第30話

 侍女のモリーが鏡の中の私に向かって笑いかけた。

「今日はクリムト王国の王太子様がいらっしゃる日ですわね。第一王女であるエレーヌ姫は花姫と呼ばれているそうですわ。妃殿下も今日は香水をつけますか?」

 花姫?

「とても良い香りがするそうです。それでついた渾名が花姫らしいですわ」

 ああ、そう言えば……。

 ――エレーヌ王女は魅惑の香り持ちだから面倒なんだよね。

 オスカーがそんな事を言っていたっけ。

 ――魅惑の香り持ち?

 ――そう。魔力がないとあれの影響をもろに受ける。歩き回られたりすると、結構な騒ぎになるから、いろいろと支障が出るんだよ。まぁ、本当に人によるんだけど……。ああ、でも、ビーに影響は全くないから気にしなくていいよ? 君は天竜の意志と直結してるから、ああいったものに惑わされる心配はないしさ。

 オスカーがため息をついた。

 ――対策用の飴、数日中に配って歩かないと駄目だな。嗅覚が麻痺するから、料理人が嫌がるけど、そこはしょうがない。彼女が滞在している間だけだから耐えてもらおう。

 そう言って、研究室へ立ち去った。

 飴を急いで製造するとか言っていたっけ。飴……何の飴だろう?

 身支度を終えた私は、護衛騎士さん達を連れて、オスカーと一緒に城門へと向かう。クリムト王国からくる貴人をお迎えするから今日は正装だ。私もオスカーも紫の貴人色を身にまとっている。

 忙しそうに城の廊下を行き交う侍女さんや兵士さん達は、オスカーを目にすると道を空け、畏まって目を伏せる。これの繰り返し。

 ピカピカに磨き上げられた大理石の床を歩く中、ふわりと風が吹き、オスカーの白銀の髪が流星のように輝いた。綺麗……。思わず見とれてしまう。今朝のベルベットのような滑らかな感触を思い出し、つい手を伸ばしそうになるも止めた。

 ――触りたい? いいよ、ほら。

 オスカーの事だ。人前でも気軽に許可しちゃう気がするから、余計に恥ずかしい。絶対注目の的になる。せめて人がいない時にしよう。

 開け放たれた城門まで出向くと、丁度クリムト王国の馬車が到着したところだった。作り上げられた美しい緑の庭園を背景に、黄金色に輝く馬車が停車する。繊細な装飾の施された目にも眩しい煌びやかな馬車だ。

 従者の手によって、黄金色の扉が開けられる。ふわりとエメラルドグリーンのドレスが翻り、目にしたのは本当に見目麗しいお姫様だった。

 お伽の国のお姫様を目にしたら、こんな感じだろうか?

 クリムト王国の第一王女のエレーヌ姫は、それはそれは美しいお姫様だった。

 蜂蜜色のふわふわとした綿毛のような髪に、ぱっちりとしたエメラルドグリーンの瞳。白磁色の顔はまるでお人形さんのよう。

 そんな彼女の手を引いているのは、多分、第二王子のエメット殿下だ。

 こちらもまた金髪に青い目をした、まだあどけなさの残る愛らしい少年である。もう後二、三年もすれば立派な美青年になるに違いない。

 絵に描いたような美しい姉弟だと思う。

 エメット王子にエスコートされたエレーヌ姫は、しずしずとこちらへ向かって歩いてきていたが、オスカーを目にした途端、ぱっと顔を輝かせて、

「オスカー!」

 そう叫んだ。え? 呼び捨て?

 エスコートしてくれていたエメット王子そっちのけで走り出し、エレーヌ姫は嬉しそうに顔を上気させ、両手を広げてオスカーに抱きつこうとする。

 えぇ? 仰天したのは多分、私だけじゃ無いと思う。

 何かいろいろ可笑しい。呼び捨てにするほど親しかった? でもいきなり抱きついていいもの? オスカーはこの国の王太子だけど? 他国の貴人だけど? 普通、淑女の礼をして挨拶するもんだよね?

