第93話 あたたかな寝室ー02

 王宮のほとりを流れる運河は、かつて建国の時代、神々しい雪冠を頂くアルディ山脈から湧き出る、清らかな水を引いて作られたものだ。


 初冬のこの時期、それはほとんど氷水だった。


 引き上げられたアナベルはずぶ濡れだった。唇まで真っ青。


 ベンチから立ち上がって駆け寄ろうとしたわたしの膝は、うまく力が入らなかった。わたしときたら、自分で思うより、ずっと強いショックを受けていたみたい。


 運河の脇で、アナベルはたちまち取り囲まれた。震える細い肩に、次々と乾いた上着がかけられた。

 騎士たちの上着やマントが、アナベルを包む。近くにいた貴族男性が、ためらいなく上着を脱いだ。妙齢の貴婦人や令嬢たちが、気遣わしげにストールを差し出した。


「アナベル! 目は見えるか!? どこか痛むところは!?」


 自身も上着を脱いだランブラーが、アナベルの前で、指を三本立てて見せた。

 銀の髪から冷水を滴らせ、アナベルは微かに首を振った。震える指が三を示した。

 ダーバーヴィルズ侯爵家の主治医が、アナベルの前に屈み、頷いて何か言った。



「――――意識あり! 目立った外傷なし!」


 浅葱の騎士が周囲に響き渡る大声でそう通達した途端、わっ――と歓声が起こった。


 周囲を庇い、ひとりで劇薬を浴びた侍女。


 無事の知らせに、ぱちぱち――自然に拍手が起きた。


「ひどく凍えている。今度は低体温が心配だ。急いで医務室へ。私も一緒に行こう」


 眉を寄せた医師が言うと、心配そうに顔を曇らせたランブラーが深く頭を下げた。

 

「お願いします。彼女は当家の使用人です。後ほど迎えに参ります」


 浅葱の騎士に取り囲まれて立ち上がると、アナベルは一度よろめいて、後ろ髪を引かれるみたいに運河を振り返った。


 カマユー卿は、まだ運河から上がっていなかった。


 騎士に促され、アナベルはせつなそうに美しい海色の瞳を揺らすと、華奢な肩を落とし、俯き加減で医務室へと向かった――――。



 §



「――――もう、アナベルったら、そんな不服そうな顔しないで。すこぅしばかり、わたしの主観的情報が混じっているかもしれないけれど、おおむね合っていると思うの……。ね、ブランシュ」


「ふふ、そうそう。それにほら、アナベルは医務室にいたから、ここまでしか知らないでしょう? それから、さらにすごいことがあったのよ」


 寝台に座るアナベルは、唇を尖らせつつ耳を澄ましている。やっぱり、その後のことが気になるらしい。



 少し遅れて、カマユー卿も柵を越えた。

 カマユー卿が冷水を滴らせつつしっかりした足取りで地に立つと、拍手は一層大きくなった。


 陛下のおわす王宮で、緑礬油が撒かれた。

 ゆゆしくも深刻な非常事態に、人々は混乱に陥った。


 けれど、死人どころか怪我人すらなし。


 危険を省みず劇薬に身を晒し、若い侍女を救った王宮騎士の勇気に、惜しみない称賛が送られた。


「やったな」「勲章ものだ」「助かった」「すげえ」「あたし、頭真っ白になっちゃって」「俺もだ、面目ない」


 浅葱の騎士らが、心底ほっとしたように、カマユー卿を労った。


 ところでさ――――ふと思いついたように明るく口を開いたのは、トマス・カマユー卿の姉である、ヘザー・カマユー卿である。



「トマス、あんた、さっき三階のバルコニーから降りて来なかった?」


 その問いかけは、たまたま拍手の音の合間を縫った。しん、と辺りが静まった。


 ――そう言えば……? 


 三階バルコニー。


 令嬢たちを人質に取った、立て籠もり事件の現場?


 なぜ、王宮第二騎士団所属トマス・カマユー卿がそんなところに?


