武蔵野の青年

武蔵山水

武蔵野の青年

 今日看て過ぎた寺の門、昨日休んだ路傍の大樹も此次再び来る時には必貸家が製造場になって居るに違いないと思えばそれほど由緒のない建築も又はそれほど年経ぬ樹木とて何とはなく奥床しく又悲しく打仰がれるのである。

永井荷風 『日和下駄』


 ふいに風が立った。電車を待って居る人々は一様に身を震わせた。僕も身を硬らせ冷たい手をコートのポケットに突っ込んだ。気付くともう年末も目前に差し迫って居る。

 暖かい電車に乗り扉の横にもたれかかって車内を見回した。空席が目立つ車内、僕のような学生は一人としていない。窓の外に目をやる。武蔵野を走る中央線である。一体何が見える?流れ行く景色を見るが何も見えない。いや、何も見えないということはない。時と共に萱原は樹林へ、樹林は家屋へと景色を変えた。家屋が地平の限り何処までも続いている、それが今の武蔵野である。遠くにある樹林に囲われた公園がかつての武蔵野の面影を辛うじて見るものに教えてくれのだ。

 ある友がいる。電車に乗ると僕は決まってその友を思い出してしまう。友と歩いた道そして見上げた空を。何故に僕はその友との思い出を未だ暴力的に己に突きつける様に語ってしまうのだろうか。

 

 僕は立ち上がった。 

 三鷹の小さな喫茶店である。午後三時過ぎ、外があまりにも暑いためここで涼もうと思い入ってみた。お客は僕と彼女しかい。

 「久美の家は皇居から見て西側にあるでしょ」僕がそう言うと前に座って居る彼女はちょっと考えうなずいた。

 「西側は北とか南に比べて谷が少ないし坂道も緩やかなわけよ」と自信満々に言った。その時店内に入ってきたおじさんと目があった。僕を不審そうに見て居る。僕は視線から逃がれるようにして腰掛けた。

 「ふーん」彼女は素っ気なくそう言うと先ほど注文したメロンソーダを一口飲んだ。興味がないのかもしれない。一人で興奮してしまった僕を嘲笑うかの様に何処かに設置されたスピーカーからのどかなクラシック音楽が流れはじめた。

 「ごめん、つまらない話しちゃった」申し訳ない表情を浮かべて謝る。彼女は顔をあげた。

 「つまんなくはない」そう言って微笑んだ。

 「十六年生きててそんなこと考えたこともなかった」彼女はこめかみに指をやって考え込んだ。

 「あ、たしかにそうだ、遥すごい」と目を爛々と輝かせて言った。

 「いや僕が発見したわけはないけどね」と言ってみたが内心自らが発見したかのように得意になった。

 外は夏の盛り、まさに灼熱地獄。涼しい喫茶店にいつまでもいたかったが残念ながらそうはいかず僕はの暑いコンクリートの上に再び立った。流れる汗を拭う。彼女は平気なようである。快活に歩みはじめた。僕は遅れをとるまいと必死に横を歩く。しかし暑い。だが男たるもの弱音を吐くわけにはいかず気丈な振りをして彼女の横を歩くのである。住宅、住宅、また住宅。そんな道にポッカリと穴が空いたように畑がある。物珍しげにそちらの方へと目をやると一人の年老いた農夫がこの灼熱の暑さにも関わらず農作業に勤しんでいる。全く尊敬に値する。

 井の頭公園に入った時には陽がもう傾いて居た。夕暮れ時である。西陽が立ち並ぶ樹林の影をつくり実に綺麗だ。

 真っ赤な井之頭弁財天を通り越し橋の中腹で彼女が止まった。可愛い、と彼女は池に浮かぶカモを指さした。僕はそちらを見ずに適当にうなずいた。

 僕の視線の先には弁財天の屋根が微かに見えている。あの弁財天を何処かで見たことがある。もちろんここで見たのだが何処かでも見た。そうだ、川瀬巴水である。川瀬巴水の版画でこの地を題材に描いたものがあった。そういえば他にもこの地を題材にとったものがある。歌麿の浮世絵だ。武蔵野の虫聞きを描いた浮世絵だ。果たして今の武蔵野で風流な虫の音を聴くことは可能であろうか。虫の住む場所もずいぶんと狭められてしまったからな。

 僕の拳になにかが当たった。虫ではないだろうか。そしたらやだな。恐る恐る拳の方に目をやるとそれの正体は彼女の指であった。驚いて彼女の方を見ると彼女は僕の方を見て笑った。僕は勇気を出して彼女の手を取った。すると彼女もしっかりと僕の手を握った。

 「いこっか」と彼女。僕は彼女に引っ張られる様にして歩みはじめた。周りに目をやるとそんなカップルは大勢いるがその中でも僕らだけが特別で輝いている。何者にもなれないただの男がようやく誰かの大事な人になれた、そんな確信が生まれるほど僕はいま確かに幸福だ。

