【2】喧騒の廊下から #1

 『土生海洋資源研究所』の最初の部屋は応接室のようだった。

 向かいの壁には扉と階段とが一つずつで、扉は開け放たれている。

 宇智也は迷わず扉を抜ける。

 その奥は短い廊下で、両側に幾つか扉が付いているが、どれも閉まったまま。


「ラゴウっ!」


 廊下の突き当りは右に折れていて、宇智也は叫びながらその角を曲がった。

 続く敬子も宇智也を追って右折した直後、宇智也の背中にぶつかりそうになる。


「ど、どうしたの」


 立ち止まっていた宇智也の前には金属製の重厚な防火扉があり、片側だけが開け放たれている。

 その向こうへと続く長い廊下の真ん中ほどで、血まみれの異形たちがぶつかり合っていた。

 片方は鮫頭で、首から下が水着の女性。

 もう一人……一匹は大きな蛇に見える。

 全体的に茶色に近い斑模様で、大きく開く口には鋭い牙がびっしりと。


「鮫? ウツボ? どっちがラゴウちゃん?」


 二の足を踏む敬子に対し、宇智也は迷うことなく駆け出した。

 鮫頭が、首に巻き付いているウツボを壁に叩きつけたから。

 その壁の近くには宇智也のシャツと敬子のサンダルとが転がっている。


「ラゴウっ! 負けるなっ!」


 宇智也は思わず叫んでいた。

 その直後、彼の視界はぐるんと大きく回転する。

 急激に近づく赤い床。

 宇智也が顔面ダイブだけは回避しようとガードした手が、ビシャッと粘性の高い水音を上げたのと同時だった。彼が血溜まりで滑り、金属扉の陰に倒れていた老人の横に転倒したことを自覚したのは。


