第89話 鶴の一声(イザーク・メイアン視点)

「国王陛下」


 ローゼンダール王国国王陛下は、第一騎士団団長のグラハム・ドーン公爵と白い騎士を数えきれないほど背後に従えていた。

 ノワゼット公爵に向けて、悠然と頷く。


「この宮で立て籠りと聞いて、いても立ってもいられなくてね」

 

 天におわす建国神から王権授けられし、国照らす太陽。

 その血脈は神に連なり、貴き冠を戴く方。


 お姿はしょっちゅう新聞に載っているから、国民なら誰でもご尊顔を知っているけれど、普段の陛下は、白の正騎士に厚く守られ、中央宮にいる。

 声の届く距離で会うなんて、ぺーぺーのなりたてほやほや従騎士である俺には、もちろん初めてのことだった。

 カエルと化した心臓が跳ねまくっている。


「ノワゼット公爵、君が指揮を取ってくれていたのか。状況は?」


 陛下は眉をひそめ、辺りを見回している。こういう場面で、陛下が真っ先に声をかけるのは、従弟であり騎士団長である、ノワゼット公爵なんだ。


 ダーバーヴィルズ侯爵ら他の顧問官も、それを弁えているのか、黙って低頭している。


 国王陛下の、一番のお気に入り。

 貴族たちがノワゼット団長に向ける、憧憬と好奇心と少しの嫉妬。

 うちの団長閣下は、正真正銘、権力の中枢に立っている。すごい人なんだ。理解不能で人でなしで面倒くさがりだけど。


 ちなみに、『国王陛下の高潔なる枢密院』に在籍する、陛下の大事な顧問官たちを蒼白にさせた張本人は、「クレメンタイン・クリークに行け」と言い出したノワゼット公爵である。


「人質に取られている令嬢たちは……? まさか、最悪の事態に……」


 ノワゼット公爵は、涼しい顔で軽く首を横に振った。


「ご安心を、陛下。立て籠り事件は、我が第二騎士団が、つつがなく解決しました」


 胸を張ったノワゼット公爵が視線だけでバルコニーを指すと、そこには慎ましく礼を取る人質令嬢たちと、いつも通り氷の無表情のウェイン副団長が立っていた。


「捕縛完了しました」と、副団長は平坦な声で言った。


 え、早ーっ――と、俺は内心でおののいた。流石だ、副団長、やっぱりすごい……! かっこいい!


 いつの間にか、さっきまでいた立て籠り犯たちの姿はバルコニーから消えている。副団長に音もなく秒殺されたんだろう。

 ほんとに、何がしたかったんだ、あの立て籠り犯たち。


 途端に、陛下は青銅色の眼差しを緩めた。親愛の情を込めて、ノワゼット公爵を見る。


「……そうか。てっきり……いや、流石だ、君と君の騎士は。ウェイン副団長、ご苦労だった」


「は」


 陛下に労われ、ノワゼット公爵はにやりと笑い、ウェイン副団長は無表情で敬礼する。


 悠然と頷いてから、陛下は再び口を開いた。


「それじゃ……なぜまた……枢密顧問官が腹を切ろうとしてるんだ?」


 困惑気味に、ノワゼット公爵に向き直る。


 重ねて言うが、陛下の大事な顧問官を切腹間際にまで追い詰めたのは、ノワゼット公爵である。 

 穏やかに微笑したまま、ノワゼット公爵はディクソン公爵に近づいた。優美な仕草で、丸い肩にぽんぽん、と手を置く。


「ああそれは――このヒューバート・ディクソン公爵が、枢密院を辞めるそうなので、皆で別れを惜しんでいたんですよ。切腹するほど寂しくなるなあって。なぁ? 元気でやれよ、いつかどこかで僕を見かけたら、遠慮せず声かけてくれていいからな」


「ああ…………はい」と、ディクソン公爵はされるがままに俯いた。


 本来なら同じ公爵で、同じくらい偉いはずなのに、陛下の前では、その権勢の差は月とすっぽんくらいあるように見えた。


「…………ほう? そうなの」


 陛下は、ディクソン公爵の存在に初めて気づいたみたいに、視線を向けた。「いたのか、オマエ」みたいな感じだ。

 

 ディクソン公爵が、陛下の前に静かにそっと歩み出た。膝をつき、これ以上ないくらい低く頭を垂れる。


「申し上げます……国王陛下。誠に勝手ながら、この度、枢密院を辞したく存じます。これまで、恐れ多くも陛下のお側にお仕え出来たこと、この身に余る栄誉でございました。生涯の誇りと致し、御代とローゼンダール王国の永久なる栄光を心から――」


「………本当に辞めるのか?……なぜだね? 体調不良? 仕事に障るほどなのか?」

「は? い、いえ……体は、健康です」


「……ふぅん、では、領地にいる家族が急病とか?」

「え、いえ、そういうわけでは……」


 どうしてそんなこと訊くんだろう?

