第97話 世界で一番強いものー02(アナベル視点)

「伝家の宝刀を抜かなくっちゃねぇ……」


 レディ・ブランシュがそう呟いた直後、扉が外側からコンコン、と控えめにノックされた。

 リリアーナとレディ・ブランシュがはっとしたように視線を向けて、アリスタが扉に駆け寄る。


 扉が開く前から、私には気配で誰だかわかった。


 覚悟はとうにできていたはずなのに、心臓が激しく脈打つ。胸が苦しい。あの空色の瞳は、どんな風に私を見るの? 俯いてシーツを握りしめる。



「――あら、カマユー卿……ごきげんよう」


 扉を開けたアリスタからは探るような視線を、リリアーナからはおっとりとした挨拶を受け、トマス・カマユーは、緊張しているのか固い声で返した。


「あ、はい。ごきげんよう……。えっと、あの……どうしてるかな、と思いまして」


 トマス・カマユーが私に向ける視線を感じて、レディ・ブランシュとリリアーナが、顔を見合わせた気配がした。


「………………そう! そういえば! わたしたち、少し席をはずさなくっちゃいけないんだったわ。ウェイン卿もいらしているでしょう?」

「あ、はい。応接室です――」

「それじゃ、しばらくの間、ここをよろしくね。さ、カマユー卿、昨日の今日でお疲れでしょう? どうぞ、こちらのベッド脇の椅子にお掛けになって。――行きましょ、ブランシュ。それと、アリスタは新しいお茶とお菓子をキッチンまで取りに行ってくれる?」


 なぜか、嬉しそうな様子のリリアーナが、トマス・カマユーにベッドの傍らに置かれた椅子を進める。


「それじゃ、ごゆっくりなさってください」


「…………」


 心配そうに私を見るレディ・ブランシュとアリスタを急き立てるように、そそくさと連れ出しながら、リリアーナが私に向けてこっそり片目をつぶって見せた。


 ――…………? 訳がわからない。


 しかし、あの令嬢は、他者に対して時に恐ろしいほどの洞察力を発揮する。今もたぶん、一人で何かを察して完結しているのだろう。周りを置いてけぼりにしたまま、浮き足立った様子で扉を閉めてしまう。



 令嬢達が去り、客間には二人だけ。


 トマス・カマユーと、私。

 しん、と重苦しい空気に、暖炉がはぜる音だけが響く。軽い咳払いのあと、トマス・カマユーは緊張気味に口を開いた。


「あー……、あのさ、あの……大事な話があって。……その………いや待てその前に、なんか暑くない? この部屋あっつ! 暑すぎるだろ。火消そうか?……あ、いや、アナベルは寒いのか。寒いよな、昨日の今日だもんな……うん」

「…………」


 ――……? やっぱり訳がわからない。


 私の正体、もう知っているんでしょう?  

 戦争犯罪人を連行しようとする騎士の態度にしては、何かがおかしい。

 困惑して視線を上げると、トマス・カマユーは無理しているような笑みを浮かべて、眉尻を下げた。

 

「…………それ、頬、怪我しちゃったな……痛む?」


「…………え、……べつに」


「そうか」

「……うん」


 ほっとしたように息を吐いて、トマス・カマユーは困ったように微笑んでいる。


 ――何故?


 私が近衛騎士として、あの日あの場所にいたことが、もう伝わっているはず。


 ――憎まないの? 


 ――嫌わないの? 


