第22話 交査(449日前)

 迎えたこの日。いつもとは違う不気味な空気が充満している教室で、いつも通り呑気に喋ってるやつはいなかった。一部は仲のいい友達と答え合わせをしつつも勉強はしており、他は皆、通常よりも切り離された感の強い自分の机に向かって、自分がカバーすべき内容を頭に詰め込んでいた。


 2学期中間試験。中間とはいえ、油断は許されない。仮にここで点を大幅に落としたとしても期末で挽回することは十分に可能だが、この試験も成績に大きく響く。受験が遠いような1年生にはまだそういう実感はないだろうが、大学によっては1年からの成績も見られるため、このテストを棒に振ることはできない。


 やがて朝の教室にチャイムが重く鳴り響く。颯爽とあの小野田っちが入室してきた。覚えているだろうか、我らが担任を。まだまだ独身の担任小野田は、これまでの期間中いつもの仕事の傍ジムにも通っており、少し小太りのようにも見えた体は少し痩せかかっていた。まあ、コワモテは変わらんが。


「えー、ついにやってきました期末試験です! いつもの仲間も、この期間中に限っては良き敵となります。皆さん、正々堂々戦うことを誓いますか!?」


 シーン。


 俺らは緊張に満ちた目で、担任にわかりにくい程度に目を細めた。なんで緊張してるかって? なんせ最初の時間が保健だからな。


 保健といえば一番の落とし穴だと言っても過言ではない。いつも数学や古典や世界史や、メジャーな科目ばかりを重点的に復習していると、どうしてもこういう科目を忘れがちにしてしまう。しかもテストの点でほぼ成績が確定するため、この科目だけDなんてことになったら情けないのだ。


 俺も例外ではなかった。試験2日前になって、ようやく思い出したのだ。すぐ覚えれば良いわけでもない。保健なりの難しそうな単語が脳みそを混乱させるのだ。なんだよ、カーラーの救命曲線って。


 俺は小野田っちが逃げるように退出した後の時間をフルで使って、残りまだ復習が終わっていなかった箇所を全面的に詰め込もうとした。が、願い叶わず。試験官が入室する合図のチャイムは俺の耳の中で虚しくこだました。あーあ、あと10ページぐらい読ませてくれよ……


 ✴︎


 結局、満足行く結果になったわけではない。まあ80点は取れるだろうが、いつもの俺にしてはツメが甘かったようだ。問題を解く気力を失った俺は、その状態を保持したまま次の科目へと突入していった。


 2時間目、世界史。世界史ならまだ解ける方だ。なんせ真夜にも教えてやったんだからな。俺は自慢げにちらりと真夜の方を見た。落ち着いた様子で、じっと前を向いて沈黙を貫いている。精神を集中させるためか? 見てたらなんか怖い。


「それでは、始めてください」


 チャイムとともに、試験官が厳かな口調で開始を告げた。教室中にテスト用紙を裏返す音が響き渡ったのち、静寂が訪れる。


 問題は結構簡単だったように思える。先生は難しい問題を出しますとか言っていたが、難しいといってもこれぐらいですか…… もうちょっとレベル上げてもらっても構わんかったのだが。「ロベスピエールがどのようにして処刑されたかを記述しなさい」とかさ。


 なんて頭いいぶっていたことを後悔した。大問5の(2)。


「アステカが滅んだ時の国王の名を答えよ」


 俺の世界史の先生なんてのは結構こういう問題を出す傾向にある。授業では言っていなくても、資料集の片隅に載っているような「知らねえよ」としか言えないような名前を出したりするのだ。くそ、結構試験を舐めていた。あんなことほざくんじゃなかった。これは…… これはなんだったけな……


 ✴︎


 まだ喉に液体が詰まった感じがしながら、俺と真夜はカフェオレを挟んでお互い顔を赤らめていた。ちょうど1週間前、ばったりカフェで真夜と遭遇して一緒に勉強した時だ。


 俺は気まずさを感じながらも、手に持っていた真夜のカフェオレをゆっくりと机に置いた。真夜は恥ずかしいのか怒っているのかよくわからない目を俺に向けていた。


 何も口から出て来ずに、俺は気づかれにくいように視線を真夜からテーブルに置かれた課題へと向ける。自然と真夜の視線も宿題に戻ったようで、変な雰囲気はしばらくすると消えていった。


 しばらくすると、俺は範囲指定されていた数学をほぼ全部解き終わった。難しいマークがついている問題なんぞ、犬と猫の絵を見比べて、「どちらが犬でしょう?」と聞かれているのかと思うほど簡単なものだった。


