チューイング・アイデンティティ

和泉ほずみ/Waizumi Hozumi

『雨さえ止めば心を病めずにすみますか』

 7月。


 初夏の頃など疾うに過ぎ、暦は梅雨が明けるか明けないかといった辺りの時期にまで至っていた。


 梅雨。私が一番嫌いな季節。この季節と、憂鬱な感情を助長させる湿気や曇天は、相即不離な関係にある。私は雨が嫌いだ。


 特に期待などしていなかったのだが、私は起床して間もなく、窓の外に意識を向ける。案の定、灰色の空模様が広がっていたが、幸い天候は小雨のようだった。


 梅雨明けを迎えれば、人々はいよいよ夏という季節を意識し始める。


 私にとってのこの夏は、この町に越してきて初めて迎えるものであったりする。


 私は今から4ヶ月前の3月にこの町へと引越した。特に目立った特徴の無い、この「こもれ町」に。


 私は、早くに仕事に出かけた母親が作ってくれた目玉焼きには目もくれずに、朝の身支度を始めた。特に悩むことなく私服に着替え、化粧なども手早く済ませた。お気に入りのローカットのコンバースを履き、徒歩18分の距離にある学校へと向かう。


 玄関を通り、自宅を後にしようと前進した私だったが、ふと思い立ち歩みを止めた。


 私は私、四十万ななみの両頬を両手で叩いた。


 「お前は普通。フツウの女子高生。目立つな泣くな、怯えるな。お前は……」


 今日も、今日だって、私は愛想の良い優等生だ。


 これ以上俯いて自分と会話をしても仕方が無い。生産性の無い行為は嫌いだ。


 一度、訳も無く空を見上げた。執拗な雨の香りに鼻腔を虐げられながら、そのささやかな抵抗として大仰な動作で傘を差した。



 将来の事。この町の事。周囲の人間の事。そして、自分自身の事。そんな事柄に細々とした思慮を巡らせながら歩いているうちに、到着した。


 道中は静かな住宅街で、すぐ外れたところにはちょっとした大通りがある。少し建物の件数が減ってきた辺りの場所に位置するのが、私の高校である「陽ノ光高校」だ。





 「……ななみさん、ななみさん?」


 寝ぼけ眼で周囲を見渡す。誰もいない教室に辿り着いた私は、自分の席に座るや否や、知らぬ間に微睡みの淵へと沈んでしまっていたようだ。


 「あぃえ……?……っあ、先生!おはようございます~」


 「ふふ、ななみさんおはようございます。では本日の出席を取りますね」


 あくまで束の間の仮眠だったと主張するふうに慌てる私に温厚な眼差しを向ける彼は、私のクラスの担任教師。


 小暮作太先生。見た目年齢はアラサー前半で、高身長のまあまあなスレンダー。アニメのキャラクターみたいな糸目をしていて、常時表情を綻ばせている。とはいっても不気味な印象などは特に見受けられず、特段悪目立ちはしないようなタイプの大人だ。


 「重久くん、欠席。四十万さん……」


 「はーい!」


 ここにいます。四十万ななみは、確かにここに。


 「良い返事です」


 ハッキリと快活に返事をしたくらいで一々褒められるのは、せいぜい小学生くらいまでなものかと思っていた。この学校に来るまでは、そう決めつけていた。


 「中津戸さん、欠席。埜田さん、欠席。聖沢くん、欠席。薬丸さん、欠席……以上」


 思わずため息をつきそうになったが堪えた。今の時間は、一体なんだったんだ。その点呼に意味などは、あってないようなもの。だって今日は分散登校。そして本日7月18日は私の番なのだ。


 陽ノ光高校は、サポート校という形式を取っている私立高校だ。生徒総数が極端に少ないため、全年次の生徒が各々同じ教室で伸び伸びと勉学に励む。そんな高校だ。


 当然、クラスも一つしか設けられてないわけで、これといって私たちの属する組に対する呼称が無い。そこで便宜上、担任の苗字にちなんで「小暮クラス」と呼ぶことがあるが、あまり使われた試しがない。


 「ではななみさん、授業の号令を」


 人当たりの良い微笑を添えながら先生が命令する。ここで私が断ったところで彼は微塵も動じること無くあくまで微笑み続けるのだろう。わざわざ試す価値も無い程に分かりきっている、先生の性質だ。


 「もー、先生ったらそういうとこほんっと、ゲンカクだよね~」


 起立。礼。着席。本日の授業、定期カウンセリング。よろしくお願いします。


 なんて、そこまでバカ真面目に18日の予定を叙述することはしなかったけれど。


 そう、分散登校の意図というのは定期的に生徒に対して施されるカウンセリングだ。こんなサービスは前の高校には無かったな。私は正直、感心した。少人数の学校だからこそ成し得る定期的イベント。前の高校はそこまで面倒見が良かった訳では無かったな。当時は気にしていなかったもののこうやって相対的に比較すると、その辺りの杜撰さがこの期に及んで浮き彫りになってしまう。