 ディクソン公爵のはれぼったい瞼と頬に覆われている目が、ぱちぱちと見開かれている。陛下は静かに訊いた。


「じゃあ、なぜだ?」


「そ……それは、私は、顧問官として相応しくない、と考えるに至り……私よりもずっと、陛下のお役に立てる、相応しい後任をすでに据え――」


 青銅色の瞳を薄く細めて、陛下は微笑んでいた。でも、上目遣いで盗み見ると、陛下の目は今、少しも笑っていなかった。


「そうか、ならば許可できない」


「え?」と、ディクソン公爵だけでなく、他の貴族達、ノワゼット公爵すらも、ぽかん、と口を開けた。なんて? 


 陛下の寵なき臣――それが、ディクソン公爵だ。


 だからこそディクソン公爵は、国務卿の甥であったにも関わらず、「豚」「木偶の坊」と蔑まれていた。


「…………し、しかしながら、私は、顧問官として、国家の、陛下のお役に立てたことが一度もありません。退いたって、別に――」


 陛下はふふ、と声を出して笑った。いや唇だけ。やっぱり目は、笑っていない。


「そうだな。なにしろ君、無愛想だし、ほとんど喋らないし」


「は、はい……」


 がっくり、とディクソン公爵は肩を落とす。


「ここにいるグラハム・ドーンとアラン・ノワゼット、王妃と共に中央宮にいるジェフリー・ハミルトンは、私の年の離れた従弟で、生まれる前からずっと近しい存在だ。首が座る前の彼らを、抱っこしたことまであるんだからね」


 どこか得意げとも言える口調で、陛下は言った。自信に満ちた表情で、ドーン公爵とノワゼット公爵が口端を上げる。


「甘言を囁かれても、王冠に露ほどの興味も示さず、王弟だった叔父上達は父と私に仕えてくれた。

 その叔父上たちからも、息子のことをよろしく、と頼まれている。弟みたいなものだ。――君らも、私が好きだろうね?」


「「――はい、もちろんです。この心身、露と戻り行くその瞬間まで、国照らす太陽たる陛下と共に」」


 ドーン公爵とノワゼット公爵は、まさに息ぴったりに陛下に応えた。


「ふふ、……さて、この三公爵は忠臣であり、私の自慢の寵臣だ。だけど、ヒューバート・ディクソン公爵、君は違う。君は私の機嫌を取ろうとしないし、愛想笑いもしない。無表情で何考えているかわからないし、はっきり言って、不気味な存在だね」


「は……」


 国照らす太陽たる陛下から、はっきりと寵のなさを断じられ、ディクソン公爵は言葉に詰まった。

 項垂れ、身を縮めるディクソン公爵を、俺はたまらない気持ちで見つめた。


 だけど陛下! この人は、スゴく善い人なんです! 下の者の幸福を、心から祈れる人なんだ! 

 叫んでやりたかった。もちろん、できないけど。他の人たち……隣できゅっと唇を閉じて俯いているリリアーナも、たぶんきっと同じ想いだろう。


「――だから、君が枢密院を辞めると困るな」


 淡々と、陛下は言った。


 ――…………?


「え?」と、ノワゼット公爵が目を見開いた。

 ディクソン公爵が顔を上げ、狼狽した様子で陛下を伺う。


「…………? お……恐れながら、陛下、私には、仰る意味が……」


 戸惑うディクソン公爵を見下ろして、陛下はまた唇だけ笑った。


「…………覚えているか? あれは、ちょうど五年前、この国が隣国ハイドランジアとの開戦に踏み切ろうとして、枢密院の誰もがそれに賛同していた時、君、面と向かって私に歯向かっただろう?」


 ディクソン公爵は、また、しょんぼりと肩を落とした。


「……はい。恐れ多くも、……僭越なことを」


「君の意見は、もちろん通らなかった。それから君は一層、枢密院での立場を失くした。あの時のこと、後悔しているかい?」


 少し考えてから、ディクソン公爵は「いいえ」と丸い顔を横に振った。


「わ、私は、開戦には反対でした。ありとあらゆる手を使って、戦争回避への道を探らせてほしいと……と進言いたしました。……あの時の気持ちは、今も、変わっておりません。ひゃ、百人が百人とも賛成したって、私は、戦争は、嫌いなんです……」


