第85話 交渉(イザーク・メイアン視点)

「――交渉は、後まわしっ! ぜえ……まず、人質交代っ! 僕が、そっちに行く! ひい、ひと、人質に、立候補するっ!」


「ディ、ディクソン公爵様……?」


 妙な間が、周囲に満ちた。

 殺気交じりの陽炎を立ち上らせていた浅葱の騎士たちが動きを止め、真顔でディクソン公爵を注視する。


 よっぽど急いで駆け付けたのだろう。

 肩で息をするヒューバート・ディクソン公爵の額には、だくだくと汗が流れていた。

 マシュマロみたいにふっくらした顔は赤らみ、溶けかけた苺のアイスみたいだ。



「…………………はい?」


 固まっていたレディ・コンスタンスが、ようやく動いた。手摺に身を寄せる。


「ディ、ディクソン公爵様? ど、どういう意味です?」


 汗を吸い過ぎて色が変わったホワイトタイの締まる、窮屈そうな襟元を緩めながら、ディクソン公爵はバルコニーを見上げた。


「そのままの意味です」ディクソン公爵は真剣に眉を寄せ、きっぱりと言う。


「今からそちらに行きます。交代しましょう」


 ダーバーヴィルズ侯爵ら、令嬢たちの父親が、縋るような眼差しでディクソン公爵を見た。


「ディクソン公爵…………閣下は、まさか、娘たちを助けるために……?」

「あ、あなたって人は……」


「う、嘘でしょう!?」とレディ・コンスタンスが叫び、

「一方的すぎるわ!」とレディ・ビアンカが首を振る。

「却下です!」とレディ・デリアが扇を握り締めた。


「交代しません!」


 そう断じたのは、レディ・マージョリーだ。


「任された仕事を、途中で投げ出す? 嫌です。わたくしたちは協力し合って、最後まで人質をやり遂げますっ」


 宮殿に進めかけていた足を、ディクソン公爵はひたと止めた。

 首を大きく曲げて、気が強そうな瑠璃の瞳を光らせるレディ・マージョリーに、安堵したような、優しい眼差しを向ける。


「…………君は、責任感が強くって、誰よりも優しいね。大丈夫だよ。犯人たちは断らない。なぜなら、僕は枢密顧問官で、こんなでも、一応は公爵なんだから。

 彼らが何を要求するにしろ、これより価値のある人質はいない。唯一欠点があるとすれば男ってことだけど……僕は抵抗しない。約束する。僕はめちゃくちゃ弱い。そこらへんの女性より絶対的に弱い。見ろ、この、ふにふにの白い手を。スプーンより重いものは持ったことがないと、断言できる!」


 毅然と胸を張り、ディクソン公爵はクリームパンのような両手を犯人たちに向けて突き上げた。


「…………は?」と令嬢たちが目を丸くする。


 いつの間にか、辺りは静かで深い感銘に包まれていた。

 豚公爵……すごいな。見直した。女性を守るために我が身を差し出すなんて、普通できることじゃない。本物の紳士だったのね。相手はあの修道士の頭巾党モンクスフードだっていうのに。彼は命を捨てるつもりなんだわ――――。