 「ななみさんは……。単位取得に関しては順調ですね。9月の定期テストも貴方なら問題無いはずですよ。努力は、自分の可能な範囲でいいことをくれぐれも忘れないように」


 「りょっ!あ、例のヤツ、先生に言われた通りにしっかり毎日続けてますよっ」


 「お、新聞のコラム記事のことですね。偉いですね。あれを毎日読んでいれば、来年度の受験にもきっと役に立つはずですよ」


 「やったー!」




 ………………。




 「学校には慣れましたか?不安や悩み事、無いですか?」


 「えー、そんな、うーん……」


 悩みが無いことを、悩んでいるてい。元より無い悩みを、絞り出そうとしているてい。


 でも、先生。先生がそんなに優しい笑顔だとさ、私の拙くて不出来な仮面なんていうものの脆さがさ。ねえ。




 「死にたいです」




 「それは、どうして?」




 「雨が、降っているから」



 雨が、私を暴こうとする。私の内に閉じ込められていた憂鬱を、露わにせんとする。まるで、イースターエッグのように色とりどりで可愛らしい装いが、酸性を酷く多分に含む豪雨によって、いとも容易く溶かされ、乖離させられていくようだ。


 そんな突飛で馬鹿げた杞憂を煽られるから、だから、



 「雨が降ってるから、死にたいな、私は」



 そんな私の唐突な本音の吐露を、先生は感慨深く咀嚼する。「私のとっておきの毒素はどんな風味でしたか」だなんておどけて言ってみせる程愉快な“ピエロ”には成り切れなかった。



 「そうですか……。曇天がもたらす低気圧のせいで体調不良を訴える人というのも少なくありませんから、たかが天候とは言え侮れませんよね」


 「でも私は、この季節も案外悪くないと思いますよ。梅雨には綺麗な紫陽花の花が咲きますから」


 先生は泣きじゃくる幼子をあやすような慈悲深い表情で、続けた。



 「雨さえ止めば、心を病めずにすみますか」



 私はその問いへの応対を一旦先送りにし、窓の外に目をやり、思慮を巡らせた。


 酷い土砂降りだ。今朝よりずっと激しさを増している。仮にこのどんよりとした景色が、天の神様のちょっとした気まぐれで丸っきりの晴天へと変転したとする。そんな奇天烈極まりない馬鹿げたイフについて、馬鹿真面目に考察する。


 「たかが陽光ごときに、私のこの高尚な苦悩たちがそう易々と解消されてたまるものか!」だとか、別に本気でそんな憤りを覚えた訳では無い。むしろ、空の明度なんかでその日の調子を左右されてしまう、そんな単純明快な仕掛けで作られている“ななみさん”に少しばかり辟易した。そう、本音はきっとそれなんだ。



 「今よりいくらかマシになると思う、多分」



 「……先生は、嫌になったりしないんですか?」



 この天候に。この時代に。

 

 この村里に。この世界に。


 この曖昧で漠然とした悠久の人生に。



 そして目の前の席に鎮座する、のんべんだらりと惰性で生きているだけの問題児第1号に。



 貴方は何故、それらに対して悠々閑々と微笑みかけることが出来るのですか。



 「しないよ……ン、嫌にならないですよ、私は」


 そう言い放つ彼の瞳や面構えに、イヤミ成分などは見受けられず、ただ、健全で慈愛に充ちた笑みを飽きることなく維持しているのみだった。


 しかしながら私は、彼の敬体口調が崩れたその一瞬を聞き逃さなかった。


 貴方のそれが装いであるなら、仮面であるなら、私はそれを暴いてみたいだなんて思った。と、柄にもなく酔狂な私。クラスメイトの誰かが、そんな疑念をそっくりそのまま私に抱いているかもしれない。ああ、可笑しくてたまらないな。私まで相好を崩してしまいそうだ。


 馬鹿馬鹿しい、滑稽極まりない。そう思った私は……。



 「先生、言うか迷ってたんですけど……」


 「はい、なんでしょう」



 「さっきから肩のところに、付箋が付いてますよ」


 私は笑った。先生に負けじと、明るく朗らかに笑ってみせた。


 「おっと。……?これは、なんと可愛らしい、クマさんだこと。これはきっと事務員の大隈さんの仕業ですね」


 「も~、これで貼られるの何回目?先生って変なとこ抜けてますよね。……ふ、ふふふっ」


 「ななみさんはよく周囲のことに目を配れていますね。先生は感心しました」


 「いやいや、気づかない方がおかしいって!褒めるとこは、指摘する思い切りの方だと思うけど?」


 とは言っても、仰る通りと思う。自惚れではなく本当に、そうなんだ。


 ……だから、こんなに疲れるんだよ。


 「もっと自分本位に生きてみても、バチなんか当たりません。そして他人様は貴方が思っている程は貴方を見ていません。だから、安心して下さい」


 誰か他の子供がこうやって大人に諭されたら、ある人は些かの冷たさを感じてしまうかもしれない。否、私はそうは捉えなかった。


 だって、


 「カウンセリングの資料を持ってきますので、少しばかり待っていてください……あと」


 だって彼の、先生の、


 「17歳の誕生日おめでとうございます。ななみさん、良い一日を」




 先生の笑顔ってきっと、“ホンモノ”だろうから。



「……!先生!あ、ありがとうございます……」



 小学生の頃は昼食に給食が配られて、私は梅雨の時期限定で出される“あじさいゼリー”というデザートが大好きだった。特に何って無いけれど、私はそんな思い出を想起しながら、紫陽花の香りを記憶のタンスより引っ張り出し、それを舌の上で好き勝手に転がしている気でいたのだった。

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