 ディクソン公爵が震える声を絞りだし、陛下の目の奥が、ほんの少し笑った気がした。


「天子有爭臣七人雖無道不失其天下、ということだ」


 ゆっくりだったけど、陛下がなんて言ったのか、俺にはまったく聞き取れなかった。

 え、ええと……とディクソン公爵は何度か瞬く。


「『天子に爭臣七人あれば、無道といえども、その天下を失わず』ですか?……東方の、儒学者の言葉……ですよね」


「そうだ。神から王権を与えられた国王……つまり私だけど。まあ、この先ごくたまに、道を間違えることもあるかもしれない……いや、たぶんないけど。まあ、もしもの話、『王が驕り狂ったとしても、王と争ってでも諌めようとする臣が七人いれば、国は亡ばない』んだって。そういうわけで、私には寵臣はたくさんいるが、爭臣はとかく貴重なんだ。七人には、ぜんぜん及ばない――やっぱり、君には辞められると困るなぁ。――ブルソール国務卿、いるかね?」


「――は」


 呼ばれた国務卿が、陛下の前にすうっと音もなく進み出てきた。

 ええ!? と俺は目を疑った。

 今まで、どこにいたんだ、この人。藪の隙間からぬるりと現れたとしか思えなかった。獲物を待ち伏せていた毒蛇みたいに。


「君の甥、なんとしても引き留めるように。あ、もう後継が決まっちゃったのか? 諸事情あって爵位が足りないのなら、願い出るといい。戦争と粛清のお陰で、今この国には余分な爵位と領地が溢れている」


「御意にございます」


 ブルソール国務卿が感情のない声で応えて、鎌首をもたげるみたいな仕草で低頭する。

 陛下は満足そうに、にっこり微笑んだ。しかしやはり、目はたいして笑ってない。


「君には期待しているよ。ヒューバート・ディクソン公爵」


 ディクソン公爵は潤んだ瞳を瞬かせ、さらに低く頭を下げる。


「ところでさっき、誰か、プロポーズの真っ最中じゃなかった? 邪魔したってわかったら、王妃に叱られるんだけど。彼女、ロマンスに目がないから」


「は、いえ……それは、その……」


 婚姻法では、後見人の同意なしには結婚できない。ダーバーヴィルズ侯爵は、結婚に猛反対だ。

 言い淀むディクソン公爵の横に、ダーバーヴィルズ侯爵がしずしずと進み出てきた。


「実はですね、国王陛下――」


 と、口を開いたダーバーヴィルズ侯爵の目は、すんごい見事な三日月型だった。うわあ。人間の目って、そこまで完璧に三日月を再現できんの!? ってくらい。


 ヒューバート・ディクソン公爵は、枢密院を辞めない。公爵も辞めない。それどころか、周囲の評価うなぎ登りのこの状況で、国王陛下直々に「期待している」と言われた。

 この場の誰もが、うすうす気づいている。

 次の国務卿は、ヒューバート・ディクソンにほぼ決まり!


 ほくほく、とダーバーヴィルズ侯爵は両手を揉みしだいた。


「実はですね、陛下、ヒューバート・ディクソン公爵閣下が、わが娘マージョリーに、愛の告白をされまして。どうしても結婚したい、すぐにでも! と申し込まれたのです。ええ」


 何か、事実が微妙に歪曲されている気がしないでもない。


「ほう」と、陛下は明るく目を細めた。


「それはめでたいね。私からも、何か祝いをしよう。欲しいものを考えておくといい」


 三日月の目を一層細くして、ダーバーヴィルズ侯爵はにんまり、と笑った。


「もったいなきお言葉! 陛下、ええもう、一日も早く結婚させてやるつもりです! 娘には、片親として苦労させましたゆえ、それはもう、一日も早く! そう考えている次第でございます! はい!」