 パチパチ。まばらに、拍手が起き始める。


「ディクソン公爵様……なんて立派な……」


 思わず胸を押さえて、俺は呻くように言った。

 相手は冷酷極まる犯罪集団。

 あの聖人のようなお姿を拝見するのは、これが最後になってしまうかもしれない。

 迷いのない足取りで宮殿に向かう、男気溢れる広い背中。


 知らず、胸中に誇りと憧憬と悲嘆と苛立ちが、ないまぜとなって溢れた。

 かつて、お茶をご馳走になり、誤解が解けた日が甦る。俺たちを罰せず、見逃してくれた。優しく、寛容な人。

 目頭が熱くなる。しっかりしろ、視界を滲ませている場合かよ。焼き付けるんだ。あの人の後ろ姿を――――。


 そう言えば、リリアーナはディクソン公爵と親しかった。

 さぞ心痛なことだろう。見ると、ロンサール姉妹は大きな目をまあるくして、両手で薔薇色の頬を覆っていた。


「あらまあ、なんてこと……ピンチね」

「大変です……大ピンチです……」


 団長と副団長、ロンサール伯爵も心配そうに頷いている。


 パチパチ――儚く散りかけた命の火花のように、まばらに鳴り続ける拍手。


 バルコニー上で、人質令嬢たちは感激のあまりか、言葉を失っていた。

 はっとしたように、全員が手摺から身を乗り出す。


「こ、心から、お断りします!」

「来ないでください!」

「だって、ほら……危ないでしょう!? 公爵様がお怪我でもされたら、どうするんです!」


 誰だって、自分の命は惜しい。

 けれど、他人を犠牲にしてもいいものか――令嬢たちは葛藤に苛まれ、素直に喜ぶことができないでいるのだろう。


 自らの命が危機に晒されているというのに、ディクソン公爵を気遣う言葉までかけようとする心正しき令嬢たちを、ディクソン公爵は穏やかな眼差しで見上げた。


「心配しないでいいからね。君たちは、何も悪くない。百パーセント無辜の被害者だ」

「え……ちが」


「責任を感じる必要はない。この命の責任は、僕だけが負う。これは、僕が自分で決めたことだから。……君たちには、嫌なことは全部忘れて、前を向いて幸せになってほしい」

「え、えええ……」


 ディクソン公爵の覚悟の大きさに感極まったのか、令嬢たちは青ざめる。

 拍手は、一層大きく響きはじめた。


 なんて尊い精神だ。この辛いばかりの世の中に、こんな人がいるなんて。人間は捨てたものじゃなかった。ハンカチで涙を拭う貴婦人もいる。

 ゆっくり、しかし力強く、ディクソン公爵は宮殿に向けて足を進めてゆく。


「ちょ、待っ」

「来ないでったら!」

「は、犯人の皆さまからも! 何とか仰って!!」


 令嬢たちが、犯人を振り仰いだ。

 不穏に佇む五人の冷酷な修道士の頭巾党モンクスフードメンバーが、汚れた布を巻いた不気味な顏を見合わせ、視線を交わす。


 その場の空気が、一瞬で凍てつく。


 ――そうだった。


 修道士の頭巾党モンクスフード

 冷酷な人非人にんぴにん

 奴らは、この事態をどう受け止めている? もし怒らせたら――。


 苛立ちにまかせ、無抵抗なディクソン公爵を無慈悲に撃ち殺す――可能性は高い。


 人々が固唾を呑んで見守る中、立て籠もり犯たちがすらりと音もなく前に出てきた。

 まったくおかしなことに、まるで令嬢を危機ピンチから救わんとする騎士っぽい動きにも見えた。

 ディクソン公爵を悠然と見下ろす。


「勝手なことをされては困ります。人質の交換はしません。それ以上近づかないように。ディクソン公爵」


 布越しでくぐもっているけれど、意外にも知性を感じる落ち着いた男の声だった。


「あの声……二十代ですかね」と俺が呟くと「うわぁ……」と背後でうんざりした声が上がった。


 振り返ると、『レオン』と呼ばれていた国務卿の護衛騎士が額を押さえている。


「だめだ。ほぼ素だ。完全に配置ミスだ」

「入り込みと工夫が全然足りねえ! もっとうまくれ!」


『オウミ』と呼ばれていた騎士が意味不明に毒づく。


 威風堂々、胸を張ったディクソン公爵が、少しも怯まず落ち着いた声で返す。


「なぜだね? そちらにとっても、利益の多い申し出だ。多すぎる人質は、足手纏いになる。僕一人で充分だろう。

 さらに、金品か、恩赦か、逃亡経路か――何にしろ、君らの要求を満たすために、枢密顧問官たる僕には、前向きに交渉に応じる用意がある。――どうか頼む」


 言い終わったディクソン公爵が、深く頭を垂れた。


「…………ええ? え、えーと」


 深々と下げられた公爵の後頭部に、立て籠り犯たちは怯んだように足を引く。


「それはその、そう、……敢えて言うなら、信用できない? その上等の燕尾服の下に、銃や爆発物を隠していないという保証はないでしょう? 何を言われても、人質の交換はしません」


