第98話 記憶―01(アルフレッド・キャリエール視点)

 ――昨日の晴天が嘘みたいだ。


 窓の外に目を向けると、鉛色の空が手を伸ばせば届きそうなほど、王宮の庭にのし掛かっている。


 考えてみれば、人生と空は、どこか似ている。

 今日は晴れでも、明日は知れない。


「――キャリエール卿は屋敷うちに行かなかったの? 夕べはカマユー卿やウェイン卿と一緒に枢密顧問官の屋敷を回っていて、ほとんど寝てないんだろう?」


 細く長い指で優雅にティーカップを持ち上げて、ランブラー・ロンサール伯爵が穏やかに微笑みかけてくる。


「大変だったろ? 枢密顧問官なんて、ひと癖もふた癖もある。夜中に叩き起こして書類にサイン貰うなんて、筆舌に尽くしがたい苦労だったろうね」


 伯爵の毒舌交じりの労いに、俺はぼんやりしたある思考から引き戻された。


「ああいや……はは。はいまあ。そんなわけで、今日は若くて体力ある俺が志願しました」


 へえ、とロンサール伯爵は形の良い片眉をいたずらっぽく上げて見せる。


「キャリエール卿、仕事熱心だな。今頃、ノワゼット公爵やウェイン卿は、ブランシュとリリアーナから労いと感謝の言葉を雨あられと受けて、疲れが吹っ飛んでる頃だろ。一緒に行ったら良かったのに」


「いいです。俺、この仕事、本当に好きなんで」


 同じく、一人掛けソファに優雅に腰かけて、ウィリアム・ロブ卿が柔らかく微笑む。


「ふふ、ノワゼット公爵は部下に恵まれていますね」


 テーブルの上では、紅茶から立ち上る湯気が穏やかな曲線を描いてくゆる。


王宮こっちでやり残した仕事もありますし。それより、カマユー、うまくいってるといいっすけど」

「ふっ、そうだね」

「きっと大丈夫でしょう」


 リーグ・ホワイトから、アナベルがハイドランジアの近衛騎士だと知らされたときは、さすがにたまげた。


 アナベル……あのこがねぇ……。


 けれど実際、あまりピンと来ない。

 レディ・リリアーナお気に入りの、色白で線の細い、印象がどこか希薄な侍女。

 見かけに寄らな過ぎる。

 彼女が覗いていたのは、暗い暗い闇の淵だったのだろうか。


 本音を言えば、カマユーには太陽のように明るく、春風のような天真爛漫な子と、曇りない明るい未来を手にして欲しい気もした。

けれど――――余計なお世話ってやつだろう。

 幸せの形は、人それぞれだ。

 人は未来を想像することはできても、予知することなど、到底できないのだから。


「結局のところ――」とロンサール伯爵が鈍い窓の外に目を遣りながら、穏やかに続ける。


「僕らは信じたいんだよね……。恨みとか憎悪とか妬みとか、国同士の諍いなんてものには決して負けない、もっと素晴らしくて強い感情が、人間には備わっているってことを」


 ロンサール伯爵とロブ卿は、優雅に微笑を交わした。


「カマユー卿なら、きっと大丈夫でしょう。その『もっと強いもの』が、彼にはあるように思いますから」


 俺も強く頷く。心から。


「そうっすね」


 さて、仲間に言ったら、「嘘だぁ!」と突っ込まれるに違いないので、決して口にしないと決めているけれども、似ているといえば、ロンサール伯爵とロブ卿を見るたび、俺は国外追放された兄貴を思い出す。


 ――やっぱりこの二人、兄貴とよく似ているなぁ。


 穏やかで、人当たりが良いところ。優雅で完璧な貴公子然とした物腰。座り方や、紅茶の飲み方。柔らかな微笑。剣よりも本が好きなところ。暴力が嫌いなところ。本質が慈悲深いところ。


