第61話
頭からかけられた真っ赤なワインが、オルノ・ディラーノの頬を伝って豪奢な絨毯を濡らす。見事な装飾品で飾られたここは、ノエル皇子の私室だった。
「この、役立たず」
オルノは這いつくばったままノエル皇子の暴挙に耐えた。いつもの事だとそう自分に言い聞かせる。毎日のように些細なことで暴力を振るわれる。目つきが気に食わない、言い方が気に食わない、態度がなっていない等々……。生傷が絶えない体を、懇意にしている神官に頼んで、こっそり治してもらうのがオルノの日常だった。
それでもここ以外に行き場所はない。公爵家の三男ではあっても、ノエル皇子に睨まれれば、たやすくディラーノ公爵家ごと潰される。
ノエル皇子が吐き捨てた。
「例の魔女に断られただって? しかもそいつを捕まえ損なうなんて、はっ、この能なしが!」
「……申し分けございません」
「鞭打ち百回」
「え?」
「何あほ面晒してる。お前が受けた傷は、神官どもが勝手に治療してしまったからな。それの償いをしてもらう。何で醜態さらしたお前が、平気で僕の前に立っているんだよ? 泣き叫んで許しを請え、この能なしめ」
「も、申し分けございません!」
「いいから、衛兵!」
傍に控えていた近衛兵が進み出る。
「僕がいいというまでオルノを鞭打ちだ。ああ、ここでやれ。悲鳴が聞きたい」
「……承知致しました」
近衛兵が無表情のまま床に這いつくばっているオルノを引きずり起こす。オルノは自分の身に起こっている事を理解し、ひっと悲鳴を上げた。恐怖で顔が引きつる。
「ノエル皇子! お許しを!」
自分の謝罪が通じたことなどないのに、オルノは必死で許しを請う。屈強な近衛兵に押さえつけられ、壁際に立たされたオルノは顔面蒼白だ。灼熱の痛みが背を襲い、オルノは悲鳴を上げた。涙ながらに許しを請う。お許しを、と。
その様子を見たノエル皇子は満足そうに笑い、傍の肘掛け椅子にゆったりと腰掛けた。これまた豪華絢爛な装飾の施された椅子である。皇帝が座っても可笑しくないほどの煌びやかな椅子だ。
「相変わらずじゃのう、おぬしは……」
ため息交じりの優美な女の声に振り返れば、近衛兵を連れた中年女性が立っていて、うっすらと笑っている。
「母上」
ノエル皇子が反応し、そう口にした。女が扇で口元を隠す。
「下賤な者の悲鳴など、酒の肴にしたところで、旨くも何ともないだろうに……」
「何用ですか?」
「例の天眼の女はまだ手に入っておらぬようじゃな?」
「ええ、忌々しい。ここへ連れて来いと命じたにもかかわらず、このありさまです。アロイスは本当に使えない。あれのどこがいいのですか? 母上。あんな欠陥品、いっそ奴隷にでもしてしまえばいい」
「まぁ、そう言うでない。あれはあれで役に立つ」
ノエル皇子が鼻を鳴らす。
「母上も物好きだ」
「天眼の女の件じゃが……アロイスを今一度ウィスティリアに送り込もうと思うておる」
「あいつを? あいつは一度失敗したじゃないか」
「そう、天眼の女を力尽くで奪おうとして、天竜にじゃまされたそうじゃな? 流石に神に邪魔されたのではしかたあるまい。許してやろうではないか。じゃから、今度は抵抗されぬよう、あの女の魂を抜くよう指示した」
「へえ?」
ノエル皇子が面白そうに笑う。
「意志のないお人形にしてしまえば、天竜も動かぬよ。天竜は天眼の持ち主の意志に従うものじゃからの。その後は、どうとでもできる」
「……ね、僕も向こうへ行っていい?」
「おぬしも?」
「あの王太子が気に食わない。ちょっとばかり綺麗だからって、ちやほやされて。あいつの目の前で、例の王太子妃が僕に靡けば、あいつ、どんな顔をすると思う?」
皇妃が眉をひそめる。
「……ほどほどにせい。ウィスティリアと表だって事を起こすのは得策ではないぞ?」
「ちょっと揶揄ってやるだけだよ」
ノエル皇子が天使のように美麗な微笑みを浮かべてみせる。
「あい、分かった。そのように手配する」
「ありがとう、母上」
その後、ノエル皇子はゆっくりとワインを味わい、ウィスティリアを訪問して、あの王太子妃をどう調理してやろうかと想像し、ほくそ笑む。
ふと、気が付けば悲鳴が止んでいた。完全に気絶しているのだろう、オルノはただただ無抵抗のまま鞭に打たれている。
ノエル皇子は空になったグラスを置き、立ち上がった。
「ああ、もういいよ。そいつを医務室に連れて行って。ウィスティリアにはそいつも連れて行くから、旅が出来るくらいにまでは回復させておいてよ」
そう言い捨てて、ノエル皇子はその場から立ち去った。
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