第99話 記憶―02(アルフレッド・キャリエール視点)

「本当に、いいんですね?」


 サイモン司法官が三度、同じ質問を繰り返すと、ピーター・ポエトリーは土下座の体勢のまま、細い首が千切れるんじゃないかってくらい、首肯した。


「いいです! シャトー・グリフに行かなくて済むなら、どこだっていい! お願いします……! 助けて!」


 額を床に、ごしごし擦り付けている。


「あ、そうですか」と答えた、サイモン司法官の眼鏡の奥にある目は波のない水面のように凪いでいて、何を考えているのか、俺にはさっぱりわからなかった。


「ええと……それじゃあ……」


 サイモン司法官は事務的な手つきで、椅子と背中の間から分厚い封筒を取り出した。何故かは知らないが、元からそこに挟まっていたらしい。かさこそと音を立て、書類をテーブルに広げ始める。


「あとの手続きは、司法室が引き継ぐことになります。ポエトリーさん、貴方には後ほど、別室で写真を何枚か見ていただきます。その中に修道士モンクの写真があれば、指で差してください。なければ、貴方の証言を元に、絵師が似顔絵を描きます」


 ピーター・ポエトリーが、恐る恐る顔を上げる。


「は……はい。そんなことでよければ……」


 サイモン司法官は事務的かつ平坦な感じで「うん」と頷いた。


「そしたら修道士モンクは鬼みたいに怒っちゃうでしょうから、証人保護をつけましょう。あと、ここにいたら危ないので、国外へ引っ越しましょうかね。どこかすんげえ遠いところ……新大陸あたり。ついでに、新しい家と戸籍も差し上げます」

「……! そんなに……!」


 してもらえるんですか……と弱々しく呟いたピーター・ポエトリーは感動したのか、目尻の辺りを湿らせている。

 サイモン司法官は、お得でしょう? と言わんばかりに大きく頷いた。


「しかもなんと今なら、二十四時間警護つき。無期限で」

「!! あ……ありがとう……っ! っ、あ、ありがとうございます……!」


「いえいえ。それでは、ポエトリーさんには、裁判を受ける権利を放棄していただきます。この書類にサインを」

「はい!」


 ピーター・ポエトリーは、宝くじが当たったみたいに嬉しそうに、ペンを握った。

 そして、俺――アルフレッド・キャリエールは、状況の把握に努めていた。


 二年前、俺たち第二騎士団は、レディ・ブランシュのストーカー、ピーター・ポエトリーを捕らえ、シャトー・グリフにぶちこんだ。正式な裁判なんか、もちろんしていない。あの頃は戦後間もなくて、俺たちは今よりほんのちょっぴりやさぐれていたから、ちょっぴりだけど、痛い目にも遭わせた。

 

 しかし、今回はそんなわけにはいかない。これから正式な裁判が始まったら、ポエトリーはノワゼット公爵と第二騎士団を糾弾する――それはそう、いかにも三流大衆紙が喜んで食いつきそうな話題だ。


 もっとも、愛すべき上司ノワゼット公爵には図太すぎるきらいがあり、もう少し繊細さがあればなあ……としばしば残念に思わざるを得ない人だし、第二騎士団は誰も彼もデリカシーとは無縁で、元から信用も名声もあったためしはない。だからまあ、幸いにも俺たちは痛くも痒くもない。問題は――


 ――レディ・ブランシュだ。


 三流紙に面白おかしく、えげつなく書き立てられる、下品極まりない記事。火のない所から湧き立つ、悪意に満ちた噂。レディ・ブランシュは一躍、妖婦として祭り上げられるだろう。そうなったら、


 ロンサール姉妹が、傷つく。


 あの日だまりのような令嬢たちの未来にケチがつく――――


 ――そんな真似、させるか……!


 とまあ、張り切ってここに立っていたのであるが、


「ポエトリーさんが、、司法取引を申し出てくれたお陰で、丸く収まりそうで良かったですねぇ。キャリエール卿」


 柔らかな笑顔を浮かべたウィリアム・ロブが、いつの間にか席を立ち、俺の傍らに立っていた。白鳥の羽根のように軽い手付きで、肩を叩かれる。自分でも意識しないまま、張りつめていた肩が落ちた。