 それから、性善説を信じきるあまり、足元を掬われそうなところ――――



「さ、それじゃそろそろ、本題に入りますか?」

「ああ、騎士の皆さんの労働時間も心配です。――――ピーター・ポエトリーさん、紅茶のお代わりはいかがです?」


 ここは、王宮政務室の真下にある応接室。


 長い足を組んでゆったりと腰かける『王宮一美しい政務官』と『王宮一優雅な政務官』に揃って優しく笑いかけられ、ピーター・ポエトリーは眩しそうに目を瞬かせた。

 

「はあ、あの……それじゃ、お言葉に甘えて……」

「どうぞ。喉が乾いていては話もしにくいですから」

「あ……どうも」


 ポットから注がれる紅茶の香りが、室内に満ちて空気を柔らかくほぐす。


 天鵞絨張りソファーの座面の真ん中に、肩を狭めて小さくなって腰掛けるのは、ピーター・ポエトリーだ。


 昨夕、あの事件の直後、身柄を拘束して連行しようとした俺たちは、ロンサール伯爵をはじめとする王宮政務官たちに引き止められた。


 ――『王宮で薬品が撒かれた……今回の事案は重大だ。きっちり法の手続きを踏み、慎重に進めなければ、後で問題に発展する恐れがある』と。


 ――レディ・ブランシュのストーカー。国務卿の名を騙り、修道士モンクと接触。闇社会でレディ・ブランシュの顔に懸賞金を掛け、自らは王立病院で劇薬を盗んだ。

 そして昨日、緑礬油りょくばんゆをレディ・ブランシュにかけようとして失敗し、庇ったアナベルにかけた男。


 生まれたばかりのヒヨコよりも軟弱そうなピーター・ポエトリーと共に、白大理石のテーブルを取り囲むようにそれぞれ一人掛けソファでゆったり寛いでいるのは、ロンサール伯爵、ウィリアム・ロブの二人の王宮政務官と、さっきから大人しく紅茶をすすっている司法官だ。


「彼は、我々の同期で友人の、司法官です」

「サイモンです。よろしく」

「あ……どうも」

「今日は、ポエトリーさんからほんのちょっと話を聞かせてもらうだけです。ですが、後で問題にならないように。念のため、司法官にも同席してもらいます。優秀で、誠実な仕事をする男だから、そう緊張しなくて構いませんよ」


 朗らかに、ロンサール伯爵が紹介する。


「それから、向こうにいるのは、僕らの同僚。今日の書記係です」


 壁際に設置された飴色のマホガニー細工の机には、真面目そうな政務官が書記として着いていた。


 彼らをぐるりと取り囲むのは、扉前、窓際、壁際に佇む、白、浅葱、黒の俺を含めた王宮騎士。

 政務官と司法官が揃って柔和な微笑を浮かべているのに対し、騎士たちは皆、殺気じみた視線をピーター・ポエトリーに送っていた。


 恐る恐る怯えた視線を向けてきたピーター・ポエトリーは、俺と目が合うなり、ぶるりと細い全身を震わせた。


「さ、紅茶にハチミツはいかがです? 気持ちが落ち着きますよ」


 ウィリアム・ロブが長い足を組み替えながら、深遠な宇宙のような瞳を細める。ピーター・ポエトリーはやや緊張を解いたように見えた。


「は、はあ………」


 はちみつの瓶に手を伸ばそうとしたのを軽く制し、ウィリアム・ロブが手ずから黄金色にとろける液体を一掬い、ピーター・ポエトリーの前のティーカップに注ぐ。


「あ……どうも……」


「いいえ。おくつろぎください」


 ウィリアム・ロブに勧められ、ピーター・ポエトリーは頬を紅潮させ、白金プラチナで縁どられた白磁のティーカップを持ち上げた。はちみつの甘い香りが立ち昇る。

 チッ、と向こうの端で、白の騎士が苛立ったように舌打ちする。うん、気持ちわかる。


 まるで、大事な客に対する扱いじゃないか。


 ――ピーター・ポエトリーの量刑は、どうなるんだろう?


