第96話 世界で一番強いものー01(アナベル視点)

 リリアーナが幸福そうに微笑んで、私を見る。


「ねえ、アナベル。心配いらないわ。今度はわたしが、アナベルを守るから」



『真実の愛さえあれば、何もかもうまく行く』


 そう信じているのだ、きっと。明るく照らされた世界で生きる、清らかで美しく、優しい令嬢。だけど――



 ――現実はそうじゃない。



 複雑な気持ちになって、私は重い口を開く。


「私……手を離してしまったんです。他には、何もいらなかったのに。それだけは……守ろうと思っていたのに」


 私たちの幼い王女殿下。

 あの日、この腕に抱いていたのは、世界の中心で、太陽で、私の生きる意味だった。


 昨日の運河の水みたいに、あの小さな身体を呑み込んだ水も冷たかっただろうか。寒かったろうか。どれくらい、苦しかったろう。


 不甲斐ないことに、私の声は震えてしまって、殿下によく似たリリアーナは心配そうに長い睫毛を伏せた。


「だから、もういいんです。緑礬油りょくばんゆを浴びたとき、私、ほっとしました。レディ・ブランシュを庇う為にやったんじゃありません。ぜんぶ自分の為にやったことです」

 

 義務と惰性で、今日まで生き延びた。昨日、やっと解放されると思ったのに、運河の水に洗われてしまった。

 心配そうな表情を浮かべるリリアーナを見て、言わなくてもいいことを言ってしまったと気づいた。慌てて、できるだけ明るい声を出す。


「それに昨日、私、いいものを見たんですよ」

「いいもの?」


 舌は勝手に回る。

 第二騎士団が、この屋敷に着いた。

 いつになく饒舌になってしまうのは、知らず、この先起こることに緊張しているのかもしれない。


「ええ。運河に浸かった途端、氷の冷たさが、全身に突き刺さりました。前のときよりずっと冷たくて、冷たいを通り越して痛いほどで、手足はすぐに凍って動かせなかった」

「まあ……! あんまりね!」


 リリアーナが華奢な指でいそいそと毛布をかけてくれる。アリスタがせっせと暖炉に薪を継ぎ足す。もういいって言っているのに。


 昨日見た、透明な青い世界。そこで私は、あの日と同じ景色を見たのだ。


 私を取りまく、たくさんの白い泡。


 揺蕩たゆたう光の向こうにいる、白地に金糸の刺繍が施された制服。

 あの日、皆、沈んでった。

 金で縁どられたマントが、光射す水の底で踊るように光って、揺れていた。


 ゆらゆら、ゆらゆら。


 

 ――みんな! 



 強く叫んだのに、この口からは、ごぽぽ、と泡だけが零れた。


 ――こっちを見て! みんな! 私が見えないの!?


 ハイドランジア王国最強の近衛騎士達。

 私の、自慢の仲間たち。

 普段はつまんない冗談ばっかり言ってた。今だって、口を開いては笑い合ってる。

 