 宇智也はとっさに血溜まりから離れようとしたが、間に合わなかった。

 宇智也の触れている血から、宇智也の中へ、老人の思考が津波のように押し寄せる。

 老人の人生の遠い記憶からから近い記憶までの中を、激流に弄ばれる木の葉のように流されてゆく宇智也の意識は、それを老人の走馬灯のようだと感じた。




 老人の名は土生とき保功刀ほくと

 流れ込んできた最初の記憶は、まだ小学生くらいの彼が友人と共に海を眺めているシーン。

 ゴツゴツした岩場はどこかの岬の突端か。


「人魚って本当にいるのかな」


「いるさ、ぜったい」


 そう答えた友人は網場あみば典斎のりなり。土生の幼馴染だ。

 二人は、海を見つめながら、神秘なる海へのロマンを語り合っていた。




 シーンが変わる。

 海洋生物の研究分野へと進んでいた大学生の土生は、賑わう街角で人を待っていた。

 特徴的な時計台のついた大きなビルは宇智也も見たことがある。

 ただ、彼の知る銀座とは景色がかなり違っている。

 車の数も違えば、その車種もかなり古びている。そして何より路面電車が走っていた。


「よう」


 声をかけてきたのは医学生となった網場。

 網場は有名なホテルグループの次男であったが、家業は継がず医者の道へと進んでいた。

 二人は連れだって喫茶店へと入り、近況を報告し合う。

 土生が海の女にばかり夢中なだから陸の女に相手にされないんだ、とからかわれていた。

 土生はまだ、人魚に会いたいという気持ちを失ってはいなかった。




 次のシーンは、土生自身がはっきりと覚えている二十七歳の秋のこと。

 土生が水族館のバックヤードで空き水槽の掃除をしていると、同僚から電話だと呼ばれる。

 電話に出ると網場だった。

 異常なほど興奮していて「人魚を見つけた。すぐに来い」を繰り返すばかり。

 土生は親戚の不幸だと偽って職場を早退し、自分の車で網場の指定した漁港近くを目指した。


 網場と合流した土生は、網場の案内で一軒の民家を目指す。

 粗末な木造の家の主は羽布木はぶぎ勇旗ゆうきという男で、当時亡くなっていた羽布木の母親が網場の元患者だった。

 高額な入院費用のために、羽布木はアワビなどを密漁し、網場はそれを買い取ってやっていた。

 そのおかげで羽布木は偶然知り合った『人魚』を捕獲したとき、真っ先に網場へと連絡してきたという。


 羽布木の家へ、網場は挨拶もなく入ってゆく。

 土生も続くと、異臭が鼻をついた。海の臭いと血の臭い。それらが混ざりあった酷い悪臭。

 広くはない家の中、その端に人が倒れ、その横にある大きな檻の中に『人魚』は横たわっていた。


 全体的なフォルムは二足歩行の人型だが、頭部は魚や両生類を想起させる容貌で、首の横にはエラに似たシワが幾つも並ぶ。

 着衣は粗末なズボンのみ。

 露出した上半身は見るからにゴツゴツとしていて、質感は鮫の肌に似ている印象。

 背中には鱗や背ビレがあり、全体的に暗い緑色。手足の指には水かきが見て取れる。

 悍ましいその外観に、土生は叫び声をあげてしまう。

 網場がすぐに土生を落ち着かせてくれたものの、土生は今度は臭いにやられて嘔吐する。

 土生の叫び声に気付いたのか、魚じみた化け物が起き上がる。

 そして喋りはじめた。


「僕の話を……聞いてくれないだろうか」


 日本語だった。

 語りだした化け物の名はぬま夫辺人おべと

 もとは普通の人間だったという。

 戦後間もない頃、日本を訪れたアメリカ人の父と、当時娼婦をしていた母との間に生まれた。

 しかし父は彼が物心ついてすぐに帰国し、「必ず迎えにくる」という約束が守られることはなかった。

 夫辺人は二十歳になったとき、父を探してアメリカを訪れる。

 父が帰国後に送ってくれた絵葉書だけを頼りに。


 母から習った英語は片言だったが、ハーフでもある彼の容姿は父に似て、戦後という時期ながら、夫辺人は単身、父を探し当てることができた。

 ニューイングランド地方の片田舎で、彼は父が戻ってこなかった理由を知った。

 彼の父はアメリカに戻ってしばらくして「発症」したのだ。半魚半人の化け物姿になる「呪い」が。

 呪いの名は『Deep Ones』。

 当時の夫辺人は、父の変わり果てた姿を見ても呪いの話を聞かされても不思議と、恐怖も嫌悪も感じなかったらしい。

 それでも、父からの「ここで一緒に暮らそう」という誘いは断った。

 彼もいずれ「発症」すると忠告されたが、日本に一人残してきた母をそのまま置き去りにはできなかった。

 父は渡航費を用立ててくれて、夫辺人は日本へ帰ってきた。


 夫辺人はアメリカへ再び渡ることも考えていた。

 今度は母も連れて。

 しかし、日本へ戻りほどなくして「発症」した夫辺人の姿を見た母の、厭忌の表情を見てそれを諦めた。

 はじめは部分的だった「発症」も、次第に全身へと広がってゆく。

 彼は季節を問わず体を隠す服を着て、包帯を巻き「酷い火傷の跡だから」と偽り、各地を転々としながら日雇いの仕事を探した。

 幸い「発症」後は体が頑丈になり多少の無理がきくようになったおかげで、母を支えられる程度の仕送りはできた。


 そんな生活で数年を過ごし、「発症」は全身に広がった。

 異様な容姿は隠しきることが次第に困難となり、人の集まる場所を避けるようになる。

 それには別の理由もあった。

 夫辺人自身が「発作」と呼ぶ現象。

 彼が母のそばを離れたのは、この「発作」によるところも大きい。

