第95話 あたたかな寝室ー04

 イチイの植え込みの一番近くに立っていたのは、浅葱の騎士だった。

 生け垣に手を突っ込むと、頭から落ちた男の足を掴んで引き摺り出す。お世辞にも、丁重とは言えない手つきだった。


「伸びてる。けど残念ながら、たいした怪我じゃなさそうだ」


 ぐったりした男の顏を覗き込んで、騎士は肩を竦めて見せた。

「運が悪い」と傍にいた浅葱の騎士が皮肉っぽく返す。


「たいした怪我じゃない」認定されたその人は、遠目にはひどい状態に見えた。鶏ガラみたいにやせ細った体を覆う服は、ぼろぼろに破けている。

 けれど、嘴につつかれた挙げ句、二階から落ちるなんて、すごく痛いに決まっている。思わず二の腕をさすると、近くで冷たい声が命じた。


「こっちに連れてこい」


 左手の指先をクイッとちょっとだけ動かし、ノワゼット公爵が低く言った。

 浅葱色の騎士の上官は、もちろんハミルトン公爵だ。しかし、今はこの場にいない。

 そして、王宮で緑礬油を撒いた男は落ちる前に、こう言った。


 ――『ブランシュが悪いからだ。アラン・ノワゼットみたいな奴と』と。


 この場の誰もが、普段ライバル関係にある浅葱の騎士やブルソール国務卿すら、その愚かな男の末路をほとんど正確に予測していた。


 浅葱の騎士は黙ってひとつ頷くと、ノワゼット公爵の言う通りにした。

 ぐったりした男の身体を軽々と引きずって来ると、ノワゼット公爵の眼前にゴミの入った麻袋を扱うように投げ捨てる。


「ご苦労。……ふん。右目の下に泣き黒子か……修道士モンクの顏を知り、修道士モンクから狙われている男に間違いないようだな……」


 そう呟いたノワゼット公爵の鳶色の瞳ときたら、これまでみた何よりも凍える冷たさである。


 オデイエ卿の剣の柄が、チャキと音を立てる。


「今ここでやりましょうか? それとも、自分のやったことを存分に後悔させてから……って、あら?」


 豹を思わせる琥珀の瞳は、うすーく眇められている。オデイエ卿ったら、王宮は抜剣しちゃだめってことを忘れるくらい、怒っているみたい。


「この鶏ガラ男……前にどっかで見たような?…………うーん……気のせいかしら……?」


「あ、やっぱり? オデイエ卿もそう思う? わたしも、なーんか、どっかで見たことあるような気がするのよねえ……なんかこう……魚の骨が胸にひっかかってるような心持ちになる」

 ブランシュがノワゼット公爵に身を預けつつ、不安そうに胸を押さえた。

 ブランシュの肩を優しく抱きながら、ノワゼット公爵は今にも唾を吐き捨てそうに唇を歪めた。


「オデイエが警護中に、ブランシュの周りをうろついていたのか?」


「そう……? いえ……最近じゃなくて、もっと前に……うーん……」


 オデイエ卿が必死に思い出そうとするように、こめかみを押さえる。


「僕は見たことありませんね。少なくとも、ここ最近の伯爵邸の関係者ではないでしょう。それより……こいつ……まいったな……」

 

 ランブラーが男を見下ろして、秀麗な眉を強く寄せる。

 ノワゼット公爵が眼を細め、怒りに声を震わせる。 


「この……っ下衆のストーカーめ。自分のやったことを心から後悔させてやる。……誰か、この男の正体を知ってる奴いないか?」


 隣でウェイン卿が無表情に首を振る。「もっとも私は、人の顔をほぼ覚えていませんが」


 たしかに。とノワゼット公爵と騎士達が揃って首肯した。


「……いや待てよ」とラッド卿が気絶した男の顏を覗き込む。

「……こいつ、もしや……いや、そんなはずはない……あそこから、出られるわけが……しかし、この黒子は―――」


「あっれーー? なになに? なんの騒ぎですか?」


 場にそぐわぬ明るい声を上げながら小走りに登場したのは、ランブラーの同僚、ジョセフ・シュバルツ王宮政務官だ。

 にこにこと、ハイキング帰りの少年のように清々しく笑いながら、続ける。


「いやもうさ、王宮って広すぎるー! 人探してたんだけどさ。見つからないのなんの。右ファザード前のさ、ガゼボまで走ってる最中、ふと気付いたわけ。あれこれ、こんな探し方で見つかるわけねえじゃん!! 王宮の庭園って樹海と同義だよ! 無謀ーっ! っていうね!」


