第91話 アナベル

「――――緑礬油りょくばんゆだ!」



 割れた瓶を一瞥し、浅葱の騎士が叫んだ。一瞬の間の後――――。


「……ッキャーーーーーーッ!!」


 誰かの上げた金切り声が、晴れ間を切り裂く。


「――――どっ、どけ!」

「押すな!」

「そっちこそどけよっ!」


 その場から逃げ出そうとする人が、同じく駆け出した人にぶつかる。人々は悲鳴を上げながら走り、転倒し、追突した。

 救けに向かう騎士は、逃げ惑う人々に阻まれる。

 

緑礬油りょくばんゆ!? どこから降ってきたんだっ!?」

修道士モンクだ!! 修道士モンクの仕業だ!!」

「侍女がやられてる!」

「無差別攻撃だ!!」

「ああどうしよう! ああどうしよう!」

「いやだ私の肩! 濡れてるかもしれない!」


 みんなが同時に色んなことを叫んでいた。落ち着いて! 落ち着いて!――と叫ぶ騎士たちの声は、たちまち混乱の渦に呑まれてゆく。



「――――アナベル……」


 血相を変えた人々が、こちらに向かって駆けてくる。


 ――何が起こっているの。


 突然青白い光が弾けて、身体が浮いて、それから……頭の中は真っ白だ。


 混沌の方角へふらふらと歩み出し、わたしは足を止めた。

 強い力で引き戻されたからだ。


「ダメですっ!! レディ・リリアーナ!!」


 メイアン従騎士が、わたしの右手首を掴んで叫ぶ。


「……メイアンさん……でも、アナベルが向こうにいるの」


「令嬢が行ってどうなります!? よく見てください! あっちの床は劇薬まみれですよ!!」


 メイアン従騎士のチョコレート色の目は、真っ赤だ。

 息を大きく吸ってから、諭すように続ける声は震えていた。


「アナベルさんのしたことが、無駄になってしまう。俺は……っ、副団長とアナベルさんに頼まれたんです……! 男の約束です。絶対に行かせません……っ」


「……メイアンさん……」


 人がいっぱいいるのに、アナベルの周りだけ、別世界だった。

 ぽっかりと切り取られた、空白の円。


 ――――どうして。

 

 どうして、アナベルは独りなの? 

 苦しそうに踞ってるのに。

 どうして誰も助けに行かないの? 


 いえ――――。


 凍り付いた表情で、ヘザー・カマユー卿ら浅葱の騎士たちがアナベルを見つめている。


 打つ手がないのだ。


 頭から爪先まで劇薬にまみれ、うずくまるアナベル。しっとりと肌に張り付いた銀の髪が、生ぬるい陽光を弾いている。


 あの劇薬は、肌に焼けつく痛みをもたらしているはず。けれど、アナベルは身じろぎもしない。

 

 ――彼女はもう、ここから消えようとしているから。

 



「――――? っアナベル……!?」


 騒ぎに気づき、左ファザードからランブラーが駆け戻るのが見えた。一見して事態を把握したのか、端正な顔はみるみる青ざめる。


「ちょっと――通してくれ! 知り合いだ! うちの侍女だ……!! くそっ――――。どけったら!」


「っ――水だ!!」


 二階のバルコニーから、ウィリアム・ロブ卿のらしからぬ怒声が響いた。手すりに身を乗り出し、険しい声で叫ぶ。


「彼女に水をかけろ! 急げ!!」


 はっと我に返った浅葱の騎士らが、ようやく動く。ヘザー・カマユー卿らが水場を目指して駆け出し、すでに噴水付近にいた騎士は素早く上着を脱ぎ、袋状にして水をすくう。


 だめ――――。


 間に合わない。


 人の皮膚が、緑礬油りょくばんゆの浸食に耐え得るのは、ほんの数十秒のはず。


 アナベルは、今にも溶けはじめる。


 陶器のような白い皮膚は裂け爛れ、月光色の髪は枯れ落ちる。くずれてゆく。


 そんな馬鹿な――――。

 息が詰まる。

 あの優しいアナベルが、いえどんな人だって、こんな目に遭っていいわけがない……!早く、早く。



「……アナベルを助けて――――!」


 そう口にした途端、


 バサッ――――。


 木々が、風が、空がざわりと動いた。


 チカッと陽光が揺れたかと思うと、辺りは急速に陰る。

 逃げ惑う人々は何事かと足を止めた。それぞれ空を仰ぐ。


「からす……?」


 空と太陽を覆いつくすほど、黒い影が飛び交っていた。


 その時。陰った視界に、ふわりと何かが降りてきた。


 大きな、黒い鳥?


 鴉よりもずっと大きい――――


 緑礬油で濡れそぼった大理石の上に、彼は片膝をついた。その膝下が劇薬で濡れる。


 翼――のように錯覚した漆黒のマントが、重力に引かれてゆっくりと落ち、アナベルに覆いかぶさる。


 すっくと立ち上がって顔を上げた時、その腕にはアナベルの細い身体が、大事そうに抱えられていた。



「………………カマユー卿?」


 わたしの手首を握ったまま、メイアン従騎士がぽかんと瞬く。


 カマユー卿は、落ち着いた表情だった。いつもと変わらない、穏やかな顔。

 いたわるように優しく、濡れた銀髪に自身の頬を寄せる。

 両手で顔を覆って、いやいや、をするみたいに首を振るアナベルの耳元で、何か囁いたように見えた。



「え……トマス?」と噴水の傍で水を汲んでいたヘザー・カマユー卿が、弟の姿を認めて目を瞠る。「なんで?」



 アナベルをしっかり横抱きし、カマユー卿は踏み出した。


 一歩、二歩、大股で――――三歩、黒いマントが風をはらんで翻る。

 力強く、風に乗って滑空する野生の鷹のようだ。


 立ち竦む人々の隙間を疾風のように駆け抜けて、カマユー卿は迷いなく踏み切った。木製の柵に片足をかけて。翼のようなマントが広がる。


 彼らは飛んだ、一直線に。



 ――――初冬の運河へと。



 どっぱーーん――と盛大な音とともに、高い水柱が立った。


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