「……たしかに、保証はない。しかし、信じてもらうしか道はない。信用を得るためなら、この場でこの指を切り落とそう。この首だって賭けられる。そちらに行って、すっ裸になるのはどうだ。嘘だったら殺してくれて構わない。どうか、どうか、頼む」


「いや指とか絶対いらないし!!」

「裸もいらない!」


 ディクソン公爵はさらに低く叩頭し、立て籠もり犯たちは天を仰ぐ。


 が、不思議なことに気が付いた。


「犯人たち、なんで令嬢たちを傷付けないんですかね? 気に食わないなら、死なない程度に切りつけたらいい。そうしたら、ディクソン公爵は退くしかない。……もしかして、もしかしたら、あいつら、けっこう」


 ――話の通じる奴らなんじゃ、と続ける前に、『レオン』『オウミ』という二人がもどかしげに呻く。


「絶望的な展開だ……まさか、頭を下げるとは」

「頭を下げる人間に、あいつらが強く出られるはずがないんだ……」


「すごくまずいんじゃない」とアナベルが無表情にバルコニーを指差した。

「主導権はもう、ディクソン公爵の手にあるもの」


 バルコニー上では、犯人が必死にディクソン公爵を説得していた。


「いや、本当に、来ても無駄だし。ドアはバリケードで塞いじゃったし」


 恫喝というより、頼みこむような響きで、立て籠もり犯は言う。


「ドアが無理なら、暖炉からお邪魔させてもらおう」


「だっ、暖炉……!?」


 立て籠もり犯がひきつった声を上げ、「そんな!」「まさか!」と人質令嬢たちが悲鳴を上げた。


「絶対にやめてください!」

「そのお身体で、通れるわけがないでしょう!?」

「危険すぎます!」

「死んでしまいますわ!」


「――本望だ」


 穏やかに、凪いだ微笑を浮かべるディクソン公爵。死を恐れぬ者の声だった。


 ――どうせ、行き先は神の御元。


 正義に殉じんとする聖人に、これ以上、誰が何を言えるだろう。


「俺……知ってます。……知っているんです。入り口は大きくても、煙道ってのは、途中から細く狭くなる。ディクソン公爵のあの身体が、通れるわけない。――詰まって、詰まって……うっ」


 あの場所は、暗くて、狭くて、独りで、地獄だった。

 胸が、苦しい。

 俺の湿った声は、大きな叫び声に遮られた。


「ああもうだめ! 見ていられない!!」


 叫んだのはレディ・ブランシュだ。


「親友たちがピンチだわ。助けに行くわよ! アラン! リリアーナ! お従兄様!」


「え、うん」

「え? ええ? は、はい!」

「了解」


 失礼、ちょっと失礼、あら、ごめんなさい、ごきげんよう、ちょっと通してくださる? 

 レディ・ブランシュが愛らしく小首を傾げるだけで、人混みはモーセの海割りのように左右に分かれて行く。


 後に続いて気が付くと、ぽっかりと視界が開けていた。最前列に出たらしい。


 レディ・ブランシュが前に歩み出る。

 途端に、周囲の視線のすべてが、レデイ・ブランシュに惹き寄せられたのがわかった。

 

 見て、レディ・ブランシュだわ。すごい美女オーラね。今日も月の女神のよう。

 囁き合う声と溜め息が、人混みから漏れる。


 それはそう、圧倒的な美――――。


 すっくと優美に佇み、完璧な黄金律の碧眼を細めて、レディ・ブランシュは魅惑的な唇を開いた。


「ディクソン公爵様」


「? ……レディ・ブランシュ? ――あ、体調は大丈夫だったかい? 昼餐会ではずいぶんと」


「ええ、もうすっかり良くなりました。こうして生きてここにいられるのは、いち早くお声を掛けてくださったディクソン公爵さまのおかげ。並の人間に出来る親切ではございません。正真正銘、命の恩人ですわ。感謝のしようもございません」


