第92話 あたたかな寝室-01
暖炉に継ぎ足した薪が、炎の舌に絡めとられ、呑み込まれてゆく。
うっすら結露した窓硝子は、灰色の空を鈍く映している。冷たい水滴を指先で拭い、額を近づけて見下ろすと、伯爵邸の庭はひっそりと静まっていた。
振り返って、わたしは寝台に向かって微笑みかける。
「…………ね、寒くない? もっと薪を足しましょうか? アナベル」
眠っているのかもしれない。
けれど、新しい包帯で覆われた頭が、応えるみたいに微かに揺れた。
白い包帯の隙間からこぼれた銀髪が、枕の上で流れる。
ここは、伯爵邸の客間のひとつ。
アナベルが横たわる寝台脇に腰を下ろし、わたしはこっそり息を吐いた。
「…………わたしね、アナベルが助かってくれて、嬉しい……」
明るく言おうとしたのに、うまくいかなかった。あんまりだ。
――……こんな怪我を負うなんて……。
気を抜くとすぐ、涙腺が決壊しそうになる。瞬きを繰り返して堪え、手を伸ばして毛布を掛け直す。
「疲れたでしょう? 無理に話そうとしないで、ゆっくり眠ってね。……昨日は、色んなことがあり過ぎたもの……ねえ、アナベル」
アナベルはまた少し、小さな頭を揺らした。わたしは静かに息を吐いて、改めて思い返す。
昨夕、目の前を走り抜けた出来事を――――
§
「――――令嬢っ!!」
運河に高い水柱が立った。次の瞬間――――。
視界が黒く塞がれた。身体が護られるように包まれて、ウェイン卿の声がすぐ耳元で聞こえる。
「お怪我は!? 顔色が!! どこか痛い所は!? ご気分が――」
「ウェイン卿……?」
ついさっきまで、三階の部屋にいたはずなのに。
「どうしてここに……?」
「ご無事ですか!?」
抱き締めれられ、脈打つ鼓動を聞くと、力が抜ける。ようやく息ができた気がした。
「は、はい。無事です」
わたしの声は意図せず湿っていた。ウェイン卿が大きく息を吐き、固い胸が大きく上下する。
「ウェイン卿、三階にいらしたはずじゃ……」
「カマユーに続いて降りました。令嬢の姿が見えたので――」
「――ブランシュ!!」
他の騎士たちと一緒に駆け戻って来たノワゼット公爵が、立ち竦んでいたブランシュを抱きとめた。
「――怪我はっ!? 真っ青じゃないか! どこか打ったのか!?」
ノワゼット公爵は、ウェイン卿とほとんど同じことを叫んだ。ブランシュは首を小さく横に振る。
「わたしは平気……メイアン従騎士が守ってくれたから……」
「そ、そうか……」
ノワゼット公爵が肩で大きく息をついた。
「良かった……本当に良かった……傍を離れてごめん。ブランシュ、君にもしものことがあったら……!」
「ちょ、ちょっと、苦しいわ、アラン。だけど、陛下は……?」
強く抱き締められて、ブランシュは抗議の声を上げた。手を緩める素振りもなく、ノワゼット公爵はブランシュの髪を片手で鋤く。
「陛下はもう中央宮に着いてるだろう。それより、」
メイアン従騎士に笑いかける。
「よくやったメイアン。最短で正騎士に取り立ててやる。本当によくやった」
「メイアン、恩に着る」
ウェイン卿もわたしを離さないまま言った。
よくやったな。よくやったわ。
ラッド卿とオデイエ卿らも、口々にねぎらった。
先輩騎士たちから背を叩かれたメイアン従騎士は、あどけなさの残る顔をくしゃっと歪めた。
「違う……! 違うんです。……俺じゃない……アナベルさんです。突き飛ばしてくれなかったら、俺……レディ・ブランシュとレディ・リリアーナも、頭から劇薬をかぶってた……うっ……」
少年のようにしゃくり上げ、制服の袖でごしごし目元を拭う。
頷いたオデイエ卿が、気遣わし気に運河を見やった。