 三日月型の目をしたダーバーヴィルズ侯爵が、力強く言った。


「カメレオンめ」とバルビエ侯爵が冷たく言い放ち、「ちっ」と、ビシャール伯爵がこっそり舌打ちする。

 だから、仲悪いのか良いのか、どっちなんだよ。大人になるってややこしいんだな。『男気! 友情! 一直線!』って風に生きるのは、難しくなんのかなぁ。


「さあ、戻ろうか」と、陛下が落ち着いた声で言い、ドーン公爵が「御意」と頷いた。

 人々は再び深く、臣下の礼を取る。


「僕も、そこまでお見送りしてくる」


 ドーン公爵をちらりと見やり、ノワゼット公爵が卒なく言った。

 黒鷹の先輩騎士たちは、整然と並ぶ白獅子の騎士に遅れを取るまいと続く。

 ラッド卿が一瞬足を止めて、俺に向かって小さく声をかけた。


「すぐ戻るから、メイアンはここにいろ。レディ・ブランシュとレディ・リリアーナから離れるなよ」


「はい!」

 

 とは言ったものの、ここにはもう、危険なんてない。全部まるっと解決したんだから。


 実際、周りには、第三騎士団の浅葱色の騎士がひしめいている。

 結局、ウェイン副団長とノワゼット公爵に手柄を横取りされた形になって、どの顔もぶすっと膨れて、不満そうだ。だけど、怪我人を出さずに立て籠りが解決して、ほっとしているようにも見えた。



 疲れたぁー……――遠ざかって行く陛下一行の背中を見ながら、俺は全身からどっと力が抜けるのを感じた。

 陛下の声を間近で聞けたのは、超感動体験だったけど、一週間分の生気を吸い取られた気分。



「………ローゼンダールの国王陛下は、名君なんですね……」


 リリアーナの向こう隣で、アナベルがそっと呟くのが聞こえた。どことなく、元気がなさそうに見えた。


 そうかなぁ。俺はちょっと、得体が知れないと思った。人間らしさが希薄というか、万の為なら千を、千の為なら百を、容赦なく切り捨てそうな冷徹さを、ひしひしと感じた。はっきり言って、怖かった。


「……ノワゼット公爵様と、やっぱり少し似てらっしゃいましたね」


 それを聞いて、リリアーナも、同じように思ったんだろう、と思った。

 

 同じ時間、同じ景色、同じ興奮を共有した人々は、散り散りに、それぞれ動き始める。

 数歩離れたところにいたレディ・ブランシュが、こっちに戻って来た。


「ぜんぶ丸く治まって良かったー! マージョリーの結婚式も楽しみね!」


 そうね、とリリアーナが言って、姉妹は笑い合った。

 

「……ねえ、アナベル、修道士モンクのことだけれど……」


 リリアーナが思い出したように不穏な単語を発すると、アナベルが無表情に頷いた。


「ええ、何か気がつかれました?」


「それがねえ……」


 リリアーナは、うーん、と細い首を捻る。アナベルが、心配そうに眉を寄せた。


「思い当たりませんか? できるなら、私がここにいる間に、令嬢から引き離したかった……」


 元気のないアナベルが、残念そうに肩を落とす。どこか遠くに、引っ越す予定でもあるのかな。

 リリアーナが遠い目をして、独り言のように呟く。


「わたしの知り合いで……? 貴族で……? 枢密顧問官……?」


「ええ、修道士の頭巾党モンクスフードの男が、はっきりと言っていました。『ロンサール姉妹は、が大事にされている白い花だから、手を出すな』って」


「ブランシュと、わたしのことを大事に……?」


 リリアーナの視線は、庭園にいる貴族たちに向いていた。


 満面の笑みを浮かべたダーバーヴィルズ侯爵が、ディクソン公爵の背中を親しみを込めて叩いている。すでに娘婿扱いだ。


 バルビエ侯爵、ビシャール伯爵、フォーティナイナー子爵が、バルコニーにいる娘たちに降りて来られる状況かと聞いている。令嬢たちは頷いて、部屋の方へ戻って姿が見えなくなった。

 いつの間にか、ウェイン副団長も部屋に戻ったらしい。バルコニーに姿がない。


 能面みたいな表情で、ブルソール国務卿が、エレノア夫人とマーク・エッケナーに、何事か囁いている。影のように従うのは、紫紺の騎士。白仮面が不気味だ。あれ、何とかなんないのかなぁ。夢に見そう。


 二階のバルコニーには、政務室から王宮政務官たちがぞろぞろと出てきた。


「解決したようだね、良かった」


 貴公子らしい余裕っぷりで、ウィリアム・ロブ卿が庭園を見下ろし、ゆったりと深呼吸している。


「あれ? ロンサール伯爵、今日、出勤してたんですか?」


 黒ぶちの眼鏡をかけた、いかにも秀才っぽい政務官に問われて、ロンサール伯爵が二階に向かって手を振った。


「おう、ウィルトンー。仕事どうだ? 手伝いに来てやったぞ。今からそっちに行く! ちょっと、確認したいこともあってさ! ジョセフいる?」


「わー、マジすか? ありがたいっすー! シュバルツ卿なら戻ってないっすー!」


「あ、そう。まだ探してんのか、あいつ」

 

