カラス男の床屋ご飯

  ◆


 次に気がついたとき、私は「しまった」と思うような状況にいた。

 シイタケちゃんとネギちゃんとハクサイちゃんとダイコンちゃんが私のことをぐるりと取り囲んでいて、私はその中で座り込んでいるといった具合だ。


 「しまった」と私が思ったのは、その私の手に何の野菜も握られていなかったからに他ならない。椎茸も、葱も、白菜も、大根も。普段私が皆と話すときに必ず顔の横に持って来ていた野菜を、その日私は持っていなかった。


——昨日お鍋にしちゃったからだ……。


 私はその場から逃げ出した。必死に走ったから、皆が何か言っているのを聞くことはできなかった。走っている間はとにかく怖くて、上手く息ができない。

 嫌な感じがする。怖さが皆からじゃなくて、どこか別のところから来るような。そういう得体の知れない感情が走る私の枷となっている。


 苦しい。


 水の中であてもなくもがいているような。


 肺に重りをつけられたような。


 それでも逃げ続けた。走って走って、走りきったその先で私は、なんとカラスに声をかけられたのだ。


「もう大丈夫ですよ、お嬢さん」


  ◆


 気を失っていた私が次に目を覚ますと、そこは床屋だった。

 多分、床屋だ。

 その空間には床屋に特有の三色がぐるぐる回っている筒のような機械が二つと、目の前にある、真っ白なテーブルクロスがひかれた机と、私が気絶していた椅子しか無いけれど。


 皆の姿はない。私は逃げきることができたのだろうか。

 私が呆けていると程なくして、件のカラスが現れた。といっても私の知っているカラスとは似ても似つかない姿であったので、カラス男と言った方が的を射ているだろう。白いシャツに黒のベストと蝶ネクタイをつけて、腰にはこれまた黒のエプロンを巻いている。


「起きたかい。さあ、これを食べなさい。美味しいよ」


 カラス男はそう言うと丸皿を一つ、私の前に置いた。おにぎりと鳥の串焼き。カラスが串焼きを持ってくるなんて、変なの。


 どうやら持って来てくれたものは食べても良いようなので、遠慮せずご馳走になった。走りすぎてお腹が空いていたのだ。串に刺さっている鳥肉だと思っていたものは実は椎茸だったのだけれど、これが結構美味しくて、おにぎりと一緒にペロリと平らげてしまった。

 途中、大根のお漬物も出してくれた。上に振りかけられた小口の葱がアクセントになって、これも美味しかった。


「またいつでも来ると良い」


 カラス男はそう言っていた。

私はそれからカラス男の床屋に足しげく通い、そしてカラス男は出向くたびに料理を振舞ってくれた。コロッケ、蒟蒻串、野菜たっぷりのケバブ。どれも美味しくて私はすっかり床屋の虜になっていて、何度も何度も通っている内にシイタケちゃんやネギちゃん、ハクサイちゃん、ダイコンちゃんのことなどすっかり忘れてしまった。


 ある日、カラス男はメロンパンと冷奴を振舞ってくれた。とても美味しそうだったので、私はどちらもすぐに頬張ろうとした。

冷奴をすぐに頬張らなかったのは、不思議なことに一瞬だけその冷奴がうにぐり君に見えたからだ。


 あれ、うにぐり君って……?


「…………!」


 私は言葉を失った。まさか自分がうにぐり君のことを忘れるなんて。

 両親のいない私のそばにいつだって寄り添ってくれていた小動物は、丸皿の上で目をひん剥きながらびくびくと震えていた。


「ああ、ソレは嫌なんだね」


 うにぐり君を忘れてしまっていた自分を責めながらメロンパンを食べていると、カラス男が近づいてきて、うにぐり君を指さした。すぐに厨房に引っ込むと、今度は白い菊の花を丸皿に乗せて運んで来た。


「でも、彼女たちは美味しかっただろう?」

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