「さっきのものすごい陽炎、まさかと思ったけど、アナベルなのね……」
浅葱の騎士らが、運河の淵に鈴なりに集まっていた。
「おい無事かー!?」「ロープもっと伸ばせー!」「こっち引っ張ってー!」
掛け声が聞こえる。運河に落ちた二人を引き上げようと、騎士の何人かが、柵の向こう側へ降りてくれているらしい。
メイアン従騎士の背をもう一度軽く叩いてから、ラッド卿とエルガー卿も運河に駆けてゆく。
「……ウェイン卿、……アナベルが、アナベルにもしものことがあったら、わたし、」
胸を押さえて喘ぐと、視界が滲んで霞む。風を受けた頬がひんやりとした。
隣でブランシュが、色を失くした唇を震わせた。
「どうしよう……! アナベル……。あれ、わたしを狙ったんじゃない? わたし、どうしよう。アナベルが身代わりになってくれたんだわ……! ああ、どうしよう」
わたしたちの口から、ううっと嗚咽が漏れる。
ウェイン卿とノワゼット公爵は、ひゅっと短く息を吸った。
「だ、大丈夫でしょう! きっと! カマユーがすぐに飛び降りましたし! さあ、あのベンチに座りましょう。今にも倒れそうだ」
「そ……そうそう! 大丈夫に決まってる! カマユーは第二騎士団一の俊足だ。間に合ったと思うなあ~。アナベルのことは、僕がなんとかする。約束する。ささ、ブランシュとリリアーナはここに座って。――レクターは二人に付いていろ、僕が見てくる」
最後の方、ノワゼット公爵は素早くウェイン卿に耳打ちすると、もう一度、ブランシュとわたしに向かって、安心させるみたいに大きく微笑みかけた。
オデイエ卿らを引き連れて、早足に運河へ向かう。
ちょうど、運河と陸を隔てる柵の向こうから、浅葱の騎士が姿を現した。その片腕に抱えられているのは、銀髪の……――アナベルだ。
わたしたちの視界を遮るように、ウェイン卿がベンチの前に立ちはだかった。
怪我の度合いがはっきりするまで、わたしたちには見せたくないのだ。
けれど、心配でたまらなかった。
だから、わたしは首を伸ばした。
「ああ―――――」と、声にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。
白磁のようなアナベルの頬が――――
§
「……………ね、アナベル、眠る前に、お腹空いてない? そのままでいいわ。口に運んで食べさせてあげる。ええと、どれがいい? すりおろし林檎に、ミルク粥……搾りたて葡萄ジュース、桃のコンポート、プラムゼリーもしくは、」
寝台の上で、アナベルは力なく首を振る。包帯で覆われた表情は見えない。
「あらそれじゃ、ハチミツ入りの温かい卵酒というオプションも――――」
アナベルの華奢な身体が、寝台からからむくりと起き上がった。
せっかく綺麗に巻いた包帯に、止める間もなく指をかけてしまう。
「あのですね、令嬢――、何度も申し上げている通り、全身どこも健康そのものですから――」
「だめ! 横になって! 怪我人は安静第一!」
わたしの背後からビシッと発せられたのは、ブランシュの声だ。
有無を言わせぬ迫力に押され、アナベルはしぶしぶ、といった体で枕に頭を乗せる。
「もう~、今度のは人生で一番うまく巻けたと思ったのに、アナベルったら、またはずしちゃったの?」
口を尖らせたアリスタが、救急箱を肩手に駆け寄ってくる。
「アリスタ……気持ちだけで充分だから!」
また巻かれてはたまらない、と両手で頭を抱えて防御体勢を取るアナベルを見て、アリスタはぐすぐすと泣きべそをかいた。
「それにしたって、なんってひどいことをするんでしょう……! 女の顔に傷をつけるなんて……っ!」
「本当にね……!」
