第94話 あたたかな寝室ー03
「今日、左ファザード三階バルビエ侯爵執務室で起きたことの責任は、すべて私が取ります」
ウェイン卿は、はっきりとそう言った。
強い意思を孕んだ低くて素敵な声が、王宮の庭園によく響いた。
口の中で何か小さく毒づいて、ランブラーが天を仰ぐ。
ダーバーヴィルズ侯爵が、ごくりと喉を鳴らし、おそるおそる問いかける。
「………………そ、それは……? すまないが、意味がわからない。……どういうことだ? 娘たちにも、関わりがあることなのか?」
――今日、バルビエ侯爵の執務室で起きたこと……?
――リーグたちの、立て籠もり事件?
見上げると、ウェイン卿は唇を強く引き結んでいた。迷いのない柘榴石の瞳が、斜陽を受けて赤く煌めいている。
ウェイン卿ったら、狂言事件の責任を、一人で被るつもりみたい――――――。
§
「っ!? まさか!?」
「アナベル、ほらほら、安静第一よ」
身体を起こし立ち上がろうとするアナベルに、子どもに言い聞かせるように言う。
驚愕の表情を浮かべたアナベルは、わたしをまじまじと見た。
「まさか、嘘ですよね……ウェイン卿が……!? そんなことしたら、王宮騎士でいられなくなる……! 私たち、そんなことのために――」
慌てるアナベルに、わたしは笑いかけた。
「ふふ、アナベルったら。大丈夫だから、落ち着いて」
アナベルは、少し頬を緩めた。
「そ、それじゃ、大丈夫だったんですね? ウェイン卿が、責任を取らされたなんてことは――」
「さあねぇ?」
「はい!?」
わたしはにこにこと頬を緩めた。
思い出したのだ。ウェイン卿の言葉。
――『私が貴女に捧げるこの愛情は、永遠に変わりません』
――素敵な告白だった……!
思い出すと、「むふふ」と勝手に頬が緩んだ。ああ、今すぐクッションに顔を埋めて、思うさまのたうち回って悶絶したい! にやける頬を必死に両手で押さえつけ、浮かれた声で言う。
「まあねぇ、それはそれで、別にいいかなぁって」
「いいわけないでしょうっ!」
間髪入れず強めを突っ込みをいれたアナベルは、ベッドの上で腕を組んで、何か考え込んでしまった。もしかしたら、事態の収拾方法を必死に考えてくれているのかも。
「ふふ、アナベルったら、心配性なんだから。だってほら、わたし、よく考えてみたの」
わたしは顎先に指を当て、今後についてざっと説明して見せる。
立て籠もり――リーグ達とカマユー卿の活躍のお陰で、大きな怪我人はいなかったわ。
不幸中の幸いよ。だからまあ、ウェイン卿のこれまでの功績を考えたら、幸いにも何か重い罪に問われることはないと思うの。
でも、それでも、やっぱり王宮騎士ではいられなくなるかもしれないわねぇ……。
王宮を去ったウェイン卿は、今までと同じ暮らしはできないだろうから、小さな家で、つつましく暮らすことに……。
ウェイン卿は遠征や戦争に行けなくなるし、危険な残業もたぶんなくなる。
あら、ちょっと待って……とても安全だわ。
さて、婚約期間を経て、晴れて、けけけ結婚(!)できた暁のことを想像してみましょう。
朝焼けの光とともに、目を覚ます生活。
季節の野草を一輪だけ飾った、質素な食卓。二人きりで囲む、オムレツと牛乳とパンだけのささやかな朝食。
二人で額に汗して働いたあとは、夕焼けの差し込む小さな部屋で、メインとパンだけの早めの夕食。
そして、王宮騎士でないなら、人目を憚る必要はなくなる。一緒に市場に買い物に行ったり、手を繋いで街を散歩したり……ああ、なんてこと!