「……え、ほんとに? 裁判、ないんすか?」


 ぽかんと佇む俺の傍らに、いつの間にかロンサール伯爵も涼しい顔で立っていた。


「うん。ポエトリーさんが、修道士モンクに関する有益な情報の提供を申し出てくれたからね。司法取引だね。、司法官にいてもらって良かったね。政務室としてもさ、大事おおごとになるとジョゼフたちの謹慎が解けるのが遅れて、僕とウィリアムは残業続きになるとこだし、助かっちゃったなあ――」


 言いながら、伯爵が顔を寄せてきて俺に耳打ちする。


「……――まったくもう、私刑リンチなんて、金輪際やめてくれよ? ブランシュが困ることになったら、僕も困るんだからね」


 怒っている声ではなく、面白がるような声だった。からかうように、碧眼を細めている。


「はい、すいません――」俺は叱られた子どものように、素直に謝った。


 ふふ、とロンサール伯爵は目尻を和らげた。レディ・ブランシュとそっくりなのは知っていたけど、その目はレディ・リリアーナとも、やっぱり似ている。

 マジシャンが種明かしを披露するみたいに、伯爵は声をひそめる。


「実はさ、昨夜ゆうべのうちに話をつけていたんだ。ほら、ちょうど今、新大陸から来た使節団が王宮に滞在してるだろ? 修道士の頭巾党モンクスフードは新大陸でも、麻薬関連でちょこちょこ問題を起こしているからさ。修道士の頭巾党モンクスフードの壊滅は、ここローゼンダールだけでなく、今や世界の願うところ。使節団は、重要証人の保護を快く、固く約束してくれた。新大陸なら、さすがに修道士モンクも易々と手を出せないだろうし。――それに、彼には、新大陸辺りにいてもらった方が、ブランシュが安心すると思わない?」


「えーと、要は……」と俺は必死に、頭を働かせる。


「ピーター・ポエトリー、裁判も受けられずに、国外追放ってことっすね」


 二十四時間警護付きって、二十四時間監視付き、ってことだ。名と戸籍を失い、永遠に、祖国の地を踏めない。シャトー・グリフで二年我慢、あとは自由、の方が、明らかに得じゃないか。


「そうかなあ?」と伯爵は首を傾げ、すっとぼけて見せた。


「いいんじゃないですか?」とウィリアム・ロブが穏やかに微笑む。「ポエトリーさん、嬉しそうです。誰も、不幸になっていない」


「そうそう」と伯爵が明るい声で言う。


「気持ち次第なんだよ。幸か不幸か、なんてぜんぶ自分次第。世界はさ、自分の見たいように映る。前向きな気持ちで行ったら、国外追放は、海外移住に変わるわけじゃん?」


 さて、俺は、親父の起こした事件ゆえに国外追放され、失意の中、二年後に亡くなった兄貴の苦しみと絶望を、これからもずっと背負って生きていく――そう思っていた。


 幼かった――たったそれだけの理由で、赦されてしまった俺は、そうしなければならない。


 これはもはや、俺の魂に強く織り込まれた太い糸のようなもので、何をしてもどうやっても、決してほどけることはない。誰にも、何にも、どうしようもないことっていうのは、存在するんだ。


 ――生涯、この身に、業を背負って生きてゆく。


 ところが、この瞬間、まったく信じられないことが、俺の身に起こった。



「……自分、次第……?」


 ロンサール伯爵と兄貴は、よく似ているんだ。本当だ。いつもニコニコ前向きに笑っているところも。


 伯爵は、あっけらかんと笑った。


「そうだよ。実際ほら、僕なんかもさ、ついこの前、マルラン男爵に嵌められて、あやうく捕まりかけたじゃん? あの時も内心思ってた。もし万一、無実を証明出来なかったら、なんとかして国外追放に持ち込もう、って。その為にはどうするか、頭フル回転だったよ」


「言えてる」とウイリアム・ロブもいたずらっぽく微笑んだ。

 ちなみに、ロブ卿も兄貴と似ているんだ。いつも穏やかで、落ち着いているところとか。

「国外追放なら、どうとでも何とでもなりますからね」


「あれだね、ベタだけど、二年くらいは大人しくしといて、ほとぼりが冷めたら、死んだことにして、新大陸に渡って一旗揚げる、とか夢あるよね」


「ロマンもありますねぇ。ベタだけど」


 ベタだよねえ、と政務官たちは優雅に笑いあった。


 ――驚天動地。


 って、こういうことか、と俺は震えた。


「そ、そ、そ、……そんなバカな! 死んだふり……! ま、まさか! どうやって!?」


 急にあわてふためき始めた俺を、二人は不思議そうに見やった。


「? え、色々……方法なんか、山ほどあるじゃん? 闇医者に死亡証明書書いてもらうとか、断崖絶壁に遺書と靴を揃えて去るとか、山登るふりして実際は登らないとか、海水浴行って別の岸から上がるとか……っていうか、キャリエール卿、大丈夫か? やっぱり働きすぎ――」