 ――なんて言ってるの? 何の話? ここじゃ聞こえない。私もまた入れてよ。


『今からそっちに行くから!』


 叫んだけれど、ごぽごぽと泡に溶けて消えていった。


 近付きたくて必死に水を掻くのに、冷えた身体は思うように動かせない。どうやっても届かなくて、もどかしかった。


『待って! 待ってってば! 私もすぐそっちに行くから! 私、ごめん! 殿下の手、離しちゃった! 任されたのに!』


 団長が、こちらを向いた。

 腰まである蒼灰色の長い髪が、水の中を揺らいでいた。

 いつだって冷静で、誰よりも強くて、だけど誰よりも優しかった。

 後進の騎士たちの憧れ。

 ハイドランジアに生まれた子どもで、彼に憧れなかった人はいない。


『団長!』


 ――来るな。


 厳しいけれど優しい眼差しで、団長はゆっくり私を見た。唇が動く。


 頭の片隅は冷静なままで、これはただ、低体温で幻覚を見ているのだとわかっていた。

 だけど、悪くないじゃない。

 失くしたものに会えるなら、低体温で死ぬのはちっとも悪いことじゃない。


『殿下を離してしまいました! 申し訳ありま―――』


 団長は微笑んだ。


 ――大丈夫だ。ぜんぶうまく行くから。


『何がです? 今から、私もそっちに』


 団長がゆっくりと首を横に振る。


 ――まだ、やることが残ってる。


『団長の弟への伝言なら、私、ちゃんと伝えましたから!』


 団長は青灰色の瞳を細めて、ゆっくりと頷いた。


 団長だけでなく、仲間たちが私を見た。

 恨みだったり、苦しみだったり、哀しみだったり、想像していたそんな類の感情は誰の顏にもなかった。

 みんな満足そうだった。すごく苦しくて無念だったはずなのに。



 ――ありがとう。



 笑って、手を振ってる。


『どうして? 何が!?』


 ――頼んだぞ。


『待って! 私も――』



 ぐっと腕が掴まれて、身体が引っ張られた。強い水の抵抗。光が――――。


 気付くと青い空が見えて、鴉がたくさん飛んでいた。


「アナベル!!」


 目の前に、空色の瞳があった。


「見えるか!?」


 雪みたいに真っ白い顔をしたトマス・カマユーが、大きな掌で私の顏を挟む。自分も紫色の唇をしているくせに、傷がないのを確かめるように、何度も頬を撫でられた。

 温度をまったく感じなかった。

 初冬の水に晒された皮膚は、何も感じなかった。

「見える」と答えた口からは、ごほごほと咳と一緒に水が溢れる。


「見えるな!? 見えるんだな!?」


 頷くと、強く抱きしめられた。私を立ち泳ぎで支えていた。

 同じ冷たい水に浸かっているのに、身体が大きい分、低体温になるまで猶予があるらしい。


「どこか痛むか!?」


 微かに首を振ると、耳元で、長い息と一緒に声が囁く。


「……良かった……」


 肩越しに見上げた柵の向こうに、黒い騎士や浅葱の騎士の姿が見えた。

 心配でたまらないって顔して、こっちを見ている。


 優しい手つきで背を撫でられながら、耳元で泣き出しそうな声が囁いた。


「……さっき、水の中で、俺のこと見えてないみたいな顔してたから……、びびった……」


「…………まだ、『来るな』だって……変だよね……」


 トマス・カマユーの腕に力が籠もる。ほんの少し、触れた部分にじわりと温もりを感じた。


「うん」


「……まだ、向こうには、行けないんだって……」


 そうか、と耳元で囁いた声がとても優しかったから、その肩に額を載せることにした。


「大丈夫だ。大丈夫だよ。俺が、ずっと一緒にいるから」


 だけど、それは、どうやったって無理でしょう?

 だって、貴方は私を絞首刑にする。私は、ハイドランジア近衛騎士の生き残りだから。


 けれど、私は緑礬油りょくばんゆを浴びて運河に落ちた上、今は低体温症なのだ。

 今だけは、そんなこと考えなくても許されるんじゃない。


 アルディ山脈から流れてくる水は、優しい幻覚を見せてくれた。二年半ぶりに昔の仲間たちに会えた。

 少なくとも、みんなが居るのは昏い場所じゃなかった。 役立たずの私を恨んでなかった。変わらない穏やかな顔で笑ってた。


 その上、またしても、生きるのを諦めようとしたところをトマス・カマユーに助けられた。


「大丈夫、大丈夫」と、トマス・カマユーは私の背を撫でながら、何度も何度も囁いた。

 浅葱の騎士がロープと一緒に下りて来て、私を先に上げるまで、ずっと「大丈夫」と言い続けていた。


 大丈夫なわけない。

 劇薬を浴びて、氷の運河に落ちても、失くした仲間に会えても、空がどれほど青くたって、現実の残酷さは変わらない――――。


「運河の底、綺麗でしたよ。緑礬油りょくばんゆを浴びるのは、結局、そんな悪いことでもなかった。だから、お二人が気にされる必要は――令嬢?」


 言いかける途中で、リリアーナが腰を屈めて私の肩に抱きつく。

「アナベル」と、耳元で、優しい声がおっとりと囁く。


「――わたしねえ……少し前まで、誰かの唇が動くのを見るだけで、苦しくてたまらなかった。悪口を言われて、笑われているような気がしてね。恥ずかしくて、消えてしまいたくて、だけど消えるのも怖くて、不安の海で溺れそうだったのよ」


「まさか……」


 月の王国の姫君のように可憐な伯爵令嬢が?

 首を傾げると、リリアーナは落ち着いた明るい声で続ける。


「ふふ、被害妄想よねえ? だけど、そういうのはもうやめることにする。良い方に考えた方がいいものね。能天気、けっこうじゃない。それでね、今、わたしがこう思えるようになったのは、アナベルやレオンやリーグに会えたお陰だと思うのよね。船でもらった優しさを、わたしは一生忘れないと思うわ」


 視線はシーツの上に落としたまま、自身の頬が緩んだ。


「それなら、良かった」


 ――良かった。


 思い遺すことなど、もうあるだろうか。大事な大事な宝物によく似た、優しい令嬢。

 どうか、現実の暗さ醜さを知ることなく、幸せなままでいてほしい。


 リリアーナには知られないように、私は消える。

 偽名アナベルではなく、本当の名で、あの水泡のように。

 ロンサール姉妹には知られぬよう、処理してもらえばいい。アラン・ノワゼットとレクター・ウェインは、喜んでこの頼みを聞き届けるだろう。


 ――ずっと俯いていよう。


 今から全部終わるまで、顏を上げなければいい。

 そうすれば、あの空色の目に、憎しみと蔑みが映るのを見なくても済む――――。


 自分でも気づかないうちに、シーツの上で握りしめていた両手を柔らかく温かい小さな手が包み込む。


「だからね、何も心配いらないわ」


 おっとりと、けれど気迫の籠った声に、思わず顔を上げる。リリアーナは花のように――月の姫君のように優雅に微笑んでいた。


「何もかもうまく行くから」


 幻覚の中の団長と同じ台詞を言うリリアーナの後ろで、レディ・ブランシュも厳かに微笑む。


「大丈夫よ。アランは、わたしと約束したものね。『アナベルのことは心配しなくていい』って」


 リリアーナの儚げな美貌と比べ、レディ・ブランシュには、えもいわれぬ凄みがあった。


「だけどもし、万が一の話だけれど。第二騎士団がアナベルに何かするっていうのなら……」

 

 私の背筋が、なぜかうっすらと冷えた。

 ここは、伯爵邸の暖かな客間。

 そんなわけないのに、ふとジャングルで猛獣に囲まれている気がしたからだ。

 


「伝家の宝刀を抜かなくっちゃねぇ……」



 涼風のような声で、レディ・ブランシュは呟いた。



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