 親切で誠実な彼は、よほど懸命に探していたのだろう。なるほど、額には汗が光っている。

 有酸素運動直後のナチュラルハイなテンションで、ジョセフ・シュバルツ政務官は続けた。


「やー、こんな走ったの久しぶり! 政務官って、基本的に椅子に座ってばっかじゃん? たまには運動するのも、いいもんだね! 明日から馬車使わずに走って出勤しよっかな。あー、あっつー! 止まったら余計に汗出てきた。あはははは……は、は……は? え? なに? ほんとに、何があったの? 皆さん、なんかすんごいシリアスじゃない? ……あ、ランブラー!」


 バナナで釘が打てそうな凍える冷気に気付いたシュバルツ卿が、親しい同僚の姿を見つけ、心からほっとしたように破顔する。


「あ! レディ・リリアーナ! ごきげんよう。うおわー相変わらず、妖精の姫もかくやというお麗しさですね! あ、レディ・ブランシュ、ごきげんよう! 相変わらず、女神アフロディーテも嫉妬しそうなお美しさですね! どうも! ランブラーの無二の親友、ジョセフ・シュバルツです!! お美しい姉妹にお目にかかれるなんて、今日は最高の日になりました! あ、ノワゼット公爵閣下もいらっしゃいましたか。ごきげんよう」


 感じの良い人だ。

 しかも、王宮政務官ということは、この人もモンスター級の秀才なのだ。

 ごきげんよう。とブランシュとわたしは同時に丁重に挨拶を返す。ノワゼット公爵は微妙な表情を浮かべ、何も言わなかった。


「で、ランブラー、どうしたんだ? 皆で集まって……ガーデンパーティ大盛況……って雰囲気でもなし……あ! わかった! さてはまた、誰か運河に落ちたんだな!」


「いや、うん、それは、そうなんだけど――」

 歯切れの悪いランブラーを見やり、シュバルツ政務官は悲しげに首を振った。


「何ってことだ! また事故!! 落ちた人は無事だったのか!?」


「うん、まあ」


「そうか! 何より! 不幸中の幸い! むう……! しかし、柵がかなり老朽化しているな。王宮の安全性について一から点検し直す必要がある。早急に――」


「ジョセフ、その前にちょっと聞きたいんだが……」


 ランブラーが困惑気味に言う。


「おう、僕と君の仲だ! 何でも訊いてくれ!」


 爽やかに笑うシュバルツ政務官に、ランブラーは緊張気味に口を開いた。


「…………あーあのさ、この男、君の客……で間違いないか?」


 ごくり、と喉を鳴らすランブラーに問われ、視線を下げたシュバルツ卿はようやく気が付いた。

 騎士に取り囲まれた男が、すぐそばの芝生の上で横になっていることに。


「!! ややっ! そうだよ! 彼こそ、僕が探していた人だ。ランブラー、君が見つけてくれたのか? ありがとう、恩に着る!」


 ランブラーは頭痛がするみたいに額を押さえた。シュバルツ政務官がさらに驚いた様子で続ける。


「おわっ! 彼、怪我してるじゃないか!」


「あー……まあ。二階から落ちたから?」


 ランブラーのやや端的すぎる説明を聞いた途端、シュバルツ卿は神妙に眉を寄せた。


「何ってことだ……! こういった状況に出くわしたとき、いつだって僕は運命の不公平さに想いを馳せざるを得ない。いったいどうして、不幸は広く浅くまんべんなく訪れることなく、一人の人間に冷たく重く降り注ごうとするのか。現実はかくも無慈悲で不条理だ。僕が思うに、これは」