 「発作」が起きると彼は意識を失う。

 そして目覚めると、近所で動物への猟奇的な殺傷事件が起きていたりした。

 母を傷つけないようにと離れたことで、「発症」に対する母の視線や、約束を守らない父に対する母の愚痴からも離れることができた。

 すると「発作」の回数が減ったのだ。

 夫辺人は「発作」の原因が精神的なストレスにあると考えた。


 人と関わることによるストレス、人と関わることのできないストレス。

 そんなストレスを解消するために、夫辺人は海へ潜った。

 海の中で自在に泳ぎ回っているときは、何もかも忘れることができた。

 夫辺人が羽布木と出会ったのは、そんな海でのストレス発散から上がった時だった。


 羽布木は夫辺人を恐れず話しかけてきた。

 羽布木が若い頃、随分と無茶をしていた無頼漢で、地元では嫌われていたこと。

 そのせいで、羽布木の父が突然亡くなり彼が父の跡を継いで漁師になったときも、誰も彼を助けてはくれなかったこと。

 唯一助けてくれたのが、羽布木の母だったこと。

 かつて父の手伝いで船に乗ったことがある母の手伝いで、ようやく漁に出られたこと。

 しかしそんな母も無理がたたって入院し、先日亡くなったばかりであること。

 気分を紛らわそうと、自分一人のお気に入りの場所へ来たら、夫辺人が泳いでいたこと。

 母思いで、一人ぼっちの羽布木に、夫辺人は親近感を覚えたという。

 だから羽布木が、家で飲まないかと誘ってくれたときも、つい承諾してしまった。

 人生でもう一度、誰かと一緒に食事をとれることなんてもうないと思っていたから。


 それが昨日の夕方で、羽布木の家で酔い潰れて、目が冷めたらこの檻の中に居たという。

 事態が飲み込めないでいる夫辺人に対し、羽布木は「これだけの化け物ならば良い見世物になる」と言ったのだ。

 多分そこで「発作」が起きたんだと思う、と言いながら、夫辺人は肩を落とした。

 よく見れば檻の入り口は夫辺人の尻の下だし、部屋のあちこちに檻がぶつかった跡も多い。


 土生は警察を呼ぼうと言ったが、網場はそれを遮った。


「俺が治してやる」


 心神喪失状態の夫辺人に罪はない、と網場は言い切った。

 羽布木の死は、夫辺人の入れられていた檻がイノシシ捕獲用の檻だったこともあり、「羽布木の捕らえたイノシシが暴れて、運悪く事故死」として処理された。

 網場の親が地元の有力者でもあることから、見つからずじまいの「逃げ出したイノシシ」に対してもそれ以上の追求はなく、夫辺人は網場の持つ海辺の別荘に匿われた。


 警察へ真実を伝えられなかったことへの後悔に苛まれている土生へ、網場は尋ねる。


「人魚を見た感想は?」


 土生はその時、自分が人魚を見るために、仕事を休んでまでわざわざ来たことを思い出した。


「私は、自分が恥ずかしい」


 そう答えた土生の胸中では、幼い頃からの夢が静かに朽ちかけていた。

 人魚との出会いを、幼い頃よりずっと夢想していたし、実際、土生が出会った存在は、人魚と呼ぶにふさわしい半魚半人の姿をしていた。

 しかしその異形に相対した土生は、恐怖に絶叫し、あまつさえ嘔吐した。

 土生は嘆息していた。

 人魚の姿に悄然とする自分自身に。

 土生は気付いたのだ。

 自分の、人魚に対する興味や憧憬は、決して学術的なものではなく、下卑た欲望とほとんど変わらないものだったのだと。

 土生は恥を覚え、悔しさに泣いた。


「落ち込むなよ、土生。俺がこの奇病を解明してやる。そうすれば、お前が夢見ていた人魚にだって、出会えるかもしれないじゃないか」


 土生は驚いて網場の顔を見た。

 親友は、自分の求めていたものに気付いていたのだ。






●主な登場人物


渋沢しぶさわ 宇智也うちや

 臨海学校に向かう途中のバスで事故に遭った高校一年生。

 血の臭いに敏感で、それが死んでいる者の血かどうかが分かる。

 敬子は「混沌の血が混ざっている」と感じている。

 『土生海洋資源研究所』の中で血溜まりの中に手をつき、傍らに倒れている老人の走馬灯を見始めた。


天城あまぎ 敬子けいこ

 病院のベッドで目覚めた宇智也の手を握っていたハーフっぽい謎の美少女。

 血の臭いをさせて超常的な現象を起こしたり予知もできる『血魔術』を使える。


・ラごう

 鮫頭の以外全裸という変質者のような姿で、病院に突如として現れた無毛少女。

 体の一部へ鮫へ変身させることができる。ヒーローを目指している。

 全身をウツボにも変身できるようである。


・もうひとりの鮫頭人間

 ラ号ではない。ちゃんと水着を着用している。


土生とき 保功刀ほくと

 『土生海洋資源研究所』の関係者と思われる老人。

 小さい頃から人魚に会いたかった。


網場あみば 典斎のりなり

 土生の幼馴染。地元有力者の次男で、医者。


ぬま 夫辺人おべと

 アメリカ人の父より『Deep Ones』の呪いを受け継いだハーフ。母は日本人。

 その呪いは既に「発症」しており、外観が半魚半人の様相に。

 精神的なストレスにより「発作」が起きると、意識を無くして攻撃的になる。


羽布木はぶぎ勇旗ゆうき

 地元で嫌われている一匹狼漁師。密漁もする。

 夫辺人を見世物にしようと企み捕獲後、網場へ連絡したが、夫辺人の「発作」に巻き込まれて死亡。

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