 司法官に訊いてみたい衝動に駆られたが、耐える。

 法に則って処理するなら、死刑にはならない気がする。

 ポエトリーの杜撰な計画はどれも「未遂」に終わり、昨日はシュバルツ政務官の客として王宮にいたのだから、王宮不法侵入罪は不成立。

 侍女に軽い怪我を負わせはしたものの、貴族や騎士に怪我はなし――――。



 穏やかな表情で、ピーター・ポエトリーを見つめる伯爵を見る。

 そういえば、この伯爵は、かつて、あやうくマルラン男爵に嵌められるところだった。

 そういうところも、兄貴と似ている。



 ――『いいこにしてろよ、アル』


 長く細い手で、俺の頭を優しく撫でた兄貴。

 今思えば、兄貴は見た目も性格も、親父に少しも似ていなかった。

 俺の方が、ずっと似ている。

 許されてあのまま王都にいられたなら、優しい音楽で人を癒せる人間になっていただろうか。俺の悩みに静かに耳を傾けてくれただろうか。勉強が好きだったから、伯爵のように王宮政務官になってたかもしれない。


 ねえ、伯爵。

 悔しいけど、この世には、優しさと誠実さだけではどうにもならないことがあるんですよ――――。



「さて――」


 奥歯を噛みしめた瞬間、ランブラー・ロンサール伯爵が素晴らしく整った顔に笑みを深めた。


「――実はね、僕が後見人を務める従妹、ブランシュに以前、君が手渡した手紙というのを読ませてもらった。……後見人として言わせてもらうと、あれはちょっと、いただけないね?」


 ピーター・ポエトリーは焦げ茶色の瞳を激しく瞬かせる。


「……だ、だって! じょ、女性は、強引なのが好きだって! それを実践しただけで! だ、だ、だいたい、ブランシュを本当に理解できるのは、僕しかいない! なのに、ブランシュは……人でなしアラン・ノワゼットなんかと……! 黒鷹の犬どもが、僕をどんな目に遭わせたか! こいつらは――」


 ピーター・ポエトリーは、怒りに震える指を俺に向けて立ち上がった。


 しかし、目が合った途端、ピーター・ポエトリーは「ひっ」と青くなって、腰を抜かしたようにソファに沈みこむ。


 ランブラー・ロンサールが、まあまあ、とでも言いたげな視線をこっちに送ってくる。


「キャリエール卿、そんな風に眉を寄せちゃ、ポエトリーさんが怯えてしまう。――それはともかく、」


 ロンサール伯爵は柔らかく笑んだまま、真剣な眼差しでピーター・ポエトリーの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「――暴力は困ります。ポエトリーさん、昨日のあれは、やりすぎでは?」


 ウィリアム・ロブが理知的な眉をほんのり寄せる。

 果たして、ウィリアム・ロブが感情の起伏を表す様は、想像するのも難しい。世界が滅ぶその時も、ウィリアム・ロブはきっと優雅に微笑んで紅茶を飲んでいる。


「あんな物騒なことを書いた手紙を受け取ったら、女性が恐怖に駆られるのは当然です。昨日だって、人に液体をかけてはいけませんね」


 穏やかな声音に当てられたのか、ピーター・ポエトリーは赤くなって俯いた。

 

「……ぼくは、ぼくは……! ブランシュが好きなだけだ!……なんで、ぼくだけ。どうして、どうして……どうして、ぼくだけがこんな目に。不公平だ! だから、ちょっと嫌がらせしてやろうと思っただけで……本当です! 殺してやろうとか、そんなことは決して! 現に、誰も怪我しなかったでしょう? あれね、実は……瓶は緑礬油でしたけど、中身は別のものだったんです」


「え?」と顔を上げたのは俺と他の騎士だけで、ロンサール伯爵とロブ卿は「うんうん」と頷いていた。


「あ、やっぱり? 薄々そうじゃないかと思ってたんだ」


「ど、どういうことです!?」


 慌てて訊くと、ウィリアム・ロブが、俺に向かって柔らかく頷く。

 

「アナベルの服ですよ。運河から上がってきた彼女を見て、おかしいと思いました。侍女の制服は綿で出来ています。人の肌はこう見えて強いので、緑礬油りょくばんゆをかけられてもしばらく耐えますが、綿はそういうわけにはいきません。あれが濃度百パーセントの緑礬油なら、数秒のうちにぼろぼろに崩れていたはずです」