「……リーグたちから、もうぜんぶ聞いたんでしょう?」


 思い返せば、初めに言われたのは七歳の時、剣術師範からだった。それから、隣に住んでいたおじさんとおばさん、十歳の時の学校の音楽教師、十三を過ぎた辺りから、仲間を含めた出会う人間がみんな私に向かって言った。どこか感心した風に。


『君は本当に、理性的な人だなぁ……』と。


 自分でもそう自負していた。

 それなのに、私の声は、感情を隠しきれずに震える。最後は毅然と迎えようと決めていたのに。

 平静を取り戻したくて、俯いて静かに息を吐く。

 

「ああ、聞いた」

「…………そう……」

「うん……。それで、その後、いろいろ手続きしなくちゃいけなかったから、俺、昨夜は、ほら、徹夜で。今までかかっちゃって」

「………そう」

「それで、来るのが遅くなって」

「………いいよ」


 息を吸って整えて、私は顔をあげないままで口を開く。


「いいよ、もういい。わかってる。……さっさと済ませて」


 ああ……と言い淀んでから、「それじゃ――」とトマス・カマユーは居ずまいを正す。

 

「――アナベル、もうわかってるみたいだけど……アナベルも仲間も、レオンも、リーグ・ホワイトも、今日、全員に正式に恩赦が決まったよ」


「……………………はい?」



 聞き間違い?

 愕然として顔を上げると、困ったように眉尻を下げたトマス・カマユーが、緊張した様子で、でも優しく見返してくる。


「そんなわけで、今日からアナベルは、どこにでも好きなところに行ける。ハイドランジアに帰ってもいいし、船で新天地に行くのも自由だ。……ただできれば、ちょっと待ってもらえないかと思って……。いや、俺、やっぱ、最低限の引き継ぎとかあるから、すぐに辞めるってわけにはいかなくて、だからその……――」


「ちょ、ちょっと待って!」


 激しく遮ると、トマス・カマユーは少し傷ついたような顔をした。


「俺、一緒に行くから、待ってほし――」

「どうして!?」

「え、いや俺が後から追いかけるってのも考えたんだけど、それだと探してもなかなか会えないリスクが――」

「そっちじゃなくて! いや、そっちもだけど! 恩赦? 自由? なぜ? 私、戦犯……じゃないの?」


 恐る恐る尋ねると、トマス・カマユーはぎょっとしたように瞠目した。


「アナベルが? まさか。リーグたちだってそんなこと、微塵も言ってなかったぞ」

「いえ、そりゃあ言わないでしょう。言わないけど、普通は疑って取り調べるとか、あるでしょう?」


 私はあの日あの場にいた近衛騎士で、名前を変えて逃げ回っていたのだ。疑わしくないはずがない。


「アナベルはさ、昨日、王宮で身を挺してレディ・ブランシュや皆を庇った。それでもう充分だって、少なくともノワゼット公爵はそう思ったんじゃないかな。アナベルたちの恩赦の書類を驚異的な短時間で作り上げたのはロンサール伯爵で、枢密顧問官として真っ先にサインしたのはノワゼット公爵だから」


「伯爵と、ノワゼット公爵が……? いえでも、昨日の今日で恩赦って、いくらなんでもそんなの無理でしょう?」


 これでも、王宮に勤めていた元近衛騎士だ。

 戦争犯罪人として疑わしき者を待ち受ける、厳しい取り調べと長く苦しい裁判。長期間に及ぶ拘束については知っている方だと思う。


「そうそう。超法規的措置で陛下に即日で恩赦を貰うには、枢密顧問官のほぼ全員のサインが欲しいとこだってロンサール伯爵が言って。ハミルトン公爵とドーン公爵は、ノワゼット公爵が頼んだらすぐにサインしてくれた。ほらあの三人、何だかんだで仲はいいから。後は、ウィリアム・ロブ卿のお父上とか、レディ・ブランシュの友人令嬢のお父上たちなんかもね」


「なぜ……? そこまで?」


「もし万が一、逮捕、裁判ってことになったら、アナベルを拘束しなくちゃいけない。アナベルを牢に繋ぐような目には、一日たりとも遭わせるわけにはいかないっていうのが、昨日あの場にいた全員の総意」


 首を傾げた。なぜ、第二騎士団が私の恩赦を願うの?

