第19話 汗数(456日前)

 そう言えばもう10月に入っていたか。10月といえば中間テスト。1ヶ月後には期末テストがあるわけだから、せめて1つにひっくるめるか、中間と期末の間をもう少し長くしてほしいと思う今日この頃だ。


 テスト1週間前に突入し、周りはどんどん試験ムードになって来ている。休み時間でも遊ぶ人はいるものの、やはり勉強に時間を費やす人も少なくない。2週間前頃から真夜から仕事の連絡も入らなくなった。初めての定期試験だからだろうか、入念に準備するようだ。俺はそんなに準備しなくとも点を取る自信はまあまあある。


 小学校の先生に、「蓮田くんは記憶力がいいですね」と言われて以来、習ったことはすぐに頭の中に入ってはすぐに引き出すことができた。このどちらかというと良い記憶力のおかげで俺はこれまでテストでも85点は下回ったことがない。


 と言いながらも何も勉強しないでテストに挑むのもかなり問題で、これで点が取れませんでしたなんてことになったら情けなさすぎる。学校では自習室でも教室でも雰囲気的に集中できない。家には愛海がいて邪魔される可能性もある。考えた挙句、俺は東稲川のカフェに行くことにした。


 この前真夜にコーヒーを奢ったカフェは、電車の音が少し聞こえるくらいだが、ほとんど混んでおらずとてもこじんまりとした雰囲気だった。木をふんだんに使った店内に入ると、どこか森の中に入ったような感覚に陥るのが俺は好きだ。本桜山のカフェよりも落ち着いているから、俺が課題を片付けるのにはうってつけだ。大学生とかも勉強してるんだし。


 俺は今日はいつも頼むカフェラテではなくアイスカフェオレを注文した。ホットでもよかったが、実はアイスはホットよりも少し量が多く、同じ値段だと考えるとアイスの方がコスパが良い。


 俺は真夜と座った席の近くに座ることにした。ソファー席と椅子席が向かい合っている席で、俺は着て来たジャケットを椅子に掛け、リュックを足元に置いてソファーにドスッと座り込んだ。


 リュックから課題やワークを引っ張り出し、筆箱からシャーペンを取り出す。黒いストローを紙の袋から取り出し、コーヒーの中に挿してアイスカフェオレを一口吸い取った後、早速数学の問題に手をつけた。ほう、2次関数ですか……


 ✴︎


「あれ、陽佑!?」


 周りの音が聞こえなくなるほど数学に集中していたらしく、俺は掛けられた声にハッとして俺を呼んだ声の方を向く。


「真夜!?」


 周りの人から睨まれそうなほどのボリュームだった。あーもう! 集中力切れちまった。驚きで、あまり飲んでいないカフェオレが少し、コップの外側をツーっと伝ってトレイの上の紙に着地した。


 気づけばあたりは人が多くなって来ており、俺が覚えている限りさっきまで空いていた席は埋め尽くされ始めていた。見渡す限り空席はほとんどなくなってしまっており、真夜は座る席を探している最中に俺を見つけたようだ。


「席…… 空いてないの?」


 俺はこぼれたカフェオレを拭き取りながら聞いた。真夜は何も言わず、うんとだけ答える。真夜は背中にリュックを背負っており、俺と同じく勉強しに来たようだ。


「いいよ、その席座って。ジャケットもらうから」


 自分でも考えていなかった言葉が口から飛び出した。真夜だからだろうか、女子を相席に誘うことになんの緊張も感じなかった。自分でも不思議なくらいだ。


 真夜は椅子に掛けてあったジャケットを俺に渡すと、お上品な置き方でトレイを置き、お上品に椅子に座った。これを見ると、転校して来たばかりの真夜を思い出す。あの頃は色々とぎこちなかったな。それでも1ヶ月前か。自分でもびっくりした。


「あ、私のトレイ片付けてくるね。流石に邪魔でしょ?」


 よく見れば、テーブルの上には俺の課題とトレイ二つですし詰めになっている。


「いや、俺の片付ける。濡れてるし」


 せっかく真夜が前に座ってくれたわけだから、気を使わせるわけには行かないと思った。俺はさっきカフェオレで濡れたトレイを持って席を立ち、近くの返却棚においた。


「陽佑のやつも置かせてもらうね」


 帰って来てよく見れば、真夜が注文したのもアイスカフェオレで、しかも同じサイズ。カフェオレがトレイの上に二つ…… 取り違いが起きそうで怖い。とりあえず俺のが俺の席から見て右にあるやつ、だよな。