「そ、そうなんですか……?」


「うん。――それで、ポエトリーさん、あの中身は?」


「……………ほんの少し、緑礬油りょくばんゆが混じってるけど、ほとんど海水です。あれは、……海の近くを歩いてるときでした。あいつら……鴉どもが襲ってきたんです……! 海に落としちゃって……中身はほとんどこぼれた……ちくしょう! 何で鴉どもまで僕を目の敵にするんだ! 不公平だ! 何もかも不公平だ!!」


 不公平不公平――か。

 しかし、人の善いロンサール伯爵とロブ卿は憐れみの眼差しをポエトリーに向ける。

 ロンサール伯爵が、子どもに言い聞かせるよう優しく口を開いた。


「嫌がらせ……。愛を乞うときにすることが? 人は鏡だ。優しくすれば、優しくされる。そのときは帰ってこなくても、いつか先、周り回って、行いは自分に戻ってくる」


「……う、ううっ……! だ、だけど、悪いのは、アラン・ノワゼットなんだ!」



 ――『おまえも、ひとを殺したくなったりすんの?』


 昔、従兄弟たちに訊かれた言葉を思い出す。


 俺は兄貴よりもずっと親父に似ていると自負しているけれど、そういう衝動に突き動かされたことはない。

 

 目の前で喚くピーター・ポエトリーを見ても、心は凪いでいた。殺したいなんて、思うわけない。

 ただ、哀れだと思った。

 だけど、しょうがない。

 この男は、親父と同じだから。


 ――周りを不幸にする。




 顔を覆って泣くピーター・ポエトリーを見て、ロンサール伯爵がそっと息を吐く。


「……ああ。実際、昨日のあれが緑礬油りょくばんゆでなかったのなら、君はたいした罪に問われないだろうと思うよ。……結果的には、鴉に助けられたね。それにね、君のことは、気の毒に思う。ストーカー行為だけでシャトー・グリフで終身刑は、さすがに行き過ぎだ。……今後、君の裁判で事の次第が明らかになっていくだろうが……」


 胸が、重たく沈んだ。


 兄貴に似た、この優しい伯爵をがっかりさせてしまうかと思うと。


 ――ノワゼット公爵、怒るだろうなぁ。勝手なことをして、って。ラッド卿も……怒るかな? カマユーはめちゃくちゃ怒りそうだ。ウェイン卿は何て云うかな。ルイーズは「大馬鹿者」と大激怒しそうだ。


 

 ――ピーター・ポエトリーが、裁判に出ることはない。


 今日この後、牢へ送る途中。


 俺がやるしかない。



 ――『キャリエール卿のお父さまがなさったことは、キャリエール卿とは関係ない』


 胸を過る、リリアーナの声音。


 もう二度と、ロンサール姉妹に近づかせない。

 殺すまではしない。けれど、二度と昨日のようなことは起こせないようにする。


 ――もらった恩を、返すときだ。


 胸ポケットの中に、昨日付けの辞表を入れた。これで、この部屋を出たあと、俺が今からすることは、第二騎士団とは関係ないことにできる。



「本当にね、ポエトリーさん、お気の毒です。でもね、不思議なんですよ」


 ウィリアム・ロブが首を傾げる。


「ポエトリーさん、貴方はシャトー・グリフへ査察に訪れた私の同僚、ジョセフ・シュバルツ政務官に助けを求め、二度と出られないはずの監獄から出ることができました。貴方が社会復帰できるように、シュバルツ政務官は尽力した。それなのに、なぜです?」