 ふっと光がほどけるように笑ったトマス・カマユーは、なんでもないことのように口を開く。


「それでさ、ここ最近のウェイン卿の優先順位は、『一、レディ・リリアーナ。二、レディ・リリアーナ。三、レディ・リリアーナ。他は全てまあまあ圏外』じゃん? レディ・リリアーナの命の恩人を守るのが、最優先。それで、ウェイン卿がブルソール国務卿のところに行った」


「……どういうこと?」


「賭けだよ、賭け。ウェイン卿は昨日、ブルソール国務卿と賭けをしていた。『ブルソールに家族が戻るか』だったかな。それに勝ったウェイン卿は、『何でも一個、願いを叶える』権利を持っていた。それを使ったんだ。アナベル達に恩赦をもらえるように、頼みに行った。――夜分だったから、すげえ迷惑そうな顔されたけど」


「はっ?」


 思わず息を飲んだ。

 ブルソール国務卿が、どうして昨日、ウェイン卿に激しく噛みついて「王宮から追い出す」「虫けら」などと言い出したのか。

 その理由がわかったからだ。


 ――賭けのせいだ。


 昨日、賭けに負けたことに気付いたブルソール国務卿は一計を案じた。ウェイン卿を追い出すと脅しておけば、賭けに勝ったウェイン卿は国務卿に何を願う? 

「王宮に残らせてほしい」「騎士を辞めさせないでほしい」程度の願いにとどまるに違いない。

 ブルソール国務卿は実質、たいした願いを叶えなくて済む。賭けに負けても、リスクはゼロ。


「……どこの王宮にもいるのね、ずる賢い蛇が……」


 私の苦い呟きを気に留めない様子で、トマス・カマユーは先を続ける。


「ブルソール、すげえ怪訝そうだったよ。『本当に、この頼みで良いのか?』『賭けの景品だぞ、本当にこれで良いのか?』って何度もウェイン卿に聞いてたけど、まあ結局は、あっさりサインしてくれたよ。で、その後は、早かった。俺たち、枢密顧問官の屋敷を順番に訪ねたんだけど――」


 国務卿と三人の騎士団長が、既にサインを済ませた書類――――。

 夜中や早朝の訪問にも関わらず、反対したりサインを渋る枢密顧問官は一人もいなかったよ――と、トマス・カマユーは控えめに笑った。


「で、今朝、政務室の承認は当然すぐに下りて、陛下は朝食後の執務室で、『ああ、昨日の事件の、勇敢な侍女か』って言いながら上機嫌でサインしてくれたってさ。晴れて、恩赦成立」

 