 人々の顔に、一様に「?」が浮かんだ。



 冷水に体温を奪われ、顔色は悪かったけれど、カマユー卿は落ち着き払っているように見えた。額に貼り付いたブロンドから、澄んだ雫が輪郭を伝って落ちていた。


 医務室へと向かうため、遠ざかってゆくアナベルの小さな背を、心配そうに、愛おしそうに見つめていた。


 アナベルを見送ったカマユー卿は、満足そうに辺りを見回した。


 大切なものたちを最後にその目に焼き付けようとするみたいに、今生の別れを惜しむように、優しい目をして。


「…………トマス?」


 日頃と異なる弟の様子に、ヘザー・カマユー卿が眉を寄せた。


 カマユー卿は、ほんの数秒、目を閉じた。


 やがて、何か大きな決断を終えたみたいに清々しくも凛々しく顔を上げると、カマユー卿は口を開いた――――。



 §



 わたしは一旦、言葉を止めた。

 薔薇模様のティーカップに手を伸ばし、アップルティーで喉を潤す。


「アナベルの言う通り、この部屋はやっぱり、少し暑すぎるかもしれないわねぇ……喉が乾くわ」


「………ちょ、令嬢?……そ、それから?」


 寝台から身を乗り出したアナベルが、焦れったそうに先を促す。すごく心配そうだ。


「――――ふふ、それでねぇ……」



 §



 カマユー卿は、決然と口を開いた。



「ずずずずべべべべででででばばばばだだだだ――――」


「……うんまあ、水温、零度近かったろうから――」

 ランブラーが、気の毒そうに眉を寄せて言った。「――歯の根が合わなくって当然だよ」


「ばばばばば」


「う、うん……? すまない。なに言ってるかよくわかんないけど、カマユー卿! 兎に角、よくやってくれた!」


 ランブラーが励ますように言って、優雅な所作で拍手を送った。

 身体の冷えたカマユー卿を気遣ったのだろう。やや強引にまとめにかかった。


「よくやったな、カマユー。今日はもう休め。明日も非番でいいぞ」


 ノワゼット公爵も鷹揚にまとめに入った。


 夕暮れ時、風はいよいよ冷たさを増していた。

 カマユー卿は、寒さで震える手で三階のバルコニーを指した。


「ばばばばぜぜぜぜ」


 何か、必死に伝えようとしているらしい。


「う、うん……? いいっていいって。ごめんごめん、こんな時にしょうもないこと訊いちゃって。早く医務室行ってきな」と、ヘザー・カマユー卿が姉らしく優しく諭した。


「よく暖まって休めよ」

「風邪ひかないようになー」

「後で差し入れ持ってく」


 三つの王宮騎士団は、それぞれ仲が悪いとされている。

 しかし、人好きのする性格のカマユー卿は、第二騎士団の同僚だけでなく、第三騎士団の騎士からも好かれているらしい。

 エルガー卿やオデイエ卿らの他、浅葱の騎士からも親しみをこめて肩を叩かれている。


 額を押さえたカマユー卿は、こんなはずでは……と言いたげに天を仰いだ。



 しかし、一向に思い通り動かぬ舌に見切りをつけたのか、医務室に向かったアナベルがたまらなく心配だったのか、いよいよ寒さに耐えかねまずは風呂! と考えたのか、いずれにせよ真剣な顔で「ばばばばば」と唇を震わせ礼をすると、医務室の方角へと足を向けた。



 §

 


