっても、俺が死ぬことは真夜以外は知らないはずだ。和室とリビングは襖を隔てて繋がっているため、下手に大声を出したら大騒ぎになりかねない。余生をこんな騒動で汚したくはない。
「あの、他の人たちに知られたくないことなので、秘密を守っていただけますか?」
こそこそ声で、和尚さんの耳の近くで囁く。年寄で聴覚が弱っているのではと心配したが、ちゃんと聞き取れたようだ。
「ええ、もちろんです。お約束します。」
同じく小声で返してきた。俺は安心し、少し体を前に傾けた姿勢で座り直す。
「実は、俺はあと400日強ほどしか生きられないんです。」
和尚さんが驚いた顔で俺を見つめる。
「おや、何かのご病気ですか?」
この答えには悩んだ。占い師にそう言われたから? 信憑性がない。どれだけ仏に身を捧げる和尚さんでも、「あなたはあと何日で極楽へ召されます。」とお告げを聞いたら信じはしないだろう。
しばらく黙って答えを探っていると、雰囲気で察したのか和尚さんが先に切り出した。
「わかりました。複雑な事情がおありなのですね。さぞ複雑な思いでいらっしゃることでしょう。」
俺の立場を理解してくれたことに安堵した。和尚さんがはすごい。こういう時でも笑顔を絶やさずに相談者に寄り添うのだから。
「それでなんですが…… 俺は後悔を残さないで死にたいんです。やりたいことがたくさんあって、人生を楽しみ尽くして満足して一生を終えたいんです。
ですが、俺は死を宣告されてから最初の2ヶ月はただだらだら過ごしてしまって、それで今、早いうちにやりたいことをやっておかなかったことを悔やんでいるんです。」
和尚さんは文章末ごとに優しく頷く。俺が一通り話終わった後で、和尚さんは俺に近寄り、そっと俺の左肩に右手をおいた。
「なるほど、それは大変でしたね。そうですね、後悔しないで極楽へ行くというのは大切なことです。仏教の教えでは、あなたの魂は死後でも生き続けていますからね。しかし、後悔を一つ残さず死ぬというのもなかなか難しいことなのですよ。」
俺ははっとし、気づけば俯いていた頭を上げて和尚さんの顔を見る。
「あなたは人生を楽しみ尽くして一生涯を終えたいと述べられましたね? その心意気は本当に素晴らしいものですよ。ただ、ここで申し上げるのもなんですが、人生というのはそう思い通りにいかないものなのです。その道中ではいつだって苦労や悲しみなどが付き添います。
死ぬにあたっては、おそらくたくさんの方々に必然的に迷惑をかけてしまいます。しかしここは、人生最後の
俺は遠くリビングで待機している家族や親戚をチラリと見る。この人たちは俺が死ぬことを何1つ知らない。何も知らされずに俺が死んだ時、今の皆の楽しそうな顔はどんなふうに変わってしまうのだろうか。
これでも立派な迷惑だと言い聞かせようとするポジティブな自分と、こんな迷惑はかけたくないと否定したい自分が心の中で対立していた。
ふと、俺の状況を確かめようとした愛海と偶然目があった。俺が突然死んだときの愛海の泣き顔を想像したとき、俺の目で洪水警報と避難指示が発令された。
俺はとっさに愛海との視線を逸らし、涙目を必死で隠そうと試みた。仏壇の方を向き、頑なに肩を揺らさずに我慢する。
心配してくれた和尚さんが汚れのない紫のハンカチを俺に差し出してきた。俺は感謝しつつハンカチを両手で受け取り、頬にまで垂れ落ちた涙まで一気に吸い込ませる。顔全面に当たったハンカチには、和尚さんなりの暖かさがこもっているようだった。
ようやく普段の冷静さを取り戻し、少し頬に熱を感じながらも再び和尚さんと向き合う。
「あなたは十分強いお方ですよ。おそらくあなたがお亡くなりになられたときの家族や親戚の顔を想像して涙を堪えきれなくなったのでしょう。
しかし、あなたはそれでも私と向き合ってくださいました。目の前に現実を突きつけられ話を聞くところではないという方が多いのですが、あなたは死という問題に直面しても尚、前を向こうとしていますね。
後悔を残さないためにはとても大切なことです。それだけの覚悟をあなたは持っていますから、きっと辛いことも乗り越えられるでしょう。」
俺は照れながらも、小さく頷く。