 レディ・ブランシュが美しい所作で礼をすると、聴衆がざわめいた。


 聞いたか? ディクソン公爵は、ブランシュ・ロンサールの命も助けたって? まあ、知らなかった。能ある鷹は爪を隠す、ね。それほどの大人物だったとは――


「え? ええ? いや、そんな、礼を言われるほどの――」


「ついては、大恩ある公爵様に、僅かなりともご恩を返せれば、と思った次第でごさいます」


 レディ・ブランシュは、月光の下で咲き開く大輪の白薔薇のように微笑んだ。


「ディクソン公爵様は、このローゼンダール王国に絶対必要なお方――こんなところで失うわけには参りません。国家の、いえ、人類全体の損失です」


「ええ!? いや、そんなことはまったく」


「ふふ、あらいやだご謙遜を。そういうわけですから、代わりの人質には、不肖ながら、このわたくしが立候補いたしますわ」


「ええええ!?」と俺は叫んだ。


「な、何を!? 馬鹿な! めちゃくちゃだ! そんなこと! 団長閣下が許すわけが――」


 しかし、ノワゼット公爵は瞳を輝かせた。


「ブランシュはやっぱり面白いなあ。最高だ」


 愛おしげに目を細めている。だめだ。この人、やっぱり理解不能だ。


「はあ!? レディを人質に差し出す? ありえない、そんなこと、」


 すごく真っ当なことを、ディクソン公爵が吐き出すように言う。


 レディ・ブランシュは凛然と、女神のように微笑んだ。いや、顎を上げて自信に満ちたその姿は、どこから見ても完璧だった。本物の女神なのかもしれない。

 レディ・ブランシュの声は穏やかで、綺麗で、聞いているとふわふわした。雲の上にいるみたいに心地好い。


 一瞬にして、皆が理解していた。

 場の主導権は、もうレディ・ブランシュのものだ。


「いいえ、あり得ます。わたくしは、コンスタンス、デリア、ビアンカ、そしてマージョリーの友人。そして、ディクソン公爵様はわたくしの命の恩人。わたくしが向こうに行くことは、普通に自然でよくありがちなことです」


 そうかな? そうなのかもしれない――と思う。レディ・ブランシュがそう言うんだから、そうなのかも。いや、きっとそうなんだ。

 ディクソン公爵も聴衆も揃って、「そうかも?」みたいな顔をしている。


「そもそも逆に、ディクソン公爵様こそ変です。そこまでしてわたくしの親友を助ける道理が果たして――」


「え、いやそれは、愛しているからなんだけど」


「はい?」


「僕は、マージョリーを、愛しているんだ」


 あっさりと、まるで「今日はいい天気ですね」と挨拶を交わすみたいな調子で、ディクソン公爵は言った。


「まあ!」とレディ・ブランシュが両手で口を覆い、「やっぱり!」とリリアーナが両手で可愛くガッツポーズをする。


「え……? えええっっ!!」とバルコニー上でレディ・マージョリーがすっとんきょうな声を上げた。


「マージョリーは僕の命だから。マージョリーのためなら、この命なんかもういらない」


 バルコニーを見上げて、ディクソン公爵は淡々と言う。

 その姿は朴訥で純真で、紛い物でない聖人にしか見えなくて、無性に胸が打たれた。


 ぽかんと目と口を開けていたレディ・マージョリーの顔が、みるみる薔薇色に染まってゆく。やがて、か細く、震える声で応える。


「わ、わたしも……っ!」


「ええっ!?」とダーバーヴィルズ公爵が叫ぶ。今日はみんな、叫んでばかりだ。


 バルコニーから、きゃーっと黄色い歓声が上がった。


「なんてロマンチックなの!」

「想定外だけど素敵すぎる!」

「おめでとう! マージョリー! 花嫁介添え人ブライズメイドはわたしたちよね!? そうだと言って!」


 人質令嬢たちがレディ・マージョリーをぎゅうぎゅう挟んで抱きしめている。


 想いが通じたというのに、やるせない顔つきで、ディクソン公爵はその様子を見ていた。

 ひとつ息を吐き、視線を逸らすと、レディ・ブランシュに向き直る。


「そんなわけで、僕には人質になる資格があると思うんだ。逆に、僕より適任はいないんじゃないかな」


 レディ・ブランシュが頬を赤くする。


「……え? ええ、ええ。確かに。いえでも、どうしましょう? そういうことなら、でも、困ったわ、やだ、わたくしったら、こんなつもりじゃ。とんだ邪魔者になっているんじゃ」


