第62話
ルドラス帝国の第一皇子ジスラン・ウォルフ・アーク・ルドラスが、ここウィスティリアの王城に突然やってきた。本当に突然だったようで、結構な騒ぎになった。先触れが到着して、殆ど間を置かずに姿を見せたらしい。
「え? ジスラン殿下が来ちゃったの?」
外交官さんから事情を聞かされたオスカーがそう答えた。やっぱりオスカーは顔見知りか。陛下の補佐役として多くの国と交流しているから、当然だけど。昼食を途中で切り上げ、二人でジスラン殿下がいるという客間に向かう。
ルドラス帝国の第一皇子であるジスラン殿下は皇太子だ。ルドラス帝国の次期皇帝である。普通であれば訪れる日時を決め、こちら側の準備が整ったところへやってくる。でなければ、歓迎もままならない。
「いやぁ、すまないね。本当に突然で」
客間に到着すると、ジスラン殿下らしき人物が、対応した外交官さん達に対し、にこにこと笑いながらそう言っているのが目に入った。
「ただ、そう、訪問した国の帰りに、ちょっと寄ろうと思っただけだから、大丈夫。無作法なのはこっちの方だって分かってるから、気にしないで? 王太子殿下の顔を見たらすぐに帰るから」
丸顔の巨漢である。肌が白くて、背にはこれまた真っ白な翼があった。
客間に姿を見せたオスカーを目にすると、ジスラン殿下は立ち上がり、愛想良く両手を広げた。満面の笑みである。
「やあ、オスカー殿下。久しぶりですね。と言っても、まるで別人みたいに見えるんですけど。いやぁ、まいりました。本当にオスカー殿下、あなたなんでしょうか?」
オスカーが進み出た。
「ええ、間違いなく僕はオスカー・フィル・オズワルト・ラ・ウィスティリアですよ。一体どうしました? 急に……」
「うん、ちょっと君の顔を見ておこうかと思いましてね。思い立ったが吉日で、寄らせていただきました。それで、ですね、最近、何か変わった事はありませんか?」
「最近、ですか?」
「そう、変な事が起こっていませんかね? 体調は?」
「何か心当たりでも?」
「無いとは言えません。だから、ちょっと寄ってみたんですよ」
「ふうん?」
オスカーはちょっと考え、
「その心当たりを聞くことは?」
ジスランの表情は変わらない。けれど目の光が幾分鋭くなったようにも見える。
「それは、無理ですね。申し訳ありません、身内の問題なんです」
ジスラン殿下がそう言って謝罪した。
「でも僕としてはウィスティリアと事を構えたくないんですよ。特にあなた、とはね。だから何かあれば、あなたの力になろうと思っています。けれど、僕の力は盤石じゃない。まだまだ穴だらけだ。ですから、どうかその辺をご理解いただければ、と」
「内々で穏便に事を運びたいと、そういうことですね? なるべく考慮しますよ。この僕としてもあなたと事を構えたいとは思いませんので」
「……おやまあ、本当にオスカー殿下、あなたなんですねぇ」
ジスラン殿下の呟きに、オスカーが首を傾げる。ジスラン殿下が笑った。ぼんやりとした表情から一転、まるで抜け目のない策士のような表情へと変化する。
「あなたはこの僕の正体を見抜いた、数少ない一人ですからね」
口角を上げて笑う。先程のような無邪気さはどこにもない。
「白豚皇子。これが僕の渾名です。なのにあなたはそれに惑わされなかった。幾重にも身にまとったこの僕の虚像を見破った。僕はね、あなたを買っているんですよ、オスカー殿下。ですから不出来な身内に、あなたとの仲を引っかき回されたくないんです」
「あなたの意志は確かに受け取りましたよ、ジスラン殿下」
オスカーがそう言うと、ジスランが満足気に頷く。
「それはそうと、そちらのお美しいお嬢さんは? 噂の妃殿下ですか?」
表情が打って変わって再び柔らかくなる。
私は緊張気味に進み出て、淑女の礼をした。
「ええ、初めまして、ジスラン殿下。私はウィスティリア王国の王太子妃ベアトリス・サ・ラ・ウィスティリアと申します。以後お見知りおきを」
「ははは、本当に可愛らしい。ご挨拶をさせてもらってもよろしいか?」
差し出されたふっくらとしたジスランの手に、自分の手を乗せると、ジスラン殿下がそこに口づける仕草をする。あくまで挨拶なので本当に口づけることはない。
「初めまして、ベアトリス王太子妃殿下。僕の名は、ジスラン・ウォルフ・アーク・ルドラスです。以後お見知りおきを」
「丁寧なご挨拶痛み入ります」
「しかし……君の瞳は赤くはないのだね? 王太子妃は天眼の持ち主だと聞いたが……」
しげしげと見つめられてしまう。ちょっと恥ずかしい。
「光の加減で変わりますよ、殿下」
オスカーがそう言うと、ジスランがあちこち体を揺すって動かし、
「おお、まるでルビーのようだ!」
そう叫んだ。
「実に可愛らし女神を手に入れましたね、オスカー殿下」