 向こうの柱に見えるちっぽけな時計に目をやる。もはや5時も過ぎていたが、親が帰宅して晩御飯を食べるまでにはまだ2時間弱と結構時間が余っている。家に帰ってもいいが、ギターは弾けないわ腹が減って力が出ないわで結局何もメリットがないと思った俺は、ついでに持ってきていた世界史を対策することにした。


 本来、他の普通の高校であれば、こういう時期にはすでにフランス革命を終えて、テスト範囲としては産業革命当たりを勉強しているのではなかろうか。しかし我らが世界史の先生は、倫理的な話に3時間割くような人間であるため、未だフランス革命のフも見えていな状況なのだ。


 大航海時代、スペインやポルトガルが新世界に進出し始めた時代。俺らのテスト範囲はそこだった。別の高校に行っている生徒にこのことを話すとびっくりするだろう。


 早速ワークを開いて、穴埋めを始める。


「…… スペインは積極的に中南米に進出していくことになる。1521年、(① エルナン・コルテス)が(② アステカ帝国)の首都(③ テノチティトラン)(現在のメキシコシティ)を包囲。3ヶ月もの攻防の末、(② アステカ帝国)最後の国王(④  )を捕らえ、(② アステカ帝国)は滅亡した。……」


 ④がどうしてもわからない。教科書にはこんなこと書いていなかったはずだ。今は不幸なことに何でも書いてある資料集もないし、携帯で調べようにも、実は充電が残り5%と使い難い量しか残っていなかった。


 そうだ、真夜がいるではないか! メキシコ帰国の真夜ならこれはわかるかもしれない。


「真夜、ここわかんないんだけど」


 気まずい雰囲気などすっかり吹っ飛んでいた俺は、何の躊躇もなく真夜に尋ねる。突然俺の言葉を聞いた彼女は、なぜか最初ビクッとして目を大きく見開いていた。


「ここ。アステカの最後の国王の名前」


 真夜はやっと正気に戻ったのか、俺のワークを覗き込む。


「クアウテモックだよ。そりゃメキシコの英雄ですから。メキシコシティには銅像もあるよ」


 自分のワークに書かれたクアウテモックという名前を見て、なぜか嫌な予感がしていた。


 ✴︎


 頭から1週間前の記憶を引きずり出した頃には、すでに5分経過と大幅なタイムロスをしていた。紙に書かれたクアウテモックという名前を見て、今度は安心感が心の中に行き渡った。


 10分後には記述問題も終わらせ、難関として恐れらている世界史のテストを、15分程の余裕を持って終わらせることができた。解答を見直して、空白がないか、うっかりミスがないかを入念にチェックし、俺は肩の力を約40分ぶりに抜いた。


 といっても、早く終わって見直しもしたとすると結構暇なものだ。終わるまで寝たり、時計をぼーっと見て分針がゆっくり動くのを見届けたり、カンニング程度にバレないように外を眺めて時間を潰す人もいる。


 俺はいつもは寝る派だが、クラスの中でポツンと一人で寝ているというのもなかなか気がひける。中学の時の話だが、終了のチャイムが鳴り「やめ」の合図があっても尚、解答用紙を枕にしてグースピ寝ていたことがある。なかなか厳しい先生が俺を起こした時には、すでに周囲の笑い者にされていたようだった。


「あいつバカだな、田川のテストで寝るなんてよ」


 今でも黒歴史における名言が脳裏に蘇ってくる。


 黒歴史のループ防止のため、俺は顔をあまり動かさず、周りがどんな風にして過ごしているのかを見てみることにした。今回の試験官はよく席の間を歩き回ったりするため、監視の目は通常より鋭い。注意せねば。


 俺が眼球を動かせる範囲内にいるやつらは、大抵寝ていたり、まだテストを解いていたり、あるいは問題用紙にお絵描きしていたりしている。小学生の頃はよく絵を描いたもんだ。懐かしい。


 大胆に横を見たりするとカンニングを疑われたりするため、俺は髪が邪魔になった風を装って顔を右に振り、右と右斜め後ろを一瞬だけ見た。寝てる。ペンも動かさずにぼーっとしてるし……


 ふと真夜と目があった? 確かにあった気がする。俺が見た時にはちゃんと俺の方を向いて、すぐに自分の答案を確認しているような素振りに戻った。


 一瞬の視察を終えた俺は寝ようと思い、窓を向いて腕枕に頭を置いた。


 窓に反射した俺の顔は、なぜか少し赤くなっていた。

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