「いや、普通にだめですからね」


 呆れたような声に、レディ・ブランシュの葛藤は遮られた。

 声の主は、浅葱の騎士だった。

 ずらっと並ぶ浅葱の中から、一人が一歩前に出てくる。

 ブロンドの、きりりとした顔つきの女性騎士だ。何処かで会ったっけ? 明らかな既視感。


「あら、ヘザー・カマユー卿、今日も素敵ね。ごきげんよう」


 とレディ・ブランシュが言った。ぴくっとアナベルの肩が揺れる。


 ――トマス・カマユー卿の、お姉さん?


 そう思って見ると、面差しがよく似ていた。


「どうも。あのね、盛り上がってるとこ申し訳ないけれど、レディ・ブランシュはもちろん、ディクソン公爵閣下もだめです。行かせるわけないでしょう? 犠牲が増える確率の方が高いもの」


 浅葱の騎士たちは、いつの間にか殺気立つ陽炎を引っ込めている。柄も握っていない。

 代わりに腰に手を当て、揃って胡乱な眼差しを俺たち黒鷹の制服に向けていた。

 空色の瞳が、強く眇められる。


「ここ左ファザードは、公式に我々の管轄で、この現場は、正式に第三のものです。以上を踏まえた上で、何か御用ですか? ノワゼット公爵閣下」


 言い方に明らかにトゲがある。

 王宮騎士団同士は、なんでか仲が悪いのだ。理由は以前、先輩たちが五百年前の因縁にまで遡って詳しく説明してくれたけれど、俺の頭ではよくわからなかった。

 とにかくノワゼット公爵は、他の騎士団から蛇のように嫌われている。


「べっつにー」とノワゼット公爵は清々しくも爽やかに笑った。


「見物に来ただけ。ずいぶん手こずってるようだね? 第二うちが引き継いでやろうか? ジェフリーも逃げ出したみたいだし」


 浅葱の騎士たちが噛みつきそうな勢いでぎりっと奥歯を鳴らした。


「はあ? 結構です!! 我々だけで解決できますからっ」

「極めて順調に、すべて予定どおり進捗していますっ」

「ハミルトン団長は、陛下をお守りするという責任ある重要な大任に就いていらっしゃるんですっ!」


 くくく、とノワゼット公爵は肩を揺らす。


「へえー、ジェフリーのやつ、てっきり怖じ気付いて――」


「あのう」とおっとりした声が上がった。


 振り向くと案の上、リリアーナだった。

 申し訳なさそうに細い眉を下げ、所在なさげに小さく片手を上げている。


「あの……お話中にごめんなさい――」


 ぺこりと頭を下げる。

「まあ誰? なんて綺麗な子」という溜め息交じりの声が、野次馬の中から聞こえる。


 浅葱の騎士たちが、ぽかんとリリアーナに釘付けになったのがわかった。


「そのぅ……いかがでしょう? ここはディクソン公爵様とブランシュの間を取って、レクター・ウェイン卿が人質として赴く、というのは……?」


「はああ!?」と俺は叫んだ。ほんともう、今日はずっと叫んでばかりだ。


「いや、おかしすぎるでしょ! 間ってなんです!? 意味分かって言ってます!?」


 リリアーナは確かにめちゃくちゃ可愛いけど、天然にも程がある。そこがまた可愛くもあるけど、まさか、ここまでひどいとは。


 叱られた子どものようにしゅんと肩を落として、リリアーナは自信なさげに続ける。


「そうですよねぇ? ごめんなさい……だってほら、ウェイン卿なら、危険ってことも、犠牲が増えるってこともないでしょう? だって、すごく強いんですもの。人質になった上に、犯人も取り押さえられる。これぞ一石二鳥というか――」


 意味不明だ。どうしよう。どこから説明したらいい?