「あー、ジョセフ、ジョセフ、高説は後で聞いてやる。ここに至った経緯も追って説明するが、今はとにかく、この男について教えてくれ。――これは誰だ?」


 運命を憂いていたシュバルツ政務官は、ぱちくり、と眼を見開いた。


「失礼失礼。紹介がまだだったな。彼こそが、あの、ピーター・ポエトリー君だ!」


 じゃじゃんっという風に右の掌をピーター・ポエトリーに差し出して、シュバルツ政務官はやや誇らしげに言った。


 太い眉が誠実さを醸している。そしてやはり、とても感じの良い人だ。


 しかし当然ながら、しいん、と辺りは微妙な沈黙に包まれた。


「………………うん。それで? だからそれ誰?」


 しばしの絶句のあと、再び問うたランブラーに、シュバルツ政務官は表情を曇らせた。


「そうだった、ランブラー、君にはまだ話していなかったな。被害者だよ。全く気の毒な人だ……。ほら、僕、春の査察で南部海岸に出張しただろう?」


「ああ、あの、杜撰な書類仕事がどうのこうの嘆いてたやつ」


「そう、それ! 彼こそ、杜撰な書類仕事の一番の被害者だ。無実の罪でシャトー・グリフに入れられ、心身を病み、牢内の寝台で起き上がれない状態になっているところを保護した。しばらく王立病院に入院していたんだ」


 ジョセフ・シュバルツ政務官は、声をひそめて続ける。


「実は彼、二年前に国家反逆罪で収監されていたんだ。ところが調べると、彼の罪状は全くの事実無根だった。どんなに調べても、二年前にそんな事件はない。存在しない事件の犯人。まったく、あり得ない! どんな手違いが起こって、重犯罪刑務所に正式な裁判の手続きも踏まずに放り込まれることになったんだか!――……ん? どうされました? ノワゼット公爵閣下とウェイン副団長? 第二騎士団の皆さんも? 揃って額を押さえて天を仰いで……空に何か珍しいものでも……? おわー、すごい、今日はやけに鴉が飛んでますねえーー」


 公正明大、清く正しい善意の塊ジョセフ・シュバルツ政務官が、鴉が飛び交う青い空を見上げて、澄んだ瞳を煌めかせた。


「しっかし、今日はまた、天高く馬肥ゆる、秋らしい空ですなー」


 ランブラーがめずらしく頬を引き攣らせ、がっくりと肩を落とす。



「…………すべての発端は、ここだったのか………」



「え? え? 何? どうした、ランブラー? そんなに肩落として。らしくないぞ、おい、」




「………いやはや、灯台下暗し……でしたねぇ」


 階上のバルコニーで、ランブラーと同じく額を押さえたウィリアム・ロブ卿が、小さくぽつりと呟く声が聞こえた。



 §



「二年前のストーカー?」


 怪訝そうなアナベルに、ブランシュが大きく頷いた。


 ブランシュは二年前、ストーカーに悩まされていた。ずっと付きまとわれて、バルビエ侯爵令嬢と外出中、無理やり手紙を押し付けられたらしい。


「それがこう……恋文とかそう呼べるものじゃなくて……思い出したくもないけれど、その……暴力的な……吐きたくなるような内容だったの……」


「なるほど」


「あの頃は、お父様が亡くなってそんなに時間が経ってなくて、戦争の直後で、屋敷に男手も少なくて……わたし、不安でたまらなくって……」


 ブランシュは、外出できない状態になってしまった。

 その頃、ブランシュに絶賛片思い中だったのが、第二騎士団団長アラン・ノワゼット公爵である。


「なるほど。だいたい理解しました」


 アナベルが平然と頷くと、ブランシュが大きな嘆息を落とす。


「でも、二年の間にすっかり痩せて面変わりしてたから、すぐにはわからなかった……。ずっと……わたしのこと恨んでいたのね……。シャトー・グリフから出て、王立病院に入院している間に、薬品庫から緑礬油を盗んだらしいわ。ずっと、機会を伺っていたって……。わたしのせいだわ……ごめんなさい、アナベル」