「……信っじられない!」
ブランシュとわたしも、つい涙声になった。堪えきれず握りしめたハンカチを目に当てる。
アナベルが、またむくりと起き上がった。
「傷って……これのどこが!? 割れた瓶の欠片が、ちょっぴり頬を掠っただけじゃないですか! もう本当、お二人が大袈裟……じゃなくって、心配してくださっていることはよく分かりましたから、包帯は許してください。暑いし蒸れるし息苦しいし、声も出せない……!」
アナベルの白い右頬にくっきりと走る、赤い線。
ああ――とブランシュとわたしは、絶望的な溜め息を落とした。
「しみ一つない綺麗な肌だったのに……! もっと効く軟膏、本当にないのかしら。王立病院に伺って、直接尋ねてみるのはどうかしら……?」
「お医者様によると、完全に消えるまで一か月はかかるというじゃないの……! わたし、一日も早く治るよう、毎日教会に通って、神様にお祈りするわ」
アナベルの海色の瞳が、なぜか半眼になった。
「……いえ、ほっとけば治りますから。ついでに、ベッドから出てもいいですか? 暖炉も介助も必要ありません。本当に、どこもなんともな――」
ブランシュが、柔らかく微笑んだ。
神の与えたもうた完璧なる黄金律。女神の――いや、獅子の微笑みだった。
「あらあら、それはだめね」
優美な百獣の王に気圧され、アナベルは黙る。
ヘッドボードに凭れたアナベルは、諦めたのか目を閉じた。
「ごめんね、アナベル。だけど、本当に心配なの。それと改めて――助けてくれて、ありがとう」
ブランシュが頭を下げる。
瞼を開いて、アナベルは軽く微笑んだ。
「いいえ、本当にどうってことありません。今じゃこの体たらくですけど、これでも、いっぱしの騎士だったんです。……もう、ご存知でしょうけれど……リーグたち、話したんでしょう」
大事な物をどうしても捨てなければならない子どもみたいに、アナベルは寂しい微苦笑を浮かべた。
ベッドの縁に腰かけて、ブランシュが優しく声をかける。
「氷水みたいな運河に落ちたのよ。身体が芯から冷えたに違いないわ。暖かくして安静にしていないと、風邪を引いちゃう。そうしたら、わたしたち心配で夜も眠れなくなっちゃうわ」
アナベルは少し笑った。
「この程度で風邪なんかひきません……そもそも、運河には落ちたんじゃなくて、落とされたんです」
ふふっとこの頬は緩む。
「昨日のカマユー卿、すごかったわ……。三階から鳥ように舞い降りてきて、颯爽とアナベルを抱き上げたかと思うと、一目散に運河に飛び込んだのよ。ほんの数秒の間の出来事だった。第二騎士団の『黒鷹』って異名が、ぴったりって感じだった」
昨日から何度も繰り返しているわたしの言葉に、暖炉の前で火の調子を確かめていたアリスタが、ほうっと感嘆の溜め息を落とす。
「愛の力ですねえ……!」
「本当にねぇ」
うんうんと頷き合う。アナベルはふいっと顔を逸らし、聞こえないふりをしてしまう。
胸に手を当てたアリスタは、瞳をうっとりと潤ませた。
「『デイリーサニー』水曜版で連載中の、塔から姫を救い出す騎士の物語みたい! 王宮騎士様って、やっぱり素敵ですよねぇ~。あの、もう一回聞かせてもらっても良いですか? あとでペネループやリジー達にも詳しく教えてあげなくっちゃ」
アナベルが目を瞠る。
「え、もういい――」
「もちろんだわ、アリスタ。それでね、運河から助け出されたアナベルを見て、皆駆けつけたわ。騎士はもちろん、お従兄様や、ダーバーヴィルズ侯爵様に、主治医の先生、他の人達もね――――……」
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