 うんざりしたように言って、ロンサール伯爵が王宮に足を向ける。


 陛下一行は、もうだいぶ離れている。陛下と何か言葉を交わしているらしい、グラハム・ドーン公爵とノワゼット公爵の後ろ姿が見えた。


 レディ・ブランシュが、冗談めかして口を開く。


「思いつく限り、わたしの知る中で、一番怪しいのって、わたしの婚約者様だわ。いかにも質が悪そうなんだもの!」


「もう、ブランシュったら……冗談ばっかり、…………あ、ああっ!!」


 リリアーナが小さく叫んだ。

 何かにびっくりしたみたいに目を見開いて、上気した頬に両手をあてている。


「……ああ、どうしよう、わたし、わかっちゃったわ。ねえ、わかっちゃった……! 誤解してたんだわ。いいえ、わたしたち、みんな、の罠にまんまとはまって、誤解させられていたのよ……!」


「ええ?」と、レディ・ブランシュが眉をひそめた。「どういうこと?」


 アナベルが生真面目な顔をする。もっとも、アナベルが生真面目でないとこなんか、見たことないけど。


「令嬢、見つけたんですか?」


 俺も、「ええ」と頷くリリアーナの視線の先を探したけど、さっきと何も変わらない。


 夕刻を迎えようとする王宮庭園は、ひたすらに長閑だった。


 傾きかけた陽が、よく手入れされた常緑樹や人々の横顔を照らし、辺りをぬるく暖めている。

 張り詰めていた氷が、春光を浴びてほどけるように、着飾った人々はよそゆきの緊張を解き、帰路につき始めている。

 すぐ傍では、浅葱色の騎士たちが、他愛ない雑談を交わしていた。


「あの人の正体は――」


「――ねえ、あの、邪魔してごめんなさい。失礼ですけど、レディ・リリアーナ・ロンサール? 少しだけ、お聞きしたいことがあって――」


 雑談する騎士の中から、カマユー卿のお姉さん、ヘザー・カマユー卿が一歩出てきて、何か説明しかけていたリリアーナに声をかけた。


「あの、すごく変なこと聞いてるって分かってるんですけど、もしかしたら、『フランシーヌ』って女の子、ごぞんじないかと思って」

「ええ? その……えーと、」

「あら、妹は、何も知らないと思いますわ。ヘザー・カマユー卿」


 無言で辺りを確かめるように見ていたアナベルが、首を曲げて上を見る。強く、眉が寄っている。

 

「…………メイアン従騎士」


「あ、はい、なんですか?」


 呼ばれた俺は、丁寧にアナベルに応えた。

 相手が侍女だからって、ぞんざいにすんのは、もうやめにするつもりだ。

 なにしろ、魔女だと思いこんでいたリリアーナは天使で、さっきから思考が追い付かないけども、年老いた侍女エレノアは実は公爵夫人だったらしい(!!) 時計店の息子は、まさかの国務卿の孫(!!) えええ、怖い! 王宮で油断は禁物だ!


 アナベルの正体は、侍女じゃなく騎士なんです。と言われたって、俺はもう驚かないぞ! なんてな。流石にそれはないだろうけど。


「どうかしました? アナベルさん」


 そんなわけで、ごく丁重に、俺は訊いた。

 アナベルは真上を向いたまま、両手を伸ばした。右手でリリアーナの腕を、左手でレディ・ブランシュの腕を掴む。


「「え?」」


 二の腕を掴まれた姉妹が、きょとんと不思議そうにアナベルを見る。「どうしたの? アナベル」


 アナベルの視線を辿って、俺も上を向く。


 二階のバルコニーに、男がいた。


 モヤシみたいにひょろっとした男だ。こっちを見下ろして、すごく嬉しそうに笑っている。泣き黒子のある目尻に、皺がいっぱい寄ってた。

 男があまりに嬉しそうにニコニコ笑っているもんだから、つられて俺の頬も緩んだ。殺伐とした類いのものは、何も感じなかったんだ。


 男のすぐ横には、さっき伯爵から「ウィルトン」と呼ばれていた若い政務官がいて、反対側にいる政務官の方を向いて、穏やかに何か喋っている。

 