 その名を聞いて、ピーター・ポエトリーははっと顔を上げた。


「あ、そ、そうだ! シュバルツさんはどこです? あの方には、親切にしてもらったから、ぼく、本当に……お礼を……」


 ウィリアム・ロブがゆったりと微笑む。

大天使ラファエルは、こんな風に慈悲深く笑いそうだ――と思った。


「シュバルツ政務官なら、昨日、貴方を王宮に引き込んだせいで、謹慎中です」


「……え? ええ!? シュバルツさんが? ぼ、ぼく、あの人に迷惑をかけるつもりは――」


 ロンサール伯爵は、穏やかに微笑む。大天使ミカエルは、こんな風に端然と微笑むんじゃないか――と思った。


「ジョセフ・シュバルツは、血の滲む努力をして王宮政務官になった、心身の健やかな、僕らの自慢の同期だが、王宮には戻ってこられないかも知れないね。――ほら、君が昨日やらかしたことは、なかなかどうして、盛大だから」


「……っ! そんな!! シュバルツさんは悪くありません! 昨日のことは、僕が勝手に――」


「いやしかし、社会の仕組みとはそういうものなのだ。ちなみに、昨日、ポエトリーさんにお茶を淹れたウィルトン政務官も、近くにいたのに君の凶行を止められなかったとして、一月の謹慎処分になった」


「……そ、そんな……僕は、ほんとに……シュバルツさん達には感謝……」


「そんなわけで! 昨日の件だけれど、君はシュバルツから手を差しのべられたのに、あえて復讐の道を選んだ。王立病院から劇薬を盗み、ブランシュの顔に懸賞金を掛けた……昨日は王宮で衆人環視の中、あの騒ぎ……前の件は気の毒とは思うが、またしばらくシャトー・グリフに戻ることになると思う。まあでも、次はほんの二、三年で出られるんじゃないかな? もちろん、裁判の結果次第だけれど」


 ピーター・ポエトリーの瞳が恐怖に見開かれた。


「シャトー・グリフ!! あ、あ……! あそこが! どんなに酷いところか知っているんですか!? 戻るのはいやです……っ!」


 瞬間、俺の苛立ちが沸騰した。


「贅沢言ってんじゃねえよ!」


 しまった。口が勝手に、と思ったときには、ピーター・ポエトリーはモヤシっぽい体を飛び上がらせていた。


 ロンサール伯爵が穏やかな物腰のまま俺を見上げる。


「キャリエール卿、よしたまえ」

「ロンサール伯爵、だけど――――」


 その先は、ぐっと唇を噛んだ。


 だけど――――


 ――俺は、あんた達が心配なんですよ! 本当に、そんなお人好しじゃ、いつか足元を掬われる! 俺の兄貴みたいに!


 ――俺は、もうすぐここを去ることになるのに! 


 王宮で、抜剣する。

 けれど、相手が相手だから、どこか遠い場所に追放されるくらいで済むだろう。


 またどこかで傭兵になって、周りに気味悪がられて、一人きりで味のしないスープを啜る。


 いいよ。構わない。


 ――『ごきげんよう、キャリエール卿』


 ずっと、死ぬまで、忘れないでいればいい。

 あの微笑みを。


 だけど、ロンサール伯爵、あんたに没落されるのは困る!


 ――あんたは、レディ・リリアーナの後見人で、ロンサール姉妹を守るっていう大事な役目があるだろう!


「ほらほら、キャリエール卿、ひとまず深呼吸」


 人の気も知らず、ロンサール伯爵はウィリアム・ロブと意味ありげな視線を交わした。

 しかしすぐ、二人とも、痛ましげに視線を下げる。


「さて、そうなると問題は……修道士モンクの方です……」


「そう……君は、ブルソール国務卿の名を騙り、修道士モンクを騙したそうだね。闇社会に君臨する頭の面目を潰したわけだ。……どうやら、かなりお冠みたいで、君の首には、百万フラムの懸賞金がかけられている」


「ひゃっ、百万……!? う、嘘でしょ……!?」


 ピーター・ポエトリーの顔から、みるみる血の気が引いてゆく。


 百万フラムとは、城を買って贅沢三昧という人生を三回繰り返しても、まだ余る額だ。修道士モンクは相当怒り心頭らしい。


「そんなわけで……今後、世界中の無法者たちが、君の首を掻き切るべく殺到する。……お気の毒に……」

 

