Cというこどもたち

七森

Cというこどもたち

 ⚫ああわたし、いつのまにか、いたの。あなたの、そばに。


 ⚫廊下の真ん中で。ふざけて入った空っぽの浴槽の中で。シャワーを浴びる音が聞こえる浴室で。洗面器の中で。まだ目が開かなくて、なぜだか、首が、とても苦しい。誰かの啜り泣く声。嬰児の泣き声が、そこらじゅうに、響いている。飛散していく。


 ⚫私たちは、共通の目的があって、生きている。共通の目的のために、死んでいく。


 ⚫「どうしてここには花がひとつも咲かないのかな」アビーがつぶやく。「きっと、血を流しすぎたせいだよ」私が返事をする。


 ⚫アビーの横顔を、そっと見つめる。伏し目がちのせいか、儚げに見えるアビーは、私とよく似た顔をしているのに、私よりもずっときれいに見える。どうしてだろうか。同じ顔のはずなのに。「あなたたちは、本当にそっくりね」私たちを見た人もみんな、口を揃えてそう言うのに。


 ⚫アビーは眠っている。いつ起きるかな、なんて思いながら、私はアビーの寝顔を見つめている。


 ⚫ベビーベットの中を覗くと、何もなかった。この中にいた子たちは、どこに行ったのだろう。


 ⚫ライカが泣いていた。泣けるはずがないのに、涙を流していた。あれはきっと、オイルだ。そうでなかったら、なんらかの不具合だ。ライカは、あの人が、新品の状態で買ったアンドロイドだ。私は、あの人の言うことを聞くライカが、好きではない。だからといって嫌いというわけでもないけど、決して好きにはなれない。だからなるべく、ライカのことは考えない。視野に入れない。これ以上、だれかを憎みたくなかった。


 ⚫アビーの白くて細い指。微かに血管の透けた肌。丸い瞳。私も同じようなものをもっているはずなのに、アビーのそれらとは全く違う気がする。私たちは、小指の爪だけに、薄いピンク色のネイルを塗っている。


 ⚫「草や木が、血を養分にしたら、きっと育たないと思う」「そうだね。血のついた植物なんて、想像しただけで、気分が悪くなる」


 ⚫アビーがうつらうつらと眠たそうにしている。少し眠ったらいいよ。この季節によく合うとされる、タオルケットをひき寄せながら、私が言うと、アビーは目を瞑り、ことんと眠りに落ちた。最近、特に眠いのだと言っていた。伏せられた長い睫毛が目立つ、柔らかなアビーの寝顔を見ていると、いくらか気分が落ち着いた。私は何回も、アビーにたすけられている。


 ⚫小指の爪に塗られた薄いピンク色。それは私たちが私たちである証だった。ネイルは永遠ではなく、剥げたり取れたりする。今がそう。おそらく汗でふやけてしまったのだろう。だから一旦、除光液で拭き取ってから塗り直そうと思う。


 ⚫アビーは、まだおきない。


 ⚫アビーの膝の上には、スケッチブックがのせられていて、描きかけの少女の絵が、無表情にこちらを見ていた。少女のすぐそばに、アマノ、と鉛筆で薄く文字が書かれている。それはきっと、このスケッチブックの一ページのなかの主人公である、彼女の名前だろう。アビーが、人物を描く時はいつも、髪を最後に黒く塗る。まっすぐに伸ばした下描きのそれを、ゆるい筆圧で、何度もペンを往復されながら、描き込んでいく。黒い髪は今にも、絵の中の風に吹かれて、さらさらと動き出しそうだ。

「この子は、アビーの知ってる人?」いつか聞いたことがある。アビーは困ったように笑って、違うよと首を横に振った。わからない、と言って、それ以上は、おしえてくれなかったけれど、私にとっては、その答えだけで充分だった。


 ⚫「なんて可愛らしい子たちなの。何歳かしら?」わたしたちはこたえない。ただしくは、こたえることができない。アビーはねむっているし、わたしはまだことばをつかえないから。かわりに、あのひとがこたえる。きんきんしたいやなこえで。


 ⚫私は、アビーの絵が好きだ。素直で繊細で、なにより自分に正直な気がするから。その言葉は、何度もアビーに伝えている。その度に彼女は、くすぐったそうに笑う。わたしたちはずっとこのままだとおもっていた。


 ⚫インターネットを開いて、動画を見ていた。見た目では、性別のわからない、ひとりのこどもについてのドキュメンタリーだった。とても楽しそうに、わらっている様子が、映し出されていた。「この子には眼球がないけれど、きっと何でも見えるし、全てを知っていると思う」「なんだか、かみさまみたいだね」私たちは、自分のことを障害者とは思っていない。不便だと、感じたこともない。わたしたちは、わたしたちだ。


 ⚫アビーの描く少女は、いつも憂鬱そうに佇んでいる。上半身には何も着けていない。黒く長い髪が、両方の乳房を隠している。暗い色の無地のスカート。大きな瞳。この子は一体だれだろう。モデルがいるのかもしれない。だれをモデルにしたのだろう。テレビで見た人だろうか。でも、アビーはテレビがあまり好きではない。


 ⚫アビー、おきて。


 ⚫時計の針が午後三時を告げると、ぎこちない動きの、限りなく人間の女の人に近い姿をしたライカが部屋に入ってきた。「エリナ、アビー、お薬の時間ですよ」ライカが運んできたトレーの上には、水の入ったコップと、白い錠剤がひとつ、のせられている。いつもと同じ時間に、いつもと同じ、私たちの体を助ける薬と、透明な水。アビーはまだ起きない。ライカが戸惑ったような顔をしているような気がした。「ありがとう。私たちは大丈夫だから、早くあの人のところに行ってちょうだい」ライカは何か言いたそうにしていたけど、「わかりました」と頭を下げて、部屋から出ていった。私はため息をひとつ吐くと、薬を口の中に入れて、水で流し込む。なんだか、いつもより苦い気がする。そう思った途端、視界がぐらりと揺れた。


 ⚫アビー、まだ、おきないの?