「だ、だけど!」俺は叫んだ。


 どうやって亡くなったのか、詳細はわからない兄貴。失意の中? 誰が言ったっけ? 風の噂……ほど、あてにならないものはない。そんなまさか。


「新大陸に渡るったって、身一つで? そんなの無理でしょ、どうやって――」

「なに言ってるんだよ」


 ロンサール伯爵は、駄々っ子に教え諭すように、続けた。


「新大陸っていうのは、身一つで渡るのが定石だぞ。むしろ、そうじゃないほうが希少だ」


 た、確かに。

 伯爵は宝の地図を見つけた少年のように、眼を輝かせた。


「みんながみんな、身体一つ。胸に抱いて持って行くのは、『夢』だけなんだ。いいよなあ、眩しい。その状況でさ、何が助けになると思う? 爵位や金や屋敷は奪われても、決して奪われないものってあるよな。僕の場合は、この頭の中に詰め込んだものかなぁ」


 書斎で静かに、難しい本ばかり読んでいた兄貴の姿が、脳裏を過る。

 優しいピアノの音色。

 あんな風にピアノが弾けたなら、きっと荒くれ者たちからも一目置かれただろう。音楽は、人を癒すから。


 誰にも看取られることなく、隙間風の吹く部屋のベッドに横たわっていた兄貴のイメージは、台風に吹き飛ばされるみたいに、消えた。


 新大陸に、ここローゼンダールの知らせが届くまで、船でどのくらいかかるんだろう?


「やっぱり、アルはすごいなあ。僕の弟なんだ。王宮騎士になったんだ。僕の言った通りになった」


 鉱山王だか、新聞王だか、鉄道王だかって呼ばれている兄貴は、大きな部屋の中心にいて、人々に囲まれている。乾いた暖かな風が、明るい窓から吹き込んで、兄貴の髪を揺らす。俺の名前が載った古い新聞を広げ、指でなぞって、目尻を下げて、嬉しそうに笑っている。


 一度、現れたイメージは、命を吹き込まれたみたいに、俺の中でくっきりと輪郭を持った。もうこれしかあり得ない。――そう思えた。

 もちろん、現実は、どうだったかわからない。けれどこれから、兄貴を思い出し、想像しようとするとき、現れるその姿が変わったことだけは、確かだった。


「大丈夫か? キャリエール卿。やっぱ帰って休むかい?」

「やっぱり、第二騎士団は労働時間が長過ぎますよね。一度、私からもノワゼット公爵に――」


「大丈夫です」と俺は笑ったが、声は湿って掠れていた。視界が水の膜の向こうで揺れたから、慌てて制服の袖で拭う。

 でもこれはもちろん、悲しいからでも、働きすぎたからでもない。


「今から一週間だって、ぶっ通しで休まないでやれますよ。猛烈に、動きたい気分なんです」


 こうなったら、ぜったいに辞めるもんか。

 騎士道精神にのっとって、真面目に、まっとうに、王宮騎士を勤め上げてやる。

 兄貴が、俺の名が載った新聞を読んでいるかもしれないのだから。

 胸ポケットの恥ずかしい辞表は、さっさと焼き捨てる。そしてもう、二度と書くことはない。


「……そう?」と伯爵とロブ卿は怪訝そうに顔を見合わせた。



「それじゃ、別室に移動しましょうか。同僚たちと絵師が、待っているんですよ。――たまたまね」とサイモン司法官が、サインを終えた書類を粛々と揃え、颯爽と立ち上がった。


「ポエトリーさん、行きましょう。ランブラー、ウィル、また後でな。騎士団の皆さん、お疲れさまでした」


 伯爵とウイリアム・ロブは軽く手を上げ、サイモン司法官と親しげに合図を交わす。

 ドアを出て行こうとする、モヤシのようなピーター・ポエトリーの背中が見えた。


『不公平だ』『みんな、僕を敵視するんだ』そう叫んだポエトリーと、俺の居場所を分けたものは、一体、なんだったのだろう。俺たちはたぶん、よく似た道を歩いてきたはずなのに。

 