「それってそれって……!」と、胸の前で両手を組んだアリスタが、瞳を煌めかせる。

 きりっと眉を寄せ、勢いよく片目を瞑る。


「『アナベル……君という太陽さえ無事なら、冬の運河も沸騰寸前さ。ユーアーマイサンシャイン!』って言おうとしたんじゃありませんかね!?」


「いや普通に痛すぎるでしょそんな騎士いるわけないでしょ」


 半眼になったアナベルが、近頃もっぱらロマンス小説を糧に生きているアリスタを早口でたしなめる。

 けれど、その耳はほんのり赤い。


「まあまあ、そうかもしれないわねぇ。それでね――」とわたしは続ける。



 §



 カマユー卿が拍手に見送られた後――――。


 周囲の大半の視線が自然と、ある人物に向いた。


 ――――そういえば、


 同じ三階バルコニーにいた人が、ここにもう一人いる。


 トマス・カマユー卿が、三階から降りてきた理由。


 それは、ちょっとした疑問。


 目の前に不思議があると、解き明かしたくなるのが人情ってもの。

 だからこそ、人類はここまで発展してきたのだから。



 ――――彼なら、説明できるんじゃないか。



「ウェイン副団長」


 アナベルの無事を確認し、ホッとして気が緩んだ様子のメイアン従騎士が、あどけない称賛の眼差しをウェイン卿へ送った。


「さっきは流石でした! 修道士の頭巾党モンクスフードごとき、副団長の手に掛かれば瞬殺ですね!」


 ウェイン卿は、表情を変えず黙っていた。

 メイアン従騎士はチョコレート色の瞳を煌めかせ、高揚気味に言い募る。


「副団長はすごいなぁー! 俺の憧れです!  だけど、いつの間にカマユー卿が? あ、副団長と一緒に部屋に入ったんですね! ちっとも気づかなかった! 立て籠もり犯、ビビったろうな~。あ、でも、犯人たち、放っといて大丈夫なんですか? それに――――」


「あの部屋には、キャリエールがいるから問題ない」


 ウェイン卿が、表情を変えぬまま淡々と応じた。


 え?―――といくつかの声が重なった。ノワゼット公爵も怪訝そうだ。


 浅葱の騎士たちが、訝しげな視線を送ってくる。


「……え?……キャリエール卿? いつの間に、一体どうやって―――」


「………………それは、どういうことだろう? ……レクター・ウェイン副団長」


 疑惑と不安がない交ぜになった表情を、バルビエ侯爵がウェイン卿に向けた。


「……一体、私の執務室で、本当は、何が起こっていたんだ?」


 ダーバーヴィルズ侯爵、ビシャール伯爵ら、人質になった令嬢たちの父親達が、不安そうに目配せし合う。


「――――まさか、ただの立て籠り事件ではなかったのか?」



 ウェイン卿は、わたしに向き直った。深く柔らかな、ガーネットの眼差し。


「令嬢――申し訳ありません」


「――え?」


 ウェイン卿は、恭しくわたしの前に片膝をついた。両手を優しく、大きな手でそっと握られた。


「カマユーは覚悟を決めています。ですが……カマユーは、何と言うか……少し、令嬢と似ているところがある。すぐ脇に逸れて道を踏み外しがちな第二騎士団には、どうしても必要な男です」


「は、はい……」


「それに……仲間を見捨てるような人間が、貴女の隣に立つ資格があるでしょうか?」


「は、はあ……?」


「約束します。この先、何があろうと、世界が深い霧に包まれ終わろうとも、私が貴女に捧げるこの愛情は、永遠に変わりません」


「は、はい! わたくしこそでございます!」


 頬が熱い。突然始まったロマンチック展開に脳が追いつかなかった。頭と心臓が破裂しそうだけれど、もちろん非常に嬉しかった。

 ウェイン卿ったら、とにかく素敵すぎるのだもの。


「ですが……貴女は自由です。私から手放すことは、到底できない。私は、死よりも強い苦しみを味わうことになるでしょう……。しかし、それでも、貴女には最良の道を選んで欲しい。誰よりも幸せであって欲しい……。矛盾していますが、本心です」


「はあ、ははあ……? なるほど~……?」


 辛そうに、苦しそうに、ウェイン卿はうっとりするほど端正な顔を歪めた。

 そんな表情も悩ましく、甚だしく魅力的であった。


 内容は素敵に詩的であり、ちょっと意訳が追いつかなかったけれども、何かこれたぶん、愛を囁かれているということはわかった。くらくらした。


「レクター」とノワゼット公爵が固い声を上げた。「黙ってろ」


「ウェイン卿、よせ」とランブラーが、射抜くように言った。


 すっくと立ち上がり、背を伸ばしたウェイン卿は、普段通り泰然と人々の前に立った。


 そして、静かに言い放った。



「本日、左ファザード三階バルビエ侯爵執務室で起きたことの責任は、すべて私が取ります」



 



 


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