第2話 侵聖

 まだ真夏の熱気が残っているのか、始業式で留守にしていた教室は南国と化していた。いや、アラビアの砂漠という表現がいいだろうか。


 教室に一歩足を踏み入れると、溜まり込んでいた湿気がむわっと押し寄せてきた。あんな長い始業式の後にこれはアウトだろ。


 ✴︎


「だ、大丈夫…… かな?」


 少し気まずい雰囲気の中、額を教卓にぶつけた辻元真夜は、担任に促され、赤い跡が残った額を両手で押さえながらやっとの事で顔を上げた。初っ端からしでかしたヘマのおかげで、彼女の顔は恥ずかしさで紅一色で覆われていた。


 その時彼女を見たものは一人残らず絶対こう思ったはずだ。


 かわいい。かわいすぎる。


 いくら転入生だろうとこれはズルすぎだ。


 俺でもこの可愛さは、理性に逆らおうとも否めないほどだった。


 おいこのクラスの男子ども、目の前に天使がご降臨になられたぞ!


 後ろの変態クズ野郎からは黄金のリングと翼が窓をすり抜け、空へ羽ばたいて行くのが見えた。うん、明らかに。


「…… というわけで、辻元さんは今日から、この4組の一員として一緒に過ごして行くことになります。皆さん仲良く接してあげてくださいね」


 さっきの凍りついた雰囲気は何処へやら、教室は一瞬で拍手の嵐に包まれた。


「それじゃあ、廊下側の一番後ろの席に座ってくれるかな」


 廊下側に座ってる人たちは皆胸騒ぎが収まらないようで、近づいてくるなり一斉に自己紹介を始めた。


 おいおい、あのお方は聖徳太子じゃないんだぞ…… あ、でも天使様だからありえなくもない。


 天使様は一人一人に笑顔で対応したあと、指定された席にやっと腰をかけた。さすが、お上品である。どさっとは座らず、ちゃんと椅子を引き、スカートにしわをつけないように手を添えながらゆっくりと座られた。


 座ってもなお視線と自己紹介を浴びせられる彼女は、笑いながらも恥ずかしそうに対応しているのが、ほぼ反対に座っている俺からも見てわかった。


 問題はこの後の始業式だった。


 小中の時みたいに、整列を繰り返されて、少しの乱れも許されないなんてこともなく、校歌を式の前に十分な声量が出るまで練習させられるなんてこともなく、俺にとってはまだ気楽な方ではあった。


 ただ、だいたいの学校で共通することではあるが、校長の話がとんでもなく長い。覚醒状態を保つ気力を一瞬で失わせる校長の演説力は、先生やPTAの間でも酷評らしい。校長職を降ろされないのが不思議なくらいだ。


 話の内容もコロコロと変わることがほとんどで、入学式の時なんかは、友達の話から急に黄金の話になってそこから自分の好きな食べ物の話をぶっ込んだりしていた。


 しかも先輩の話だと、食べ物話は耳が拒絶反応を起こすほど毎度聞かされるらしく、司会をしている副校長も、「私も食べ物のお話を聞いてお腹が減ってきました」などと頭の悪すぎるフォローしかできない。


 さて、今日はどんな話が俺の脳細胞を破壊してくるのだろうか。


 校長の話の前に、転入生の自己紹介があった。あの辻元真夜も、壇上であいさつを成功させ、二度目の悲劇は起こらなかったことにクラスメート全員が胸をなでおろした。


 しかしその安心はつかの間、校長の話が俺らを奈落の眠りへと落としてきたのである。


「えー、夏が明けまして、皆さんはこれから2学期に臨まれると思いますが、2学期には秋がありますね……」


 何を当たり前のことをほざきよるんじゃこのジジイ、と思いながら俺は頭は下げず、瞑想に入ったかのように夢の国へ入国した。


 長い長い独り言ほざきがようやく終わり、副校長のフォローが入ると、脳内に新鮮な空気が流れるのでみんな目覚める。


 ふと、俺の視界に入っていた、最前列に座っている天使さんをちらっとみると、なんと姿勢良く校長に一礼しているではないか。起きていたのか?


