第87話 聖なる人(イザーク・メイアン視点)

「レイモンド、レイモンド、レイモンド……!」


 マーク・エッケナーに縋り付いたエレノアは、繰り返しそう呼んだ。

 そうしないと、目の前の男が泡になって溶け消えてしまうとでも思っているみたいに。


 ディクソン公爵は呆けたように、そんな二人を見つめている。


 隣に立つ――もちろん、副団長の言い付けを守り、俺がぴったり張り付いている――リリアーナも、さらに向こうに立つアナベルも、野次馬もバルコニー上の立て籠もり犯も令嬢もその父親たちも、誰もが息を詰めて見守っている。


「…………偉かったわね……レイモンド」


 ここにはたくさん人がいるのに、辺りは水を打ったような静けさに包まれていた。

 マークの背中に腕を回したエレノアの、くぐもった声だけが響く。


「……よく、頑張ったわね……生きてた。ちゃんと、生きてた……えらいわ……えらい……レイモンド……」


「――………どうして……?」


 されるがままのマーク・エッケナーが唇を震わせ、傍らに佇むディクソン公爵へ視線を移す。


「どうしてです……? 僕……新聞で見たんです……王立図書館で調べた。二十年前……エレノア・ディクソン公爵夫人は、襲撃で受けた傷が元で亡くなった。――そう書いてあった。葬儀も、埋葬も、内々に済ませた――って。なのに……なんで……?」


 エレノアの全身を上から下まで何度も確かめるように凝視し、ディクソン公爵が応える。


「あ、ああ、確かに、……そうだ、お亡くなりに……そのはず……そう聞いた……でも、これは、この人は、……いや、一体……僕にも、何がなんだか」


 そして、はっとしたように顏を上げる。


「そっ、それより君! 今、この人が誰だと言った!? なぜわかる!? やっぱり君は――」


「わかるに決まっているわ」


 エレノアが顏を上げ、マーク・エッケナーの頬に手を伸ばす。そこにあるのを確かめるように触れながら、世界一優しい音楽のような声で言う。


「……一日も、忘れなかった。毎日想ってた。何年経とうと、一目でわかる。――レイモンド……よく頑張ったわね…………」


 息を呑む音が、そこかしこで起きた。

 ダーバーヴィルズ侯爵や、バルビエ侯爵、居並ぶ古参の貴族たちも。


「あ、あの、レイモンド……なのか?……ほ、ほんとうに?」

「……エレノア……ディクソン、公爵夫人まで? なぜ……まさか、そんな……」


 マーク・エッケナーは口を開けたり閉じたりして、エレノアを見ていた。


 やがて、ぐ、と嗚咽で咽喉を詰まらせたかと思うと、顏をくしゃりと歪ませる。


「…………お、お母さま……ごめんなさい――ごめん、ヒュー」


 ヒューバート・ディクソン公爵を「ヒュー」と呼んだマーク・エッケナーは、ヘーゼルの瞳にみるみる涙の膜を張る。


「ごめん、ごめんなさい。……ほら、左手の指、動かせないし、足も悪いんだ……煙突掃除でしくじって……。お母さまの好きなピアノ……『雨の日のフォアシュピール』も、もう弾けない……こんな僕を助けてくれて、お世話になった人もいる。……いまさら、もう戻れないんだよ……っ!」


 言い終わると、燕尾服の袖でぐしぐしと乱暴に目元を拭う。


 ざわわっ――と古参の貴族たちがどよめいた。


 ――レイモンド……?


