第25話 極浄(431日前)

 日曜日。あれから外の景色が真っ黒のまま変わらない中、俺は1時間半も電車に揺られ続けているために眠気に襲われ、首をコクンコクンとゆっくり上下させていた。


 やがて眩しい光が向かい側の窓からさし、どこかに反射した光が眠気に包まれようとしていた目を叩き起こす。思わず勢いよく目覚めてしまい、俺の腕が不本意に愛海の肩に強く当たる。


「痛っ! もう兄ちゃん気を付けてよ。ほら、もう着くよ。」


 愛海が呆れ顔で俺を面倒くさそうに注意する。俺は目で謝ったつもりで、傾きかけていた背骨をまっすぐに直して座り直した。


 朝7時前に家を出て、最寄りの東稲川駅から日柴方面の電車に乗り込む。途中の太綱寺たいこうじ駅で特別快速に乗り換えた。日柴を通り過ぎると、一面家しかなかった景色がだんだんと森へと変わっていき、やがて電車は長い長いトンネルの中に突っ込んで行った。


 そして出発から1時間半、目の前の開けた高原に大きな集落が姿を現した。今回の目的地、戸鐘とがね町だ。


「あっ、いたいた! いらっしゃーい!」


 戸鐘駅前の小さなバス乗り場の前で俺らに向かって手を振っていたのは、この戸鐘に住む俺の叔母の夏菜子かなこさんだ。母さんの姉にあたる。俺と愛海は夏菜子さんを見つけるなり手を振り返し、彼女の方へと歩く。


「よく来てくれたね、家族総出で。」


「そうねえ、久しぶりだなー。じいちゃんの葬式以来よね、戸鐘に全員でくるのは。」


 母さんが懐かしそうに周辺を見回す。


 木造で趣のある黒い駅舎を持つ戸鐘駅の前には小さなロータリー。その向こうには、個人営業のドラッグストアや青果店が軒を連ねる商店街が奥へと続いていた。いかにも昭和の匂いが漂う、古き良き風情が残る町だ。


「あれ、美保みほさん電車一緒でした?」


 駅舎の方から顔を覗かせたのは、母さんの弟の奥さんの麻希まきさんだった。腕には生後6ヶ月も経っていないような赤ちゃんを抱いている。ちなみに、美保さんというのは俺の母さんのことだ。


「あらぁ麻希ちゃん! 東京から来たんでしょ? 朝早くなかった?」


「ええ。早かったですけど、皆さんにお会いできるのが楽しみで今日は早起きでした! この人は寝坊気味だったんですけどね……」


 そういって、赤ちゃんを抱えている右手の指で旦那さんを指差す。旦那さんの康生こうせいさんは姉たちの視線を避けようと、苦笑いしながら遠くの民家の方に視点を合わせていた。


「まったく、昔から変わんないんだから康生は。だらしないわよ。」


 鋭い目つきで弟を睨む母さんのごもっともな主張に、夏菜子さんがうんうんと厳しい表情で頷く。


「さ、みんな行こうか。おじさんたちも待ってるよ。」


 皆が車に乗り込み、俺らは駅を離れた。


 ✴︎


 会場となる祖父母の家には、既に大勢が揃っていた。


「おお! 陽佑と愛海よく来たな!」


 今か今かと待ち構えていた祖父が、抱きついてくるような勢いで出迎える。俺は反射的に一歩引き下がってしまった。


「こらじいさん、もう2人はそこまで子供じゃないんだから。」


 リビングの方から祖父にブレーキをかけたのは、俺らのいとこにあたるわたるだった。大学4年生で就活もそろそろ関わってくる時期に差し掛かっているが、少々ヤンチーを想像させるような眩しい金髪はまだ健在のようだった。


「よっ、久しぶりだなてめーら。まあ上がれよ。」


 祖父は孫から期待通りのリアクションを得られず、ショボンとしながら一人リビングへと消えていった。


「いらっしゃーい。あ、愛海ちゃん! 背伸びたー?」


「お、愛海のそのワンピかわよー!」


 リビングですし詰め状態にされていた親戚の最初の言葉の多くが愛海に向けられたことに俺は少し落胆した。


「まあそんな拗ねんなって。お前だって成績はオールAの「ある意味リア充」だろ? 落ちこぼれてた俺よりはマシだろ。」


 ガハハと笑いながらから俺の肩を叩く渉にそう励まされてもあまり嬉しくない。俺よりも断然背が高い故に、威圧感もある。


「あとひいじいちゃんにもちゃんと挨拶しろよ?」


 渉はリビングに接する畳の間におかれている仏壇を指差す。法事のためか、いつもみる仏壇よりもお供え物であったりろうそくが多い気がした。そして仏壇の前には座布団が敷き詰められている。


「ひいじいちゃん、ただいま帰りました。」


 お鈴を鳴らして、俺と愛海は静かに手を合わせた。


 母方のひいじいちゃんは、戸鐘でも有名な開業医だった。色々な分野に長けており、都会の病院に行かずともひいじいちゃんに助けを求めれば治せない病気はないとまで言われていたようだ。


 そのせいか、最初の頃はいつもひいじいちゃんは忙しかった。家族で戸鐘に遊びに来ても、仕事のせいで顔をあわせる事ができない事も多かった。会えても最大で2時間ほどで、まだ幼い俺からするとあまり関わりのない人物だったかもしれない。


 やがてひいじいちゃんは高齢のため、適任の後継を見つけて医者を引退した。その時既に87歳だったというから驚きだ。その後は家で老後を過ごし、あまり関わってあげられていなかったひ孫にも積極的に関わろうとしていた。