 ブランシュは心細そうに肩を落とした。


 ジョセフ・シュバルツ政務官によると、普段のピーター・ポエトリーは、小心で腰の低い、人畜無害を具現化したような男に見えたらしい。

 シャトー・グリフでの暮らしは、ピーター・ポエトリーの身体を極限まで弱らせていた。

 そのため、王立病院では見張りもつけられていなかった。


 さて、緑礬油を盗んだものの、弱ったピーター・ポエトリーはブランシュに近づくことすらできなかった。

 ノワゼット公爵の婚約者となったブランシュには、第二騎士団の護衛ががっちり張り付いていたからだ。


 そこで、ピーター・ポエトリーは一計を案じた――――。


 アリスタが、横からぷりぷりと口を挟む。


「まったく! もとはと言えば、自分がストーキングなんかするから悪いんですよ! それを逆恨みして、ブルソール国務卿の名を騙って、修道士モンクに懸賞金を掛けるよう頼むなんて……! しかも、ストーカー男、本当は無一文だったそうじゃないですか。シュバルツ卿から親切で貰った上等の服と靴を身につけて、善意のお見舞い金を、手付けとして修道士モンクに渡していたんでしょう?」


 修道士モンクと連絡を取る方法は、シャトー・グリフにいる間に牢仲間たちが話しているのを耳に挟んでいたらしい。

 ブルソール国務卿とのコネクションを欲していたのだろうか。修道士モンクはその話に乗った。


 けれど、嘘はいつか、ばれるもの。


 ピーター・ポエトリーは、結果的に、あの修道士モンクを騙したのだ。



 ――――闇社会から命を狙われる羽目に。



「それで、そのストーカー男、ピーター・ポエトリーはどうなったんです? もしまだ息をしているようなら、私が何とかいたしましょうか?」


 アナベルが淡々と言うものだから、わたしは笑った。


「ふふふ、アナベルったら、冗談ばっかり。もう、真面目な顔して面白いんだから。オデイエ卿が引きずって詰所に連れて行こうとしたところを、お従兄さまとシュバルツ卿が引き止めていたわ。『法律に則り、公正な裁きをくだす』そうよ?」


 アリスタが、ぷうっと頬を膨らませた。ふわふわのポニーテールをぶんぶんと威勢よく振る。


「ええーー、甘いです……。蜂蜜かけたチョコレートケーキより甘いです。あたしは正直、今回ばかりは第二騎士団に任せて欲しかったです。自分のものにならないなら劇薬かけて殺そうと考えるなんて男、オデイエ卿に懲らしめてほしかったなあ~」


 可愛らしく口を尖らせるアリスタに、わたしは微笑みかけた。


「ふふふ、アリスタったら。お従兄さまが甘い? どうかしらねぇ……?」


 昨日、ランブラーはピーター・ポエトリーに対して静かに怒っていた。

 日頃、温厚を絵に描いたような従兄の、凪いだ水の下に揺れる炎。


 決して敵に回してはいけないのは、ランブラーのようなタイプだと、わたしは密かに思っている。


 窓の外が、にわかに騒がしくなる。


「――あら、……ノワゼット公爵様とウェイン卿、王宮からお戻りですよ。あ、噂のカマユー卿も」


 窓辺に駆け寄ったアリスタの言葉に、わたしも窓に寄る。

 ノワゼット公爵の馬車が、エントランス前に止まるところだった。騎士たちが、ひらりひらりと漆黒のマントを翻して騎馬から次々降りている。

 そして、ウェイン卿はやっぱりひときわ眩い。あの銀髪! 水面にたゆたう光のようだわ。わたしったら、本当に結婚できるのかしら。キュン過ぎて心臓止まっちゃうんじゃないかしら……。


 心配だわ……と胸を押さえて振り返ると、アナベルの表情は消えていた。黙って、ベッドの上で俯いている。


 まるで、死刑宣告を待っているみたいな顔じゃないの。


「ねえ、アナベル――」


 わたしはにっこりと微笑んだ。



 

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