 「ねえ遥はこのまま帰るの?」

 ある雑貨屋の前で彼女が言った。僕が乗る電車は立川の方へ、彼女は新宿の方へ向かうので吉祥寺駅で別れざるを得ない。「そうだけど」と少し寂しくなって呟くように言った。

「送って行こうか」と言ってみたもののもしヤダと言われたら非常にカッコ悪いぞ。僅かに冷や汗が流れる。

 すると彼女は「ホント、やった」と言い少女のように喜んだ。

 周りは暗くなる。吉祥寺駅からは休日の労働を終えたサラリーマンと居酒屋を求める人々が波の如く押し寄せてくる。ようやく乗ることができた新宿行きの中央線の車内も人でごった返し座ることはおろか普通に立つこともままならない。僕はなにもできずただ呆然と流れ行く夜景を見るしかなかった。家屋のまばらな光が新宿へと進むに従ってビルの光へと変わっていく。 

 新宿で降車する人間は多かった。僕らは押し出されるように外へ出て押し込まれるように山手線に乗り込んだ。

 原宿駅に降り立った。いま僕の目には渋谷に新たに聳え立ったビルが写っている。二百メートルを優に超えるほど高い建物である。あの建物ができる前には一体何が立っていただろうか。残念ながら思い出そうにも思い出せない。あの悠然と君臨しているビルでさへ数年もすれば綺麗に無くなりまた新たなビルが建つ。そして無情にも忘れられてしまう。全く悲しいものである。 

 「ねえ行こう」とまた物思いにふけっている僕に彼女が言った。我に帰り少し遅れて彼女について行く。彼女は「近道」と僕の方を振り向いて無邪気に笑った。そして歩みは代々木公園の方へと向かった。夜の代々木公園はまさに暗闇である。街灯が少ない上に生茂る木々が僅かな光を遮り一寸先は闇である。

 真っ暗な欅並木を抜け、巨大なホールを越え建物に囲まれた通りを歩んでいる時、ふいに風が立った。強い風の行方を追う様に空を仰ぎ見ると真夏の少し青味がかった夜空に大きな満月が輝っていた。月の周りには恐らく文明の光により遮られた幾万、幾億の星々が光り輝いていることだろう。

「月が綺麗」と自然に口から出た。今、僕は何か告白めいたことをしてしまってはいないだろうか。恥ずかしい。隣を見ると彼女も月を見ていた。そして僕はもう一度彼女の手を取った。そして互いに微笑みあった。

 渋谷の繁華街をしばらく歩むと閑静な住宅街へと入った。

 「ここで」と彼女が僕の元から離れる。立派な二階建ての家である。家の光が外に漏れている。彼女は確かにここで生活しているのだ。そう思うと何だか嬉しくなった。

 「じゃあね」そう言って彼女が手を振った。僕も手を振り返した。そして僕は一人になった。彼女が家の扉を音を合図に踵を返す。帰ろう。少しばかり遠回りして。

 背後で彼女と彼女の家族の生活の音がした。


 ある友と別れてからもう二年になる。街へ繰り出すその折りに友と歩んだ道を、あるいは歩むはずだった道を辿ってしまう。思い出を断ち切ろうとすればするほど、己の中で形成された友の偶像が細部に至るまで明瞭に現れてしまう。友と歩いた武蔵野台地。武蔵野は青春の拭い難い記憶を抱いて横たわっているように思えてならない。

 新宿で降車し、あてもなく歩く。 

 代々木の住宅街を通りゆく。マンションのベランダには洗濯物が干してある。小さな床屋には人が入っている。すれ違った車には楽しそうに喋る家族が乗っていた。玄関に座り込んで遠くのビル群を見ながらタバコを吹かすオヤジがいる。そして僕の前にぎこちなく手をつないで歩く中学生のカップルが歩いている。

 冬の空は暮れ易い。武蔵野を真っ赤に染め今日も陽は沈みゆく。

 陽は萱原の頃も林の頃も、そしてビルが立ち並ぶ今も自然と人間の営みを見守ってきた。少年が恋の痛手を知ろうと少女が旅立とうとその眼差しは永久に変わらないだろう。

 いつか通った原宿の通りに来た。全くの無意識である。風が吹いた。空を仰ぎ見ると当然の如く白い月が輝っている。僕はたたずみ武蔵野の方を見た。いや、今はもう思うことしかできない。目の前にはコンクリートの建物が眺望を遮っている。

 街は、建物はいずれは見る影もなく綺麗に消えてしまう。しかし人の記憶は違う。いかなることがあっても語られ継承される限り消えやしない。ここから丹沢山と富士の山が見えることを僕は知っているように。いずれ武蔵野の地平の限り生えていた樹林の如く高層ビルが乱立して君と歩いた小金井の堤が、野川が消えたとしても僕は君との思い出を決して忘れることはないだろう。僕は君との思い出と共に死ぬまで生きることだろう。風が吹くように唐突に君を感じるだろう。

 何故に僕は君との思い出を未だ暴力的に己に突きつける様に語ってしまうのだろうか。それは君との思い出を語ることで君と一緒にいた一瞬の幸福を永遠にするためである。それもいずれ終える。

 僕は語った。君との思い出を。そしてこれからも僕は生きる。これより巡り合いし人と育む新たな思い出を語るために。

 僕はもう一度立ち上がった。

(了)

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