わたしは、「ほう……っ!」ととても大きな溜め息を落とした。たぶんこの目は潤んでいる。
「ね? それはそれで、いいかなぁって……まあ一つ問題があるとすれば、あのどんな背景にも完璧に映える制服姿が見られなくなるってことよねぇ……」
「…………はい?」
「どうしましょう、困ったわ、それだけは、痛恨の極みよねぇ……。だけどほら、考えてみれば、私服だって負けないくらい素敵だから、この際それもまあいっか……って。けれど、やっぱり、たまには制服姿を見たくなるかもしれないかしらね。対策として、写真をこっそり隠しておいて……まあっ!? アナベル! どうしたの? 頭が痛いの!? 大変! やっぱりどこか打ったの!? お医者様を――」
「…………いえ、……ちょっと、急な展開について行けていないだけで、私の方は問題ないと思います。たぶん……」
頭を抱えたアナベルは、ちょっと自信なさげに言う。
「あらそう……?」
「……リリアーナが考えているような極端なことには、アランとお従兄様の目の黒いうちは、決してならないと思うけれどね」
ブランシュが、優しい眼差しをわたしに向ける。
「まあ、何にしても、ウェイン卿がお元気で、わたしと一緒にいたいと思ってくださるなら、他はどうでも別に大したことじゃないってことよ」
何だか複雑そうな顔をして、アナベルがわたしを見た。
「それで……それから、どうなったんです?」
§
人々を前に「責任取ります」宣言をしたウェイン卿は、どうしてか申し訳なさそうな眼差しでわたしを見た。
目を合わせて、わたしは何度も大きく強く頷いた。
さっきの告白が素敵すぎて、ややにやけ過ぎていたかもしれない。
面食らったように柘榴石の瞳を瞬かせ、ウェイン卿はほんのり耳を赤くした。それから、気を取り直したように「ええと……こほん!」と咳払いする。
「――――説明いたします。何故、カマユーとキャリエールがバルビエ侯爵の執務室にいたのか。それは、私が――――」
「お待ちください! その説明は自分から!!」
強い声が、三階のバルコニーから勢い良く飛んできた。視線を向けて、「まあ」と目をこすった。
その辺りが、黒ずんで見えたからだ。
「…………あれは、キャリエール卿? いったい、どうなさったの……?」
「キャリエール? 何を……?」
キャリエール卿ったら、とっても黒かった。
制服とマントはもともと黒いからわかりにくいけれど。いつもはセピア色の紅茶のようにさらっと流している髪も、銀色の剣の柄も、実際よりも幼く見える顔立ちも。
全体的に、煤けている――――。
「実は……自分と同僚のカマユーは、居ても立ってもいられなかったのです。この王宮で、非力な令嬢たちが立て籠もり犯に脅されている。あまりに非道だ。赦せない! 王宮を護る騎士として命をかけて阻止しなければ!! ……えー、そんなわけで、潜り込もうと目論見ました。使っていない部屋の暖炉からこっそり入って、煙道を通って、この部屋の暖炉から出てきたってわけです」
キャリエール卿は自身の足元、三階バルコニーの床を指差しながら、きっぱりと言ってのけた。真っ黒な顔の中で、白い歯だけがにこっと笑み輝く。
「………ええー……」
「すみません。許可を取る時間ももどかしくって。しかし、結果的にちょうどやってきたウェイン卿と鉢合わせ、協力して犯人たちを捕獲できました。令嬢方はご無事。良かった良かった。えー、そんなわけで、責任はウェイン卿じゃなくて、自分にあります! 王宮の煙道を勝手に通って、申し訳ありませんでしたっ!!」
これでもかというくらい、キャリエール卿は殊勝に頭を下げた。真っ黒い顔の中で、セピアの瞳が煌めいている。はずみでマントからぽふっと黒い粉が舞った。
「…………」
人々は、困惑と疑いの眼差しを交わし合う。いくら爽やかに言い切られても、これはあまりにも――
「馬鹿馬鹿しい。くだらん茶番だ――――」
困惑と疑惑に満ちた沈黙に、しわがれ声の一石を投じたのは、ブルソール国務卿だ。
右手に持つ杖を、足元の縁石に苛立たしげに打ち付ける。
一瞬で、辺りは凄まじい大物オーラに支配され、圧倒された。
ダーバーヴィルズ侯爵ら、居並ぶ貴族たちが一斉に緊張し、体を固くする。
――オーラを消したり点けたり。
まるで読書灯を点けるみたいに自在に操れるなんて、すごいわ……。
感心するわたしの前で、不愉快そうに舌打ちを鳴らすと、ブルソール国務卿は蛇のように目を細めた。