 そんな感じで老後を過ごしていたひいじいちゃんだが、俺が10歳の時に大腸癌が見つかった。見つかった時点でかなり進行しており、抗がん剤治療を受けても病状は悪化するばかりだったと言う。


 緊急搬送されてわずか10日後、助かることはなく、ひいじいちゃんは93歳で亡くなった。


 葬式で真っ白な、もう動かない顔を見ると涙が自然と出て来たのを覚えている。少しやんちゃしていた当時高校生の渉も、近い人の死には悲しみを堪えきれないようだった。


 ✴︎


 お昼を食べ終わってゆったりしているうちに、家のインターホンが鳴らされた。夏菜子さんがドアを開け、来客をリビングに通す。現れたのは、紫の装束に身を包んだ和尚さんだった。


「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。」


 合掌する挨拶から高潔な匂いがするが、細く開けられた目からは誰に対しても寛容そうな優しさを感じた。俺はどう反応していいかわからず、ただ浅く首を下げるに留めた。


 夏菜子さんの誘導で座布団に座り、儀式が始まるのを待つ。次第に和室が線香独特の香りに包まれた。沈黙が続き布と布が擦り合わさる音しか聞こえず、空気が張り詰めている。


 手元にはお経が書かれた小さな本。中を見る限り、古典並みにスラスラと読めるようなものでもなさそうだ。


「それでは、始めます。経本の一〇五頁です。」


 和尚さんはさっきの紫の着物の上に金色の袈裟をまとっており、不思議な雰囲気を醸し出している。和尚さんは親族に一礼した後、くるっと仏壇と向き合い、厳かにお経を読み始めた。


「如是我聞 一時佛 在舍衛國……」


 揺れるようなな読み上げ声と、お鈴のチーンという音が部屋にしみじみと響き渡る。


 ✴︎


 お経が止み、再び和室には元の静寂が帰って来た。和尚さんは最後まで精神を集中させた様子で、俺らへと体を向けた。和尚さんは優しそうな目で笑みを浮かべ、包み込むような語り口で話し始める。


「えー、7回忌というのは故人が亡くなってから満6年が経った時のことを言いますが、皆様はこの6年間でこれまでの願いをを叶えられたでしょうか。


 例えば、中高生などの学生さんであれば「大学を卒業して就職し、安定した生活を送りたい」、企業にお勤めの方であれば、「管理職に出世したい」、さらに老後であれば、「働き盛りの時に行けなかった場所に行きたい」など、色々な例が挙げられます。」


 老後の例を聞いた時、なぜか俺は少し前のめりになった。


「これからお話しすることは、二郎さんの葬儀の際、御参列されていたある方からお聞きしたお話です。


 私が聞いたところによりますと、本日7回忌を迎えられた二郎さんには、1人の命の恩人がいらっしゃったようです。なんでも長野でのハイキングの際、崖から転落しそうになった二郎さんの手を握り、引っ張り上げたということがあったとか。」


 ひいじいちゃんをよく知る親戚数人が頷く。そんなに有名な話だったのだろうか、俺は残念ながら聞いた覚えはない。


「二郎さんは医者を引退された後、ようやく自由に過ごせる暇を使い、助けてもらった恩人にもう一度お礼を言っておきたいと、懸命にその方の行方を探っておりました。


 そしてある時、ツテを辿って得た情報から、その方が八王子にお住まいの方だとわかり、二郎さんは急がんとばかりに東京へ向かいました。


 しかし、二郎さんが八王子を訪れた際には、その方はもう10年以上前に亡くなっておられたことがわかりました。ろくに礼も言えず、二郎さんは高尾山の麓にあるその方のお墓の前で、ただ静かに手を合わせたそうです。」


 夏菜子さんがハンカチで涙を拭う。ひいじいちゃんを近くで見てきた夏菜子さんには、その光景がありありと浮かんできたのだろう。知らなかった、そんなことがあったなんて。


「それ以来、二郎さんは少しでも早くお礼を言いに行くべきだったと後悔していたようです。二郎さんがお亡くなりになる数日前、最後にお見舞いに訪れた親族の方々にも、こんなことをおっしゃられていたそうです。


 ーー後悔だけは、死ぬ前にするな。」


 周囲の大人たちが数人俯く。母さんも一度お見舞いに行ったことがあるらしいが、その時にはすでに肋骨が浮かび上がり、顔も痩せこけた、変わり果てた姿だったと言っていた。想像するだけでも、胸が締め付けられる。


「二郎さんもおっしゃっていた通り、後悔を残さない。これが生を全うする上で大切なことではないかと私は思います。大丈夫です、極楽浄土から二郎さんがあなた方を見守ってくださっています。」


 そう言って、和尚さんは右手と視線を上に向けた。そこには明るい電灯と板天井があるだけのはずなのに、何かが輝いているようにも見える。天井の木目も凝視していると、細く優しそうな目が浮かんできそうであった。


「……と少し長めの法話となってしまいましたが、私の話に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。」


 和尚さんが両手を畳につけ、鼻が畳についてしまいそうなほど深く礼をする。俺は首を動かさず、ただ下を向いたまましばらく考え事をしていた。


「以上となりますので、お席を外していただいて結構です。」


 解散の合図で、皆が立ち上がり始める。ずっと正座を保っていたせいか、足の痺れで皆の歩き方が所々滑稽だった。


 全員が部屋から退出しようとするなか、俺はそんなことには目もくれず、帰りの支度を始めようとしていた和尚さんに躊躇なく声をかけた。


「すみません、あのぉ……」


「おや、なんでしょうか。」


 和尚さんは嫌な顔一つせず、柔らかい眼差しで俺の目を見る。


「1つ、ご相談があるのですが。」

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