 えらい、えらすぎる。


 ✴︎


 やがて学級委員がクーラーをつけてくれたおかげで、教室内に恵の風が吹き込んできた。


 クーラーの真下に座っている俺にも、その涼しさが徐々に伝わってくる。ありがたや。


 ズボンのポケットに式の間忍び込ませていたスマホを取り出し、何かお知らせがきていないか確認する。


 うわぁ、LINEが死ぬほど溜まっている。352件。皆式の間暇すぎても、よくティーチャーにバレずにLINEできたな。


 もちろんその内容も、「やっぱ辻元さんかわいい」だとか「出た校長だよ。おやすみ」だとか。


 俺はトークに関与していなくても、メッセージを一つずつ丁寧に見ていく派だ。何か大切な連絡があるかもしれないし、クラスメートがどんなことに興味があるのか、どんな流行りがあるのかを学習するためだ。いつか俺も陽キャになるために。


「えーっとー、蓮田…… くん?」


 突然声をかけられて、俺はビビりながらもその声がする方向を向いた。


 しかもその声の主は辻元真夜ではないか。突然目の前に現れた大天使が俺に話しかけているなんて、俺は言葉も出なかった。


「な、ななな、何?…… か?」


 途切れ途切れながらも言葉を出してピンチを回避する。首の周りが少し熱くなっているのがわかった。


「あ、あの…… これ。田中さん?が北海道行ったときのお土産なんだって。私…… 少しだけど卵アレルギーあるから…… もしよかったら、どうぞ」


 そう言われて差し出されたのはあの北海道名物、「白い恋人」だった。父さんが北海道に出張に行ったら必ず買ってきてくれる、妹の大好物だ。


 どうやら田中は、転入生を除いた40人分しか買ってこなかったらしい。その外れた一人に辻元さんではなく俺を選ぶとは。そんなにも俺は存在感が薄いのか。


 周囲の会話が徐々に止んで行き、視線が俺と彼女に注がれる。あの蓮田が美少女に話しかけられるなんてな、なんて話をコソコソとしているのだろうか。


 その驚きと冷やかしの混じった視線の中、俺は彼女からのオファーに対する対応で迷っていた。受け取れば周囲から羨ましがられ、冷遇されるかもしれない。でも受け取らないとしても、あのお方からのせっかくのプレゼントを拒否するとは何事だとバッシングを受けることになりかねないかもしれない。


「あ、あり…… が、とう」


 俺は彼女の右手からそっと白い恋人を抜き取った。俺は別に、仮に冷遇されても対応は今とは変わらないと思ったし、炎上を選択するよりかはマシだと思った。


「あ、全然大丈夫だよ!」


 照れ臭そうに笑って、彼女は自分の席へ戻って行った。俺とその周りは、彼女が椅子に座ったことを正式に確認するまで一度も目を離さずに見ていた。


 そして座った瞬間、向こうに飛んでいた視線は俺の方へUターンして戻ってきた。


「蓮田ぁ…… お前いいなぁ……」


 幽霊のような恨みの声が後ろから耳に届く。やばい、本当に標的にされてしまった。


 ✴︎


 お昼を済ませた人は、帰るか、どっか都会に寄り道するのがほとんどだろう。こんなお出かけチャンスは滅多にないからだ。


 それでも友達の少ない俺は、図書館で一人本を読み漁っていた。


 家に帰ってギターを練習しようかとも思ったが、家にはきっと愛海がいる。いつもあいつは、俺がギターを弾いていると勉強に集中できないだの友達と電話で話してるから静かにしてくれだの色々クレームを入れてくるから、普段は愛海が部活で家を空けている時を狙って練習しているのだ。


 2学期の始まりを、素朴すぎる図書館タイムで始めたくはなかったのだが、心が浄化されてむしろありかもしれない、と俺は思っていた。


 読んでいたのは、シェイクスピアの「リチャード3世」で、シェイクスピアの作品の中で一番多く人が死ぬ作品として知られている。読もうと思った理由はただそれだけだ。


 次第に、シェイクスピアの難解かつ厨二病チックな文章が睡魔を誘い、俺は意識と視界が朦朧としながらも、文字を追い続けていた。


 寝てはいけないと気持ちを入れ替えて、勉強しようと決めた。確か数学の問題集があったからそれを……


 ん?筆箱がない。リュックの中に全部詰め込んできたと思ったんだけど。


 教室にあるのか?思い当たるのはそこしかない。


 面倒いとは思いながらも、俺は荷物をまとめて立ち上がり、図書館を後にした。


 4組の教室は意外と近くて、図書館と同じ3階で、図書館の前にある渡り廊下を過ぎたところの角を左に曲がればすぐだ。


 渡り廊下は屋根もないから、晴れている日は心地よくていいが、雨の日は容赦なく襲いかかる雨粒に打たれながら進まなければいけない。まあ、2階にいけばありがたい屋根付き渡り廊下があるから良いんだけど。


 今日はラッキーなことに晴れていたから、眩しい日差しが照りつけていたが、風は真夏の時よりかは涼しくなっている気がした。


 その日差しに見送られながら、俺は校舎内にまた入り、4組の教室の扉に手をかけ、思いっきりグワッと開けた。


 目があった。あの美少女と。


 机には大きな古い紙と茶色いハードカバーの本。紙の上にはトランプがいくつかのグループに別れて綺麗に並んでいた。


「辻…… 元さん?」


 彼女は急いで机の上にあるものを俺から隠すように体を伏せた。


「何…… やってんの?」

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