 護衛の観点からだろう、オスカーの護衛騎士さんが彼女を止めようと動いたけど、それより早く、オスカーの杖が振り下ろされていた。お姫様の脳天に。え?

 気が付けば、両手を広げてオスカーに抱きつこうとしたエレーヌ姫が、地面に五体投地してる。えっと、これってどうすればいいの? 動かないんだけど……。

 彼女を追いかけてきたエメット王子もまたびっくりしたようだ。傍で呆然と立ち尽くしている。誰も動こうとしない。

 抱きつこうとしたお姫様もお姫様だけど、それを叩きのめしちゃったオスカーもいろいろとまずいんじゃあ……。護衛騎士さんにまかせればよかったように思う。もっと穏便に止めてくれたんじゃないかな。

 周囲はしんっと静まりかえったままだ。

「……あの、殿下?」

 ようよう、恐る恐る声を発したのは、一人の護衛騎士さんだった。

 がっちりとした体型のクラウスさん。強面なので一見怖そうに見えるけど優しい人だ。クラウスさんもちょっと戸惑ったようで、オスカーを見上げる顔は困惑してる。分かる。オスカーがこんな暴挙に出る事まず無いもんね。

「あー、うん。見なかったことにして?」

 オスカーに、にっこり笑ってそう言われ、クラウスさんは何とも言えない顔だ。

「もしかして、気絶していますか?」

 クラウスさんがエレーヌ姫を揺さぶっても起きない。

「うん、捕縛と睡眠の魔術、両方同時使用しちゃったから、当分目を覚まさないかな」

 オスカーが明後日の方向を見る。もの凄く決まり悪げだ。

 その場にいる全員の視線がオスカーに集まっている。オスカーが次にどう動くのか、予測できないといった感じだ。

「何だろうね? 悪寒が走ってどうにもこうにも……条件反射? いつもだったらビンセントが今の役目だったのに何で僕? あー、何かこれ、まずい気が……」

 結局、その場の後始末を護衛騎士さん達に任せて、オスカーは私の手を引いて歩き出す。

「オスカー、あれ、放っといて良いの?」

「ああ、いや、よくないかな。ビンセントを代わりによこすよ。それより、ビー、ちょっといい?」

 城の廊下途中で足を止めたオスカーを、私が不思議そうに見上げれば、ぎゅうっと彼に抱きしめられる。いつもの抱擁だ。ふわふわとした夢心地になってしまう。

「やっぱりこっちは平気だ……」

「オスカー?」

「夕闇の魔女、いる?」

「何だよ、いきなり……」

 うわっとのけぞってしまう。いつの間に? スカーレットさんの神出鬼没っぷりは相変わらずだ。さっきまで誰もいなかったのに、一体どうやってるんだろう? 城内で転移魔法は使えない筈だし、幻術で姿を隠しているわけでもない。私の目は幻術を見破るから無理だ。どうやって移動しているのか不思議に思って聞いてみても、

「内緒」

 スカーレットさんにそう言われ、可愛らしく唇に指を当てられてしまう。うーん、相変わらず色っぽい。

「……ネタを拾っても、もう小説出版の許可は出さないからね?」

 オスカーにそう言われて、スカーレットさんが肩をすくめた。成る程、こうやってまた小説の新作ネタを集めて回っているのか。

「けちくさい男は嫌われるよ。で、何?」

「ちょっと僕に抱きついてみてくれる?」

「あん?」

「嫌ならいいけど……」

「嫌なもんか。喜んでやってやる」

 嬉々としてスカーレットさんは引き受け、両手を広げたものの、

「……で、これ何?」

「何だろうね? 多分、嫌なんだろうな」

 オスカーの手がスカーレットさんの頭をがっちりホールドしている。近寄らせない。もちろんこんな状態で抱きつくなんて出来そうになかった。


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