「あ」


 俺は、微かに頬を緩めたまま瞬いた。


 男の手の中に、小さな瓶が見えた気がしたから。

 楽しく踊る子どもみたいに、大袈裟すぎる動きで、男はバルコニーの手すりから右手を付き出した。ぱっぱっ、とコショウを振りかけるみたいに腕を大きく振る。


 きらきら。


 男の手の中から、たくさんの水滴が生まれて、飛び散った。

 西から差し込む光を弾きながら降ってくる。小さな虹が、頭上に架かった。



 わあ、綺麗だなぁ――――



「………っ死んでも離すな!! イザーク・メイアン!!」


 アナベルが、叫んだ。

 両腕に、柔らかく重みのある何かが、どすん、と飛んできた。え、と思う間もなかった。離すな、という命令を、俺の脳みそは忠実に実行した。必死で抱える。


 その瞬間、目の前に弾けた青白い光ほど強烈な陽炎を、後にも先にも、俺は見たことがない。


 あれは、迸りや奔流なんてものじゃない、爆発だ。

 両腕に柔らかい物体を抱えたまま、青白い爆発に巻き込まれた俺の体は、真後ろに吹っ飛んだ。


「ぎゃっ」って声がして、視界の端でヘザー・カマユー卿が吹っ飛んで行く。近くにいた浅葱色の騎士たちも、お腹の突き出た燕尾服の紳士も、優雅なドレスを着た貴婦人も、みんな、飛んで行く。


 あ、ダメだこれ、死ぬかも。


 スローモーションみたいに、青空が流れた。俺の体は、永遠かってくらい長いこと滑空したあと、背中から芝生の上に着地した。


 ずざざざざーーっと、後ろ向きに滑る。滑りまくる。あっつい! 背中あっつい! 燃えてる!! 焦げる!! ぜんぜん止まらない! 両腕に抱えた謎の物体は、意地でも離さなかった。

 俺の頭部は、低木にずぼっと突き刺さった。ようやく止まった。



 ――……………生きてるうぅ!



「…………い、いってえーっ!!」


 呻きながら、俺は植え込みに刺さった顔をそろそろと抜いた。小枝の擦れた顔面がぴりぴりするし、口の中はめっちゃ鉄の味がする。


 まず、両腕の中の物体を確認した。今度こそ、心臓が止まって死ぬかと思った。


「レディ・ブランシュ!? レディ・リリアーナ!?」


 俺が両腕にそれぞれ抱えていたのは、血の気が失せ、白い顔をしたロンサール姉妹だった。


「だっ、大丈夫ですか!? 怪我は!?」


 途中で落とさなくて、マジで良かった! 俺、偉い!!


 這うように起き上がるリリアーナは、俺を見もしなかった。「大丈夫? ありがとう、メイアンさん。助かったわ」とか言ってくれるかと思ったのに。


「………アナベル………」


 リリアーナの紫色の唇が、小刻みに震えている。


 視線の先、バルコニーの真下。

 さっきまで俺たちが立っていて、たくさん人がいたところは、ぽっかり空間が出来ていた。


 吹き飛ばされた浅葱の騎士たちは、俺より一足早く起き上がっていた。乱れた髪もそのままに、呆然としている。

 同じく吹っ飛ばされた紳士や貴婦人は、ちょうど近くの騎士に助け起こされているところだ。


 ぽっかり空いた円の中心に、アナベルがいた。


 銀色の髪がきらきら光っていて、遠目にも濡れているのがわかった。

 さっきの水滴を、まともに浴びたんだ。


 アナベルは、両手で目の辺りを押さえて、外回廊の白い大理石の上に小さく座り込んでいた。ちっとも動かない。


 二階のバルコニーから、光る何かが、踞るアナベルのすぐ傍に落ちた。


 大理石に触れた瞬間、それは、ぱりん、と大きく弾け飛んだ。

 足元に飛んできた破片の一部を一瞥し、浅葱の騎士が顔色を変える。



「――……緑礬油りょくばんゆだ!」



 え……? 緑礬油りょくばんゆ

 それって、王立病院の研究室から盗まれたっていう、劇薬じゃ……。



「……アナベル……嘘でしょ……」



 リリアーナが、よろよろと立ち上がってアナベルの方に行きかけたから、俺は腕に力を込めて引き留めた。


 だって、『死んでも離すな』って、アナベルに言われたんだ……!


 

 

 


 

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