不合理





「申し訳ありません、取り乱しました」


夏の自室にて。我に返った女は姿勢よく正座し、軽く頭を下げた。

夏はため息をする素振りをして、横目で女の姿を盗み見た。


───やはり、何度見ても綺麗だ。それこそ芸術品のように。


水のように透き通る髪と瞳、天女の羽衣のような煌びやかな着物、総てが人間離れした美しさ。

まるで画面の中から出てきたようなそれに、クールぶってはいるが、夏は酷く狼狽していた。

とはいえこのままというわけにも行かないし……さて、この状況をどうしようか、と思案し始めたとき、女は小さく呟いた。


「本当に、覚えていないのですか? 私のことも、あの時のことも」

「……」


"あの時"…と言われても、本当に身に覚えがないので困った。

大体こんなに妙な女、一度会っていたのならば忘れる筈がないのだ。…もちろん手を出した覚えもない。大事なことなので二回言うが、絶対にない。

夏が悶々と記憶と戦っていると、その姿を見た女が、やがて深くため息をつく。


「まあ、仕方がありません。人間の記憶力は鶏より乏しいと言いますしね」

「シンプルに失礼だな。そもそも “人間”って……。さっきから妙な言葉遣いするけど、あんた自分のこと何様だと思って、」

「神です」

「……え?」

「神霊(かみ)ですよ。紛れもなく」

「………は?」


……さらにこの場を混乱に陥れるような言葉が聞こえた気がして顔を上げれば、女は何がおかしいのかまったくわかっていないような、きょとんとした顔をしていた。

夏は寒気を感じた。

それもその筈、女は次の瞬間、ニッコリと擬音がつくような美しい笑顔で、畳に手を付いたのだ。


「改めまして、水神すいじん水分神みくまりのかみと申します。この度は、夏様にお願いがあって参りました」

「ちょ、待った待った待った待った!」


両手を女の前に突き出し、今まさに深々と下げようとする頭を阻止する。

夏は知っている。

頭を下げられたら最後、"お願い"が成立してしまうからだ。させない。絶対させない。

自身への危機を直感して、夏は女から極端に距離を置いた。


「悪い……俺 現実主義者だから、そういう電波的なのはちょっと…」

「でんぱ…? なんですそれは」

「わかった!お前あれだろ、オタクなんだろ? いるいる、俺の大学にもそういう奴いるよ。"私は魔法が使えます!"とかなんとか言えちゃうタイプなんだな、えっと、なんだっけ?厨二病? …ああっ、別に悪いとか言ってるんじゃなくて、いい趣味だとは思うけどさすがにいい歳なんだしもうちょっと現実を」


────ぱしゃあっ!




「………………へ?」




…何が起きたのか、理解するまでに時間が掛かった。

束の間の沈黙を経て、頭から肩にかけてひんやりとした感覚が襲うと同時に、上半身が濡れ滴った。呆然とした視界の先で、女がクス、と妖艶に笑ったのがわかった。


「魔法…でしたっけ? そういうのはよく分かりませんが、この程度の神力しんりきならばお手のものですわ」

「っ…」


途端に背筋が凍える感覚を覚える。

濡れた事による寒気ではなく、この"現象"にだ。女は今も尚美しく微笑んでいて、自分は情けなく目を点にするばかり。


(………一体どこから……)


女は“神力”と言っていた……が、俄かに信じ難い。でも、この室内には頭からかけるような水は何一つ存在しない。それこそ、あの一瞬で無いものを用意するなど、普通に考えたならば物理的に不可能なのだ。

……何よりも、自然とこれが『偽物ではない』と思い始めている自分が一番恐ろしい。普通に考えれば有り得ないことだ、何が水神だ、何が神力だ。


(でも、だって………、だけど。)


この数刻、自分が感じてきたこの女の存在の“違和感”が、目の前の現実を容易に受け止められるくらいの大きなしこりとなって夏の胸でジュクジュクと脈を打つ。

体が硬直する。

手に汗握るとはこのことで、目の前の女の顔が見れなくなって視線を下の畳に向けていると、ふと女の笑みは聞こえてくる。


「夏様。貴方は幼い頃、虚弱児でしたね」

「!」

「それこそ…いつ死んでもおかしくないと云われる程に。 持病は治りましたか?現在の身体の調子は?」

「…………なんで、そのこと……」

「ふふ、知ってますわ当然です。だって、貴方を生かしているのは、この私ですもの」

「!」


耳を疑う言葉に体が反応する。

昔の自分を知っているものなど、身内と一部の親戚だけのはず。ましてや、持病のことなど他人に一言でも口を割ったことなどない。つまり、夏にとってその話題が他人から出ることは『不合理』であることこの上ないのだ。






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