「そして、あなたは死を宣告されてからの2ヶ月間をダラダラ過ごしてしまったことをお悔やみのようですね。
人間というのは強欲な動物です。死という受け入れられない現実を最初は頭から消し去りたいと考えるのは、人間として全くおかしいことではありませんし、決して恥じるべきことでもありませんよ。先ほども私が申した通り、あなたには死と向き合う勇気が十分備わっています。心配することはありません。
そして今から失った分を取り戻すのも遅くはありませんよ。楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、辛いことも、必ず懐かしい思い出に変わります。」
俺の目にまた涙が浮かんでくるのがわかる。必死に隠そうとしたが、和尚さんにはバレバレのようで、俺の丸まった背中に手を回して優しく抱擁してくれた。
「全ての終わりは新しきの始まりです。死で何もかもが終わりではなく、そこからまた新しい何かが始まります。悲観的にならずに、最後まで正々堂々と、楽しんで残りの人生を楽しんでくださいね。」
「……. はいっ……」
和尚さんの温もりに包まれながらこぼれ出した滴が、和尚さんの袈裟にぽたっぽたっと滴り落ちていた。
✴︎
「ありがとうございました!」
支度を済ませた和尚さんが和室から退出し、俺ら親族を後に寺へと戻っていった。
リビングから和尚さんの姿が見えなくなったとき、隣で見送っていた愛海が俺に振り返る。
「てかさ、兄ちゃん遅かったよね、ずっと和尚さんと話しててさ。何かあった?」
無垢な質問に俺の心臓から何かが一気に放出され、鳥肌が立った。死ぬことについて話していたなんて絶対口にできない。そもそも普通こんな高校生が和尚さんと話すこと自体が異常か。
「お、おう、あのな、あれは、学校の宿題なんだよなぁ。キャリア学習がどうちゃらこうちゃらで、ある職業の人にインタビューしなきゃいけなくて。そ、それで、皆ケーキ屋さんとか会社員とか身近にいる人取材しがちじゃん? だから、和尚さんっていうさ、だれも取材しそうにない職業にしようと思ったわけですよ……」
その場しのぎの嘘をついてなんとか走りきった。俺にしては上出来な嘘なのだが、愛海はそれでも疑うようで、さらに質問を投げかける。
「じゃあさ、なんで泣いてたのさ?」
脇から一気に汗が噴出する。あれだけ隠そうとしてバレていたとは! 我一生の不覚なり。脳内は一瞬パニック状態になり、思考回路はまともに働かない。まずい、まずいぞ。
「あ、あああ、あれはですね、えー、そのぉ…… 和尚さんが急にさ、『もしあなたの大切な人が亡くなってしまったら?』なんてこと言ってきたからぁ、想像したら泣いちゃってぇ……」
頭がぐるぐるどっかーんしそうな俺を、愛海はしばらく何もかも見透かしていますよと言わんばかりの目で凝視していたが、やがてププッと吹き始め、俺のあたふたしていた腕をペシッと叩いた。
「なぁんだ、兄ちゃん可愛すぎかヨォ!」
腹筋が痛くなるほど笑っている愛海を見つけた渉がすぐに駆けつけた。
「どうした愛海? そんなにもおもろいもんあったら俺にも教えろよ?」
「いや、あのね、兄ちゃんがぁ、和尚さんと話してたじゃん? そん時にぃ、なんで泣いてたのかって聞いたら、『もし大切な人が亡くなってしまったら?』って聞かれて、想像したら泣いちゃったとかマジで可愛すぎてぇ……ぁははは!」
一時的に堪えていた笑いが、終わりと共に爆発した。同時に、渉の悪役のような笑い声もリビングに響き渡る。
「ほう、陽佑はそんなお可愛いやつだったのかぁ! 照れんなよ?」
そう言って俺の髪を乱暴にかき乱す。おかげで、整えてあった俺の髪が朝起きたてのボーボーの状態へと変わり果ててしまった。
俺は頬を紅に染めながらも、窓の外を見る。青い空の中で太陽が容赦なく照りつける戸鐘の町を見てふと気づいた。
ーー全ての終わりは新しきの始まりです。
もはや気づかずにはいられなかった。神の詩は、既に俺の人生をお見通しのようだ。
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