『心がけ』や『正義感』なんて陳腐なものでなかったことだけは、この俺自身が一番よく分かっている。


「おい、ポエトリー!」


 思わず、呼び止める。

 ポエトリーは振り返って、声の主が俺だと知ると怯えたウサギみたいに飛び上がった。サイモン司法官の後ろに隠れ、震えて縮こまる。俺は大声で叫んだ。


「そうだよ、お前の言う通りだ! 世の中は不公平だ! だけど、大丈夫だ! 唐突に、急に、思いもよらないタイミングで、救いはやってくるから!」


 たった今、俺の身に起きたみたいに。

 しかも、きっかけは、まさかのお前だよ。モヤシみたいな、ピーター・ポエトリー。

 まったく、神様は気まぐれで、悪戯好きだ。だから、生きることは最高で、やめられない。


「不公平だが、敵は思ってるほど多くない! この国で、周りが敵ばっかだったなら、お前はもう敵に会い尽くしたんだ。これ以上は会わない。これから行く新大陸で会う連中は、みんなお前の味方だ! だから、何か言われたら、なんか嫌なこと言われても、まずは『ありがとう』って答えてろ。そしたら、修道士モンクからも、ちゃんと護ってもらえるからな」


 サイモン司法官の背中から、子ネズミみたいに顔だけ出したピーター・ポエトリーは、動揺したのか、目を白黒させた。それから、顔を赤くして、ゆっくり司法官の後ろから出てくると、深々と、たっぷり三十秒くらい頭を下げてから、部屋を出ていった。


 長生きしろよ、と俺は口の中で小さく呟いた。



「……ほんとに一体、何がどうしたんだよ」


 ロンサール伯爵とウイリアム・ロブが、目を丸くして俺を見ていた。部屋の隅に控える他の騎士たちも、心からびっくり、って顔を向けてくる。


 ロンサール伯爵がこめかみを掻いた。


「いやあ……実をいうとさ、僕、君がピーター・ポエトリーを殴ったりするんじゃないか、って、考えてたんだ。――ぜんぜん、僕の勘違いだったな。ごめん」


 いや、ぜんぜん勘違いじゃないです。やる気満々でした。しかも殴るどころか、抜剣する気でした。

 ――とは、とても言えないので、「はあ、ははは」と曖昧に笑う。


「キャリエール卿のこと、誤解してたよ。海のように心の広い、たいした男だな、君は」

「ええ、まったくです。清廉な騎士の鑑、を見た気分です」


 ほう、とウイリアム・ロブが伝説の生物に出逢ったかのような息を吐く。

 感心、という空気と、大いなる誤解がこの部屋を満たす。

 白獅子と青竜の騎士たちまで、暖かい称賛の眼差しを向けてくるのには、弱った。


「え、えーと、で、この後、どうするんです?」


 なんとも居心地が悪くなって、俺はそわそわと視線と話題を逸らす。

 さすがにお開きかな? まだまだ働ける気分だけど、仕事はもうなさそうだ。


「それなんだけどさ」とロンサール伯爵が再び、大天使ミカエル然とした微笑を浮かべた。


 だんだんと、鈍感な俺にだって、気付くものがあった。

 どうも、伯爵が大天使ミカエルみたいになるときは、ヤバイ。決して、逆らってはいけない合図だ。


「ピーター・ポエトリーみたいな子ねずみは可愛いもんだけどさ、修道士モンクの方が、僕は気になるんだよね」と、大天使ミカエルは大聖堂の天井画すら霞ませるような、慈愛に満ちた微笑を深める。


「ブランシュに懸賞金を掛けておきながら、リリアーナには手を出すな、って言ったって? 意味不明だよなあ。大事な『花』だから? 何の隠語だよ。僕の大事な従妹たちに、近づく気かなぁ? つーか、お前誰だよ。正体不明? 不気味なんだよ。これって、もうさあ――」


 凄絶に美しい笑みを深めて、伯爵は首を傾げた。部屋の空気がゆらっと不穏に揺れた気がした。

 気温が五度くらい下がった気がして、思わず窓を見る。開いてないから、すきま風じゃない。おかしいな。


「――僕、喧嘩売られてる、ってことでいいよねえ?」


 そわそわと窓の隙間を確かめる騎士たちを横目に、「そう思うね」とウィリアム・ロブが優しく相槌を打つ。


「面白い。言い値で買ってやるよ」


 ロンサール伯爵が、柔らかく目を細めた。





 

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