「苦し紛れの嘘ほど、見苦しいものはない。煙突掃除は昔から、幼子にしかできんと決まっている。煙道は狭く細く、幼児しか通れんからだ。大人の、それも体格の良い騎士が、どうやって煙道を通った? 考えられることは一つだけ――あのキャリエールとカマユーとかいう黒鷹の騎士は、もとからあの部屋におったのだ。そこに、示し合わせていたウェイン副団長が合流した。つまりこれは、第二騎士団による自作自演―――」
「なーんだ!! そういうことか! しかし、キャリエール、次からは命令を待つように。煙道を通るのは骨が折れたろう? 部下に怪我がなくて僕は安心した! 今日は早く帰って休め!」
不自然なほどにこやかに、ノワゼット公爵がブルソール国務卿の口上を素早く遮った。
国務卿が不機嫌そうに瞳を眇める。
ノワゼット公爵との間に、ぱちっと火花が散った気がした。
もちろん、貴族たちはひときわ息を詰めていた。
金縛りにでもあったように固まって冷や汗を流し、誰も音を立てず、顔も上げない。
無理もない。
枢密院の頂点に立つ国務卿と、国王陛下お気に入りのノワゼット公爵。
どちらも北極海に浮かぶ氷みたいに冷徹そうなんだもの。
誰だって、機嫌を損ねたくない。どちらかを選び、どっちかを敵に回す? くわばらくわばら――――。
「はて――? さっき飛び降りてきた騎士に、煤など付いておったかね? 儂には目の覚めるような金色の髪と肌がはっきりと見えたがね」
「おや、おかしなことを。私の目には、カマユーは煤だらけの真っ黒けに見えました。もちろん、運河の水できれいさっぱり洗い流され、残念ながら証拠はありませんけれどね。……いやですが、国務卿の目はだいぶ霞んでおられるでしょうから、見間違えられても無理はない。お気になさらず、すべてお年のせいでしょう」
ははは――ノワゼット公爵が乾いた笑い声をあげる。もちろん、鳶色の目の奥はちっとも笑っていない。
ばちばち。
火花は一層激しく弾け、貴族たちの石化は一層進む。なんだか、気温が急に五度くらい下がったような。
状況をなんとなく理解したわたしは、そっとアルディ山脈を見やった。誰にも聞こえないように呟く。
「…………冷たい雪の香りがするわねぇ」
いよいよ冬が近いのね。
くつくつくつ――とブルソール国務卿が喉の奥を鳴らした。顏を二つに裂くように、薄い唇がにんまりと笑う。
国務卿の蛇に似た目は今、ウェイン卿をまっすぐに捉えて離さなかった。
一方で、ウェイン卿の横顔はいつも通り無表情だ。平然としているように見える。
「この状況で、そのような戯言を押し通せると思われるとは、ノワゼット公爵はお若い。羨ましいことだ。いやいや、そんな顔をされるものではない。嫌み? とんでもない。いやしかし、使い捨ての兵器として役立つうちはまだしも、隣国との火種は消されて久しい。毒虫を身中に飼って、何の得がありますかな?」
「…………仰る意味が、わかりかねますね」
笑うのを止めたノワゼット公爵が、いらいらと低く言った。
好々爺のように薄く笑って、ブルソール国務卿はウェイン卿だけを見ながら続けた。
「虫けら。つまり、我々とは違う、単なる虫けらの話をしておるのです。まさか、かの救国の軍師、王室に連なるノワゼット公爵ともあろうお方が、異端の毒虫に情が移ってはおりますまい。どれ、この年寄りが、王宮から虫を追っ払うお手伝いをさせていただきましょう。この国の未来の為、高貴なる王宮に迷い込んだ害虫の一匹や二匹、踏みつぶして――」
「っ! 私の部下に余計な真似をされたら、いくら国務卿でも――」
「あ、あ、あ、あのう……っすいません!!」
果敢ーー! この状況で、声上げる人いるのお!? 貴族たちが一斉に顔を上げ、驚嘆の眼差しを勇気ある声の主に向ける。
「あのぅ……す、すいません、すいません、本当に、すいません……」
小さく肩をすぼめ、榛色の目を不安そうに瞬かせた勇者、じゃなくマーク・エッケナー氏……改め、レイモンド・ディクソン氏が、もじもじと言いにくそうに口を開いた。
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくは、そのう……国務卿……お、お、お祖父様や、貴族の皆さんは、煙突の中がどうなっているか、ご存知ないんじゃないかと思ったんです。もちろん、そっちのが普通なんですけど……ええと、この中に、実際に暖炉に入って、煙道をご覧になったことがある方、いらっしゃいますか?」