 ――レイモンド・ディクソンなのか。


 ――エレノア・ブルソール・ディクソンも。


 生きていた? 見つかった。帰ってきた。ああ間違いない。ご令息の面影が。ブルソール国務卿の真の後継者。王家に次ぐ、高貴なる血統。なんてことだ―――――。



「あなたの好きにすればいいわ」


 エレノアは、泣きながらさっぱりと笑った。


「わたくしの願いは、ただひとつ。――生きていてくれたら、他には何も望まない。とうの昔、そう決めたの」


 棒切れみたいに痩せていて、干しあんずみたいに皺だらけで、真っ白な髪はパサパサに乾いている。

 だけどその人は、なぜだか聖母のように神々しく、美しく見えた。


「あなたはあなたの人生を、幸せに生きたらいい」


 きっぱりと言い切ったエレノアの顏を見つめ返し、マーク・エッケナーが息を呑んだ。


「お母様……」

「……レイモンド」


「――そうはいかない」


 と、再会を愛おしむ二人に割って入ったのは、当の二人を引き合わせたとも言える、ディクソン公爵その人である。


「こうして王宮まで来てもらったのは、他でもない――」


 真剣な口調で、ディクソン公爵は続ける。


「レイモンド、君に返したいんだ。……ディクソン公爵位、屋敷、領地、枢密顧問官の役職、深緑の騎士たち――。僕の持つものすべて、今日から君のものだ」


「ええっ!」


 マーク・エッケナーは叫んだ。


「いらない!」


 顔色はもはや、青を通り越して白い。


「断固辞退する! 僕は五つから孤児として、最下層を這いずり回っていたんだぞ! 『マーク』として二十年も生きた! 今さら……今になって、公爵なんか務まるわけないだろ!」


 ヒューバート・ディクソン公爵は、ふるりと口端を震わせた。


「――はは……それでも、僕よりはずっとマシだ」


 寂しげに笑って、ころんと肩を落とす。


「社交界での僕の呼び名、知っているかい? 『豚』と――それから『木偶の坊』だ。最悪だよね?

 枢密顧問からメイドにいたるまで、皆が言ってる。『あの豚は公爵の器じゃない』『ディクソン公爵家は、あの木偶の坊の代で潰れる』『気の毒に、国務卿は後継者に恵まれなかった』ってね。

 なにより、一番最悪なのは――」


「ヒュー……」


 ディクソン公爵が自嘲気味に頬を歪めると、ホイップクリームをつついたような窪みができた。


「――それが全部、真実ほんとうってことを、誰よりも僕自身が知ってるってことだ」


 しん――とまた、辺りが静まった。

 一拍置いて慌てたように、マーク・エッケナーが口を開く。


「っいや、ヒュー、そんなことないだろ、君は昔から優秀だったもの――ほら、家庭教師の……ええと、ほら、名前は忘れたけど、白い口髭を生やした、あの……『リア王』のフレーズをやたら引用する先生。君のことをいつも褒めて――」


「いいよ……レイモンド。もういいんだ。これで良かった」


 まあるい肩を落としたまま、ディクソン公爵は今度はいっそ、晴れやかに微笑んだ。


「君が生きていてくれて、嬉しい。心からそう思ってる。叔母上も、何がなんだかさっぱりわからないけれど、ご無事で良かった」


 マーク・エッケナーは今度は赤い顔をして、泣き出しそうな声を出す。

 

「む……無理だよ……」


 いいや――と首を振った人の見た目は、良く言ってシュークリーム。

 だけど不思議なことになぜか、人々に分け与えすぎて全てを失くし、最期は神の御心によって星座に列されたという、無欲で高潔な聖人のように映った。


「レイモンド、叔母上、僕が衰えさせてしまったディクソン公爵家を、どうかお二人の力で盛り返してください」


 ああこの優しい人は、柔らかな心を持っているんだ。


 消えてしまったレイモンドの身代わりとして、凍えるような高位貴族社会に、たった独りで放り込まれた人。

 親元からも生まれ育った土地からも引き離された幼いあの人を、誰も愛さなかった。

 誰も、慈しまなかった。

 誰も、味方をしなかった。

 けれど――――


「これでようやく、肩の荷が下せる……」


 心ない陰口にずっと傷つけられ、けれど、その身に背負った重責から、逃げ出すこともしなかった人。


 あたかも鈍重な人間のように振る舞い、不愛想な仮面を被りながら、ここまで耐えてきた。


 いつか、大好きだった従弟が帰ってきたとき、預かりものを全部、返せるように。


「大丈夫、正統な後継者でありながら、誰よりも苦労してきた君に、誰も文句なんか言えるもんか! 残念ながら、僕は役立たずの『木偶の坊』だったけれど……ディクソン公爵家に仕えてくれている人たちは……家令も執事も騎士も侍女もメイドも、皆、最高で素晴らしい人たちなんだ。彼らのお陰で、こんな僕でもなんとかやって来れた……彼らも、君の力になってくれるだろう……」