 真夜はストローから少量のカフェオレを吸引したあと、気合が入ったかのように課題と向き合い始めた。


 俺はソファー席に腰をかけ、途中で止まってしまっていた問題に再び手をつけた。が、わからなくなる。真夜が俺を突然呼んだせいで、頭の中で完璧に構成されていた式が全部吹っ飛んだようだ。


 ✴︎


 俺ら二人は周りのお喋り声を遮断したかのように、周囲とはまるで空気が違う中で勉強に打ち込んでいた。先ほどの集中力が蘇って来て、数学の問題がスラスラ解けていく。目の前にあるはずのカフェオレと真夜の存在も忘れ、俺は自分の世界に打ち込んでいた。人間とはすごいし怖いものだ。


「あのさ、ここ…… わかる?」


 集中の糸が真夜によってプツンと切られる。前を向くと、自主課題として出された世界史のワークが広げられていた。俺は今数学をやっているんだ、文系の学問をここでぶっこむなよ。


 真夜がシャーペンの消しゴム側で指した問題は、大航海時代についての問題。ヨーロッパ人として最初に太平洋を発見した人物はだれか。俺はすぐにピンと来た。


「あーそこね。バルボアだよ」


 真夜は俺の言っていることがわからず、首をかしげる。習っていないのか?


「スペインの探検家で、パナマを横断して太平洋を「発見」した人。でもなんか途中で残虐行為を働いたとかで…… 先生言ってなかった?」


 実際のところ、バルボアは探検の途中で先住民に対して虐殺を行ったりしたことなどにより、総督を解任された挙句、部下に捕らえられ処刑されてしまう。バルボアの行為について当時のヨーロッパ人が先住民に対してどんな考えをしていたかということについて、世界史の先生が3コマ使って長々と説明していた。もともと倫理の先生らしく、こういう話になってくると熱が入っていた。俺らからしたらもうたまらないほどつまらなかったが。


「へぇーすごい! 陽佑って成績どれくらい?」


「どれくらいっていうのは?」


 成績を安易に他人に教えるわけにもいかない。


「じゃあ…… Aいくつ?」


「Aは7つあったかな」


 エェーと真夜が声を漏らす。そこまで意外だったか?


「いやもうすごい、ひみのみたいだね! あ」


 突然真夜の口から飛び出た言葉に俺は一瞬時が止まったかのようにフリーズした。小笠原…… あれからどうなっていたっけな。


 あの事件以降、いつも囲まれていたあいつの周りにはほとんど人がいなかった。朝登校しても自分の席に座り、ぼーっと携帯を見つめたまま、まるで俺みたいなインキャになってしまっている。他人に対して強制力を働かせることもなくなり、クラスでの存在感が一気に無になった感じだ。


 あいつの成績は俺とほぼ同じくらいで、Aと少量のBがほとんどを占めている。勉強がわからないと言って小笠原のもとにすがっていた女子たちは、もう一人成績優秀な女子か、もしくは俺のところに流れて来た。友人と呼べる人間を失った小笠原はものすごく反省しているようで、俺は時にあいつが目に入ってはどこか虚しくなってくる。一度すれ違った時は俺を睨むことなく、ただ俯いて俺のそばを通り過ぎて行っただけだった。


「あの後ひみのが謝ってきてさ。私は許してあげたよ。本当に落ち込んでて、もう数日前の面影なんかなかったよ。陽佑にも謝りたいって言ってた。私からお願いとまでも言わないけど…… ひみののこと許してあげられる?」


 凍りついた俺に、真夜がそっと声をかけてきた。俺は数学の問題集とにらめっこしながら考え込んだ。気がつけば自然とカフェオレに手が伸びている。流石に真面目なこと考えたら喉乾くわな……


「ねえ、それ私のカフェオレ……」


 飲んだカフェオレが喉に突っかかり、腕に口を当ててむせた。咳が収まると、慌てて自分が今持っているカフェオレと、トレイに残されたカフェオレを何度も往復して見た。俺のやつは俺から見て右に置いてある。しかし真夜のやつは左にあるが、本来コップがあるべき場所には、ただこぼれた水が円を描いているのみだった。よくみれば、赤いストローにも若干薄い口紅がついている。


 俺は真夜の顔を見て顔がカァッと赤くなった。真夜は俺と目を合わせずに下を向く。顔ははっきりとは見えなかったものの、耳がさっきよりも少し赤に染まっているのが確認できた。


 間接的だが、口づけを交わしてしまったらしい。結華に貼られた「変態」というレッテルは、今でもどうやら健在のようだ。

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