「恐れ入ります」
「でも、注意した方が良い。極上の宝は誰が狙うか分からないですからね」
「重々承知していますとも」
そう言ってオスカーが笑う。
ジスラン殿下が頷いた。
「それでいい。注意は怠ってはなりませんよ? 毒蛇はどこにでもひそみますから。そう、どこにでも潜り込み大事な卵を掠め取る。油断も隙も無い連中です」
「ご忠告感謝致します」
「これくらいですからね、僕がしてさしあげられることは。さて、物騒な会話は、ここいらでおしまいにしましょうか。せっかく久しぶりにこうして会えたんですから、楽しい一時を過ごしたいものです。出来れば妃殿下もご一緒に」
にっこりと笑う。マシュマロのように柔らかい笑顔だ。けれど、やはりどことなく目の光が鋭いように感じてしまう。ちょっと落ち着かないかも。
「苦手?」
廊下を歩きながら、オスカーにそんな事を囁かれてしまう。すぐ目の前では外交官さんと話しているジスラン殿下の巨体がある。人は良さそうに見えるんだけれど、
「う、ん。ちょっとだけ……」
遠慮がちに私が頷くと、
「信用できるかどうかって言うと、彼はちょっと曖昧なところがあるからね。それだけルドラスの内情が厳しいんだよ。誰と誰を信用して良いのか、かなり迷う。ジスラン殿下はね、それこそ何度も毒殺されかけたから、どうしても視線が厳しくなるし、他人との……いや、全ての人との間に壁を作るんだ」
私がびっくりして顔を上げると、
「そういう事情があるから、まぁ、勘弁してあげて? 疑ってかからないと、命に関わるからね。ウィスティリアの内情とは真逆なんだよ。まさにあっちの宮廷内はどろっどろ」
そっか……それで何となく視線がおっかないのか。
「身を守るための笑顔。身を守るための所作だから、ああやって物腰柔らかく見えるけど、本当の彼はもの凄く豪胆なんだよ」
「もしかして強いの?」
「とてもね。身を守るための武術を身につけてる。なめてかかった襲撃者が返り討ちなんてざらだよ。豪傑皇子って呼びたいくらいだね。嫌がられるからやらないけど」
嫌なの? 首を傾げれば、
「白豚皇子を返上したくないんだってさ。気持ち分かるからしょうがない」
不思議そうな顔をすれば、
「敵を騙すには味方からって感じ? 合わせてあげて? これも彼の処世術だからね」
オスカーがそう言って笑った。
翌日、例のジスラン殿下と一緒になって朝食を取っていると、彼の従者であろう人が紙片を手渡し、それを目にしたジスラン殿下がおもむろに言った。
「……愚弟がこちらに来るようですね?」
「ええ、昨夜先触れがきましたよ」
オスカーがそう返す。
「断ることは出来ませんか?」
「出来ますよ? やろうと思えばね。けれど国益を考えると得策ではありません」
ジスラン殿下がため息を漏らす。
「でしょうね。まったく、無駄に権力があって頭が痛い」
「ああいった連中であっても、表面上は友好関係を保っておいた方がいい。最も、あなたがそういった諸問題を押さえてくれるのであれば、遠慮無くはねつけますが……やりたくないのでしょう?」
「ええ、今はまだ、ね。その時期ではありません」
「でしたら、今回は受け入れましょう。問題行動があればその時点で対処します」
「そうですか。できれば穏便に。まぁ、排斥してもらっても僕はかまないのですが……そうすると、内部で騒ぎ立てる者が出ます。腐ってもあれは第三皇子ですからね。なんだかんだと理由付けして、こちらに突っかかろうとするでしょう。それを押さえるのもまた骨が折れる。ああ、ただし……」
にっこりと笑う。
「不始末の証拠があれば是非提示していただきたい。あれを糾弾するいい理由になる」
「分かりました。協力致しましょう」
何だろう……どっちも笑っているし、穏やかな朝食の場なんだけど、薄ら寒い。話してる内容が物騒だ。どっちも国を動かす立場の人間だから、こんな感じになっちゃうのか。
「ノエル皇子がこちらにいらっしゃるの?」
朝食後、私がそう問うと、
「そう。魔術の凄さを見てみたいなんて言ってるけど、どうだか。見え見えのお世辞だよね、あれ。ノエル皇子は魔術師をへぼの集まりだって公言しているのに」
「じゃあ、目的はやっぱり……」
スカーレットさんが言ったあれ、かな? でも、そんなんで自分が来ちゃうもの?
「さあね。たかだか僕の顔が気に食わないってだけで、こんな所まで来ないでしょ? ここウィスティリアで何か仕出かそうものなら、ただじゃすまないもの。ま、精々嫌みを言って帰る、くらいじゃない? 本当に目的がそれだけならね」
「他に目的があるってこと?」
「んー……」
何か言いたげだったけれど、オスカーは話題を変えた。
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