「……だ……だけど……!」


 レクター・ウェイン本人は王宮騎士団副団長であるが、爵位のない、一代限りの騎士だ。

 妻や子に爵位を残せない。

 リリアーナは結婚後、『レディ』の称号を失くし、特権階級である貴族から平民となる。


 けれど、賭けをうまく利用すれば、男爵位か、子爵位だって賜る可能性があったはず。


「……賭けの願い事、本当に私たちなんかに使ってしまったの……?」


 うん、と頷いて、トマス・カマユーは昨夜のレクター・ウェインを思い出しているのか、柔らかく微笑んだ。


「いいんだってさ。アナベルは命の恩人だから、これは恩返しだって。きっとたぶんだけど、ウェイン卿は、もうずっと前にアナベルを助けるって決めてたんだよ。

 ノワゼット公爵や、ラッド卿やオデイエ卿やキャリエール卿もきっとそうだ。ほら、あの五人はレディ・リリアーナのこと、大好きだから」


「……そんな……」


 混乱して、考えが纏まらなかった。


 トマス・カマユーの声が、なぜか緊張したように固くなる。


「ってことで――アナベル……」


 空色の瞳が、優しい光を宿す。


「――俺と結婚してくれる?」


「はあっ!? な、何を、馬鹿じゃないの!」


「ええー」


 トマス・カマユーは眉尻を下げる。目尻に優しい皺が寄っている。

 間髪入れず断ったのに、なんだか機嫌がよさそうだ。


 ――何か、おかしい……。


 はた、と思いついて、胸元に手をやる。服の上から、そこにあるはずの感触を探す。小さくて硬いものが、ここに――



 ――――――ない。



「探してるのって、もしかしてこれ?」


 嬉しそうに笑みを浮かべて、黒い騎士服の胸ポケットから、しゃらりと銀鎖に通されたそれを取り出す。


「それ……っ! どこで!」


「昨日、医務室に忘れ物だって。さっき、ナディン医務官から、返しといてって渡された。はいこれ……これってさ――」


 私にそれを手渡しながら、嬉しそうににこにこ笑う。目尻に寄る、優しい皺。


 きらきらきらきら。世界を輝かせる笑顔。


「――あの時渡した、俺のボタンだよね?」



「……っ…………ちっ、ちがうから! これは、たまたま、あの時、ポケットがいっぱいだったから! 鎖に通しただけ!」


「え、そうなの?」


「……後で外そうと思って! 一旦、首に下げて、そのまま忘れてただけ!」


「へー」


「だ、だから!」


「俺、諦めるのは諦めた。昨日、運河の中でも言っただろう? アナベルとずっと一緒にいる」


 世界を輝かせながら、耳をほんのり赤くしてトマス・カマユーは照れたように笑った。

 きらきらきらきら。


「………馬鹿みたい。貴方は私のこと、何も知らないでしょう?」


 私は、とても暗い場所にいる。


 昼間は何とか生きていけても、夜がくるたびに、絶望に押し潰される。

 心から笑って前を向ける日は、きっともう二度と来ない。


 ――そんな暗い場所に、貴方を引きずりこんだりしない。


 沈むのは、一人でいいから。



「貴方と、私は違う。私はきっとこれから一生、そんな風にへらへら能天気に笑えない。元から住む世界が違うの。私は真っ暗な闇の中。貴方は、明るい光の道を行けばいい」


 これ以上ないくらい冷たい声で言い放つ。それなのに、トマス・カマユーはぱっと嬉しそうに顔を輝かせた。


「その二択、俺が選んでいい? アナベルと一緒に真っ暗な道か、アナベルなしの明るい道? そんなの決まってるなあ――」


 世界を輝かせる優しい空色の眼差しが、私に注がれる。


「――アナベルとがいい。アナベルしかいらない」


 世界があまりに眩しいから、息がつまる。世界はじわりと水の膜で滲んだ。


 そのうち一粒が、ぱたりと絹の寝具に落ちて、瞬く間に溶けるように吸い込まれていく。

 俯いた視界に大きな手がそっと近づいて、優しく頬に触れた。


「笑いたくなければ、笑わなくっていいよ。作り笑いなんか、くそくらえだ。能天気に笑うのは、俺が引き受けるからさ」

「……ばっかじゃない」


 平静に言おうとしてるのに、この唇から出てくる声は震えていた。


「……私の、……本当の、名前も……知らないくせに……っ」


「あ、そうだ。それはリーグからもまだ聞いてないんだ。アナベルから直接聞きたくて」


 シーツの上の両手を大きな手で包みこんで、トマス・カマユーは茶化すように微笑む。


「大丈夫、めちゃくちゃ変な名前でも、生涯、愛するよ」


「…………変じゃないし……」


 そっか、とトマス・カマユーはまた晴れやかに笑った。ぱたぱたと、水滴が落ちては、シルクサテンのシルバーグレーの薔薇模様を水玉模様に染め変える。


 叶うはずない。届くはずない。


 きらきらきらきら。


 それなのに、貴方は世界を輝かせる。


「大丈夫だよ、大丈夫。俺、何があってもずっと一緒にいるから」


 何か昏いものを押し流すように、とめどなく零れ出てくるものを、頬に触れた大きな手が優しく拭う。


 制服の襟元がゆっくり近づいてきて、背中に温かい腕が回る。とんとん、と励ますように、いたわるように叩かれる。


「………泣いてない」


 うんわかった、と低く優しい声が、耳許で響く。掠めるように、頬に柔らかく熱いものが触れる。


「泣いてないって……言ってるでしょ……」

「うん」


 けれど、泣き止まない幼子にするみたいに、温かい手は、この背を優しく優しく、ずっとずっと叩き続けた。

 


 

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