 天から二物以上のものを与えられた大天使ミカエル――ならぬロンサール伯爵は、悲しげに眉を顰めた。

 優しき大天使ラファエル――ウィリアム・ロブ卿も、同じく気の毒そうに言い募る。


「……本当に……何と声を掛ければいいのか。この状況でシャトー・グリフに行くなんて。同情を禁じえません」


「あそこは犯罪者の行き先。……修道士モンクの手下も数多く収監されているわけだから…………」


「そういえば、以前、修道士モンクのシンジゲートのほんの一角についてぽろりと情報を漏らした麻薬の売人の末端がいましたよね。収監された翌朝には、冷たくなっていました……。逆さ吊りで、舌を抜かれ、歯を全て折られ、壁には血文字で――」


「おいウィリアム、よさないか。ポエトリーさんが不安になるだろう」


 眉を顰めたロンサール伯爵にたしなめられ、ウィリアム・ロブがはたと居住まいを正す。軽く咳ばらいをして見せた。


「ああ、そうでした。失礼、忘れてください」

「忘れ……え?」


 仕切り直すように、ウイリアム・ロブはぱっと華のある笑みを浮かべた。


「ご心配なく、ポエトリーさん。我々が刑務官に一言、申し添えておきますから。激務な看守は慢性的人手不足なんですが、貴方のいる監獄をほんの時々でいいから、多忙の合間を縫って見回ってくれるように、と」


 ロンサール伯爵がにこにこと、明るい笑みを浮かべる。


「そうそう。住めば都、と言うしね。シャトー・グリフだって考えようによっては、そんなに悪くない! ええと……例えば、南部海岸から五キロ沖、激しい潮流に囲まれた脱獄不可能な草も生えぬ絶壁の孤島……つまりその、南部は王都よりも温暖だろう。小さな鉄格子窓の向こうに覗く、青い空にカモメが舞い飛ぶ様はさぞ雄大だろうね。修道士モンクの刺客にだけ気をつけていれば、二、三年の我慢だ!」


 ランブラー・ロンサールが、「雨上がりの虹のよう」――と王宮の侍女たちが形容する麗しい笑みを称える。


「遠く離れた王都で、ポエトリーさんの生還を心から祈っています」

「ええ、なんとか生きて帰ってきてください」


 にこやかにエールを送る天使のような王宮政務官らを前に、ピーター・ポエトリーはぷるぷる震え出した。


「ぼ、ぼ、ぼく……ぼく……っ! あっ、うっ、お願いです! 助けてください……!!」


 涙交じりの懇願に、同期だとかいう三人の王宮政務官と司法官は、困惑気味に顔を見合わせた。


「……と言われましても……困りましたね。ほら、政務室は昨日の件のせいで二人も謹慎で、猫とネズミの手だって借りたい深刻な状況ですし……」

「助けてあげたいのは、やまやまだけれど……そんな方法、あるわけが――いや、まてよ……ないこともないか? なあ、サイモン司法官、気の毒なポエトリーさんを救うには、もうあの方法しか残っていないんじゃ――」


 蜘蛛の糸にも縋り付く勢いで、ピーター・ポエトリーはソファーから飛び降りた。膝をつき、床に頭をこすりつける。


「な、何でも! 何でもします! ブラン……いえ、レディ・ブランシュ・ロンサール……様のことは、きっぱり諦めます! もう二度と近づきません! これからは、前向きに、……罪を償って生きるとお約束します! だから、だから、お願いです!……助けてください!!」


 細い身体を折り畳むようにして、床に頭を擦り付けて懇願する様は、さすがにあまりに哀れで、少しばかり――ほんの少しだけれど、ちくりと胸が痛んだ。やっぱり、ちょっと手加減してやろう。


 ロンサール伯爵が、子羊を慈しむように碧い眼を細める。


 長い足を組んでソファに凭れ、にっこりと微笑むその姿は、大天使――いや、というより、これは、まるで――どうしてか伯爵の背後に黒いオーラが見えた気がして、思わず眼をこする。


 甘く優しい囁きが、ピーター・ポエトリーの上に落とされる。



「それなら、――ここらでひとつ、生まれ変わってみる?」



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