 ぐ――と圧し殺すような声が聞こえて見ると、後ろに下がった深緑の騎士たちが揃って静かに落涙していた。


「か、閣下……わ、我々は、閣下にお仕えできた幸運を、生涯忘れません……っ」

「お、お許しいただけるなら、せめて数名だけでも、今後も、閣下と共に……っ」


 頭を上げたディクソン公爵は、木洩れ日のように穏やかに笑った。

 内面の美しさを鏡のように映しだす、肉に埋もれたヘーゼルの瞳がきらきら光っている。


「嫌われ者の僕に仕えてくれて、ありがとう。爵位をレイモンドに返した暁には、僕は兄の領地に帰るつもりだ。三男坊は三男坊らしく、市井で慎ましく生きることにする。

 だから、誰も、連れて行けない。これからは、レイモンドにその忠誠を捧げてほしい。……僕からの最後の頼みだよ……どうか、君らも健やかに」


 深緑の騎士に向かって、再び低く頭を垂れるディクソン公爵。

 深緑の騎士たちは、ほとんど目と同じ幅の涙をどばーっと流し始めた。精悍な肩が揺れている。


 いや、彼らだけじゃない。


 そこかしこで、啜り泣きが起きていた。

 隣のリリアーナは澄んだ瞳を潤ませているし、意外なことにダーバーヴィルズ侯爵やバルビエ侯爵ら、古参貴族たちすら唇を噛み締めている。


『鵺』『冷血』『二枚舌』『物の怪』と揶揄される権力者たち――。

 この人たちはもしかしたら、今よりずっと若い頃、レイモンドの亡くなったお父さんと友達だったのかもしれない。俺の想像に過ぎないけれど。


 ノワゼット公爵もまた、口許を手で覆うと、微かに肩を震わせた。


「――…………ディ、ディクソン公爵家、みんなしてメンタルよわっ……」


 この人! 本物の人でなしだ!

 愕然とする俺の前で、ロンサール伯爵が素早く動いた。


「っ…いったっ! な、何するんだ! 伯爵っ!」


 すかさずノワゼット公爵の脇腹にチョップをかましたロンサール伯爵が、麗しい天使の微笑をノワゼット公爵に向ける。


「失礼、手が滑りました。しかしですね――第二騎士団にますます人が集まらずますます皺寄せがきてますます多忙になり、ブランシュと過ごす時間をますます減らしたくなかったら、一旦その口を閉じておきましょうか?」


 ノワゼット公爵はぱちぱちと瞬く。


「う、うん。わ、わかった……」

「良かった」


 温厚質実を具象化したようなロンサール伯爵の笑みはたまに、軍神マルスさながらの迫力を醸すときがある。

 この二人の力関係もまったくの謎だけれども、この伯爵の機嫌だけは損ねないようにしよう。


「――僕は今、過去のいざこざはすべて水に流し、ヒューバート・ディクソン公爵の幸せを祈りたい気分なんですよ」


 と、ロンサール伯爵は穏やかに目を細めた。


「――……マージョリー」


 軍神マルスの応援を得たとは露も知らない聖人ディクソン公爵は、三階バルコニーに向かって、そっと右手を差し出している。

 ふくよかな顔に浮かぶのは、どこまでも凪いだ、果てなき愛を内包した微笑だ。


「君を、心から愛してる」


「…………っ」


 レディ・マージョリーは、唇を引き結んでディクソン公爵を見下ろしていた。

 強い衝動を堪えるように、きゅ、と細い眉が寄っている。


 悲しみと寂寥が、俺の、いやこの場にいるすべての人々の胸を満たしてゆく。


 ヒューバート・ディクソン公爵は、爵位から退き、ただの人となる。


 平民と、侯爵令嬢。


 ――愛し合う二人の間を阻むものは、三階と庭園という今の距離よりも、ずっとずっと大きい――――。


「……だけど、婚約できない……」


 ディクソン公爵の声は、切なく、悲しく、静かな庭園に響いた。


 レディ・マージョリーが、深く長い息をつき、胸を押さえる。

 レディ・コンスタンスらが、励ますようにその背を支えていた。


「君の幸せを、祈るよ。君が笑っていてくれさえすれば、僕にとってそれ以上の幸福はない。どこにいても、ただ、君の幸福だけを祈る」


「……ディクソン公爵様……」


 レディ・マージョリーの声は、震えていた。


「――……あのぅ、少し、よろしいでしょうか?」


 隣に立つリリアーナが、おっとりと割り込んだ。



 

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