レイモンド・ディクソンは、顔を紅潮させながら自信なさげに辺りを見回した。
もちろん、誰もあるわけなかった。
目が合った人々は、困惑の表情を浮かべて、小さく首を横に振る。
「ありませんわ」
「あんな煤だらけの汚いところ、誰が入るものですか」
「考えただけで、胸が悪くなりそうだ」
メイアン従騎士だけが、視線を逸らして俯いた。
レイモンド・ディクソンが、意を決したように続ける。
「ぼ、僕は、あります。昔、煙突掃除をしていたから。だからその……煙道には、何度も何度も、数えきれないくらい登りました。背中と膝は、火傷だらけなんですよ? 見たいって方には、後でお見せしたっていい。そ、それで……そのう……何が言いたいかって言うと……。ほら、王宮は、規格外に立派な建物でしょう? なら、煙道もきっと規格外に広いんじゃないかなあ……。だから、騎士様でも、気合入れて勇気だして、頑張ったら通れたんじゃなかなぁ…………」
消え入りそうな声で言いながら、視線を一身に受けたレイモンド・ディクソンは、顔を赤くして「……あの、すいません、その……」とウェイン卿を見た。
「そ、その……あの、僕のことを見つけて、ヒュー……ヒューバート・ディクソン公爵に知らせてくださったのは、貴方なんですよね? ウェイン卿。僕は……お陰様で、もう二度と会えないと思っていた母に、会うことができました。あのときは、気付かれた素振りもなかったのに、すっかり見抜かれていたなんて、吃驚です。貴方は、僕を利用することもできたのに……しなかった。王宮騎士様は、僕が小さい頃に憧れていた通りの人でした……」
レイモンド・ディクソンが、尊敬と称賛の眼差しをウェイン卿に向けた。
エレノア・ブルソール・ディクソンが、口元を手で覆う。
しいん、と辺りは、固唾を飲んだように静まっていた。
「いえ――貴方を見つけたのは、」
ウェイン卿が無表情で何か言う前に―――
「んぎゃーーーーっっ!!」
甲高い悲鳴が、耳をつんざいた。ぎょっとして、全員が視線を移す。
「――――え?」
真っ黒な群れが一斉に、二階のバルコニー上で、一人の男性を襲っていた。
「助けて! 助けて! ぎゃーーーっ!!」
叫びながら、ダンスするみたいに手足をバタつかせている。遠目にも、つつかれた額に血が滲んでいるように見えた。
ノワゼット公爵とブルソール国務卿も睨み合いと口喧嘩を一時中断し、訝し気に眉をひそめる。いや本当、取っ組み合いの喧嘩に発展しなくてなによりだ。
「まあ、鴉だわ……」
驚いて息を呑むと、ウェイン卿の手が、守るようにこの肩に置かれた。
「あんな風に人を襲うとは、何が――」
「なんなんだ!? 鴉が急に!」
「今日の王宮は変なことだらけだ!!」
襲われている男の近くに居た王宮政務官達が、脱いだ上着を振りながら、襲われる男性を助けようと駆け寄る。
「そうだ! あいつ――!!」
と、メイアン従騎士が人差し指でびしっと男を指した。みんなに聞こえるように、大きな声で叫ぶ。
「緑礬油を撒いたのは、あいつです! 俺、見ました!! 間違いありませんっ!!」
「え、まじ!?」とランブラーが軽く目を瞠る。
「お前それもっと早く言えよ」とノワゼット公爵が呆れ気味に突っ込む。
「あ、すいません。動転してて、ついうっかり忘れてました」
てへへ、とメイアン従騎士は首裏を掻く。
同じバルコニーに立つロブ卿ら政務官も、足を止めて目を瞠っていた。
「……! まさか…!」
「なんで……? 嘘だろ?」
鴉に取り巻かれた真っ黒なその人は、お尻に火がついたみたいに暴れ回った。
「そうだよ! 僕だとも! だってだって、ブランシュが悪いんだ! 僕のものにならないから!! アラン・ノワゼットみたいな最低なやつと――わーっ、ごめんなさい、ごめんなさい! もうしない!! もうしないから!! 許して!!」
捕らえようと浅葱の騎士が駆け寄ったけれど、男は鋭いかぎ爪と嘴から逃れようと手摺から身を乗り出した。
鴉を振り払おうと伸ばした腕が、むなしく空を切る。
「あ」
わたしたちは同時に息を呑んだ。
――――――落ちる。
スローモーションみたいに見えたのは、彼の上半身が手摺を超えるまでだった。
あとは、瞬きの間。
ばきばきーーと小枝を折りながら、彼は頭を下にして生け垣に落下した。
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