 ⚫少女が、こちらを見て、笑っている。アビーが、よく描いている少女だ。名前はたしか、アマノ、だったような気がする。いつもは、暗い色の瞳をこちらに向けているだけなのに、今は不自然な笑顔で、手には包丁が握られている。「えらんで」少女は、あどけない口調で喋る。開いた時に見える口内は黒く、目はもう笑っていない。茶色い瞳は、まっすぐに私を見ていた。「選ぶって、何を?」「しぬか、ころすか、いきるか、えらんで」私は何も言えなかった。


 ⚫私は、母親のことを、「あの人」と呼ぶ。私たちを疎ましく思う人間なんて、母親ではないから。人間でもないかもしれない。きっと、体内に、血が流れていないんだ。それか、私たちとは血が繋がっていないんだ。私たちはどこかに捨てられていて、気まぐれに拾われたんだ。そういったことを想像していると、私は自分のことをとても人間らしいと感じる。


 ⚫目が覚めると、白い天井が見えた。消毒液の、匂いがする。腰のあたりに、違和感があったから、隣を見ると、アビーが、いなかった。どこ? アビーは、どこ? 上半身を起こして、周りを見回す。アビーの名前を呼びたくても、言葉を発したくても、声にならない。私の口からは、叫び声しか出てこない。ばたばたばた、と廊下を走る音がした。白衣を着た人たちが、部屋の中に入ってくる。消毒液のきつい匂いのする女が、私の両手を握る。


 ⚫虫だ。虫が飛んでいる。たくさんの。不快な音。私は母親のことを、あの人、と呼んでいた。それがどうしていけないのだろう。あの人だって、アビーのことを、愛してはくれなかったのに。アビーをいない子にしたのは、あの人だ。


 ⚫アビーはねむっている。


 ⚫私は女の手を振り払った。また、叫び声が聞こえた。とても大きな声。あんなものを聞いていたら、気が狂いそう。いや、もう狂っている。だってあれは、私の声だから。腕にちくりとした微かな痛みが走る。そうだった。アビーは注射を怖がっていたから、通院日に、それを引き受けるのはいつも私だった。でも、アビーはもういないのに、どうして私は今、注射を打たれているのだろう。アビーがいないから、私の隣にいないから、こんなもの、無意味じゃないか。強烈な眠気がやってくる。私たちは、あと何回何十回何百回、人権を踏みにじられないといけないのか。


 ⚫私は母親のことを陰で、「あの人」と呼ぶ。優しいアビーは母親のことを、「お母さん」と呼ぼうとする。その度にあの人は、嫌悪感を顔いっぱいに、あらわにする。私たちはきっと、どこかに捨てられていて、あの人に拾われたんだ。あの人は何故か、私のことばかり愛した。愛、とは違うかもしれない。私だけを見て、私だけを心配し、私だけに笑いかける。そんなものは、愛ではない。


 ⚫あと、なんびゃっかい、なんぜんかい、なんまんかい、わらったら、ないたら、きりきざんだら、あなたにあえるの。


 ⚫アビーの泣き声が聞こえる。もう彼女はこの世界にいないのに。彼女を、私から離したために、死んでしまった。


 ⚫後から聞いた話だが、あの人は、ずっと病室にいたらしい。手術が終わってから、私が麻酔で眠っている間もずっと。心配そうに見ていたと、看護師から聞いた。息が詰まりそうな、消毒液のきつい匂い。


 ⚫私は今、死ぬか殺すか生きるか、どれかを選ばなければならなかった。


 ⚫ライカは処分されることになった。もう必要ないのだろう。元々は、私たちを監視させるために、どこかから買い取ったのだろう。私にとっては、ライカが処分されようが燃やされようが、どうでもよかった。どうせ痛みなんて感じないのだから。感情なんてインストールされていない機械なのだから。本当は、役立たず! と罵りながら、ライカを壊したかった。思い切り、殴りたかった。あの人の考えていることも、これからしようとしていたことも、ライカは何もかも知っていた。その上で、あの人を止めなかった。ライカは最後まであの人の言いなりだった。


 ⚫私は、しきりに小指の爪を引っ掻いている。このままネイルと一緒に剥がれてしまえばいいと思った。アビーはもういないから、私たちが私たちである証なんて、必要ない。意味がない。私は早く、アビーに会いに行かなければならない。


 ⚫私たちは、共通のもくてきがあって、きょうつうのもくてきがあって、わたしたちは、きょうつうのもくてきがあって。きょうつうのもくてきのために、ずっといっしょにいたのに。


 ⚫嬰児の泣き声が聞こえる。なんだかとても、懐かしい。アビーはずっと眠っている。私はアビーの髪を撫でようとした。だけど、手が動かない。視界がぼやけている。ねえ、アビー。わたしたちは、ここにそんざいしているだけで、いきていることになるけれど、それをゆるさないひとがいるから、そのひとたちのために、ころされてしまうから、だからはやく、にげよう?


 ⚫体につながれた、鬱陶しい点滴のチューブを引き抜いて、隣にある机の引き出しを開けると、当たり前のように、包丁が入っていた。「えらんで」アマノの声がする。うん、わかった。私は小さな声で返事をした。


(20200805)

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Cというこどもたち 七森 @magotto

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