第一章 水分神
遭逢
────かーごめ かーごーめ
かごのなかのとりは
いついつでやる
よあけのばんに
つるとかめとすべった
「うしろのしょうめんだーれ?」
「───?」
月代
大学の講義を終えて友人の誘いを断って着いた帰路は、昼間の陽射しが真っ直ぐと差し込む木漏れ日の差す森道だった。
実家の神社の敷地内であるこの道を通って帰るのは昔からで、最近気になっていた作家の新作を読みながら木の葉を踏む音を聞き流しながら歩いていた。
気になる雑音なんかない。ここにいるのは自分だけ。静かで、音という音は小風で木々が揺れるそれだけのはず……なのに。
「……気のせい、か」
不意に、どこからか歌が聞こえた気がした。
しかし、背後を見回してみても人らしい影は見当たらないし、まるで自分を馬鹿にするように穏やかな風が木々を揺らしているだけであった。
夏はふっと嘆息を漏らす。
聞き覚えがあったそれは、大分懐かしい童謡だった気がする。それも、小さい頃、幼稚園のお遊戯で歌ったようなものだ。曲名は………忘れたが。
夏は気を取り直してもう一度読んでいた本に視線を移す。
同じページの字列をなぞれば、先程まで読んでいた部分が見つかる。喜々として、今度こそ意識を集中させた。
「………」
━━━━しかし。
夏は本を閉じて、改めて振り返った。
やはり、気のせいなんかじゃない。どこからか聞こえる微かなそれは、確かに夏の耳に届いている。
キョロキョロと辺りを見渡し、来た道を戻ろうと一歩踏み出した…………
その瞬間だった。
「わっ!」
先程まで穏やかだった風が急に勢いのいい向かい風となって夏を襲う。
思わず持っていた本を手放してしまって、地面に落ちたそれがパラパラと捲れる。咄嗟に右腕で顔を守った。
だが、こちらが身構えたのに反し、思いの外すぐにしんと森は静まりかえった。夏はゆっくりと腕を退かす。
「───へ?」
夏は目を見開いた。
さっきから違和感は覚えていたが、でも、いや、おかしい。
先ほど後ろを振り返った時は人っ子一人見当たらなかった。
歌さえ聞こえてはいたものの、気配はしなかったし……何より、これ程の“存在感のあるもの”、こんな森閑な林の中で見逃すはずはない。
けれど、気のせいならそれはそれでよかった。
夏はそう思っては振り返ったことを後悔しそうになる。
「…な、んだよ……これ……」
まるで天から降りてきたかのようにその場に降り立ち座り込んだのは、絹のような髪をした見目麗しい女だった。
“異様”だった。
透き通った水のように美しい髪も、羽衣のごとく煌びやかな着物も、独特な雰囲気も。外観こそは人とあまり変わらないが、何故だろう。この違和感は、どこから…。
「───夏様?」
「!」
女と目が合った瞬間に、自分の名を呼ばれた。
びくりと反応をしてしまったことに焦燥感を覚える。
「夏様…!!」
「うわっ!」
続け様に勢い良く胸に飛び込んできた女によって体ごと地面に叩きつけられた。
痛みに歪むこちらの表情になど目もくれていないようで、女は潤む瞳を細めて縋る様に夏の手を握り締める。その手の冷たさに、畏怖を感じた。
「ずっと、ずっとお会いしとうございました。漸く貴方様のお目にかかることができて…、わたくしっ、嬉しくて涙が………!」
「ぎゃああああ!!」
言葉と同時に滝の如く流れていく異常な量の涙があっという間に地面に水溜りを作り、夏の服を水浸しにする。
自分の名前を知っていること、異様なオーラ、そしてその奇怪な涙の量が夏に膨大な恐怖を与える。不審者とはこういう女のことを言うのだと思った。
しかし、そんな不審者と二人きりの今、夏には己の身は己で守らなくてはならないという事情がある。
こんな否が応でもパニックに陥りそうな状況の最中でもなんとか自我を保ち「ちょっと待て!」と女の肩を掴んで引き離す。
きょとんとする女の美しさや急激に止まった滝のような涙が気になるが、今はそれどころではなかった。
「ひ、人違いだ…!」
「へ…? ですが、」
「っ確かに俺は夏だけど、あんたに夏様と呼ばれるような身分も覚えもない…!そもそも誰だお前!」
「え!?」
女は水のような瞳を見開いた。
「お、覚えていらっしゃらないのですか?」
「は…? 覚えてないっていうか、初対面だろ…?」
「っ!」
首を傾げながら否定すれば、何を思ったのか、女はこれ以上下がらない程にまで眉を下げ、両手で口を押さえ、ふるふると震えだす。
…もちろんその様も異常だった。やがて、その目には再び滝のような涙が集っていく。
嫌な予感がした。
「酷いです…夏様…」
「え…」
「私は…、私は、貴方様にこの身のすべてを捧げたというのに!あんまりですわ…!」
「え!?」
「ふえぇぇ〜ん!!! 不孝者〜!!!」
「はあぁ!?」
やめろ!誰かに聞かれたらどうすんだ!!夏はそう叫んでは女の口を塞ごうとする。人気の少ない林の中とはいえこの台詞はまずい。道徳的に。
夏は慌てて周囲を見渡して、とにかくここを離れなくてはとその手を引いて走り出した。
今思えば、それが悪かったのだ─────。
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