「あのですね、そんなの、犯人たちが受け入れるわけが、」


「よし!! それでいい!!――」


 バルコニー上の犯人が叫んだ。


「えええ!?」


 俺は愕然と上を向く。


 立て籠り犯の人差し指は、真っ直ぐにウェイン副団長を指差していた。


「交換しよう! 新しい人質は、レクター・ウェイン卿で!」


「基準がおかしいっ!」


 堪らず叫ぶ。変だ、いや、変なのは俺なのか? 俺が下層階級だから? 学がないから? 


 我が意を得たり――と言いたげに、リリアーナはにこにこ満足そうに頷いている。

 いやこれ絶対、俺は間違っていない。普通に考えて、第三の騎士たちだって黙っていないはず。


 ――しかし、ヘザー・カマユー卿は呆気にとられたようにリリアーナを見ていた。


「……黒髪、深い、漆黒の瞳。この世のものじゃないような……天使……まさか……まさか、貴女は……」


「あ、名乗りもせず、突然失礼いたしました。リリアーナ・ロンサールと申します。トマス・カマユー卿には、いつもお世話になっております」


 リリアーナが深々と頭を下げると、群衆の中からまた感嘆めいた溜め息が溢れた。

 浅葱の騎士たちの視線は、なぜかリリアーナに釘付けだ。


「ロンサール家の、伯爵令嬢……? ずっと? ほ、本当に? あの、失礼ですけれど、その昔、男爵邸のメイドをされていた、なんてわけ……ない、ですよねぇ……?」


 浅葱色の騎士たちは立て籠り犯の存在を忘れてしまったみたいに、リリアーナの顔をまじまじと見つめている。「マルラン男爵」「フランシーヌ」「似てる」とかいう呟きが、とぎれとぎれ聞こえる。


「ふふ。お見知りおきください。――こほん、そんなことより、おめでとうございます。ディクソン公爵様とレディ・マージョリー」


 バルコニー上では、令嬢たちがきゃっきゃっと人質らしからぬ声を上げている。

 潤んだ瑠璃色の瞳を瞬かせて、レディ・マージョリーが顔を輝かせていた。


「マージョリー……」


 呟いて、見上げるディクソン公爵の瞳は、うっすら水の膜で潤んでいた。


 人混みが囁く。

 ディクソン公爵家とダーバーヴィルズ侯爵家が縁組み?

 なかなかの大物同士だ。政略じゃなくて? いいんじゃない? 見て、レディ・マージョリー、とても嬉しそうだもの。帰ったら早速、両家に招待状を書かなくちゃ――――


 首を直角に曲げ、マージョリーと見つめ合うディクソン公爵に向けて、レディ・コンスタンス、レディ・デリア、レデイ・ビアンカの三人が興奮した様子で笑いかけた。


「ディクソン公爵様、晴れてご婚約ですわね!」

「おめでとうございます!」

「ビッグカップルの誕生ですわ……!」


 祝福の言葉を浴びるディクソン公爵は、なぜか唇を噛んだ。一瞬の後、辛そうに顔を歪める。


「いや……婚約はしない……」



「…………………はい?」


 バルコニー上の令嬢たち、それから庭園にいた貴婦人たちに至るまで全員、笑顔のままに固まる。

 ディクソン公爵は一語ずつ、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「……マージョリーとは、婚約、できないんだ……。僕は、どうしても」


「そんな馬鹿な! こんな夢のようなシチュエーションで告白しておいて、まさか非婚主義だとでもっ!?――」


 最も強く抗議したのは、浅葱の制服、ヘザー・カマユー卿だった。拳を振り上げる。


「――命よりも大事だけど、婚約はしないですって? 不誠実な! ちゃんと分かるように説明してもらわないと!」


 納得できない! と青筋を立てている。カマユー卿とお姉さんは、性格はまったく似ていないらしい。

 当のレデイ・マージョリーは、放心したように瞠目して固まっている。


 ディクソン公爵は深く長い息を吐き出した。疲れた様子で、ゆっくり首を横に振る。


「だけどこれは、悪いことじゃない。むしろ喜ばしいことなんだ。今から理由を説明するよ……マージョリー。そこから見ていてくれるかい?」


 ディクソン公爵が切ない眼差しをレディ・マージョリーに向けると、彼女は小さく頷いた。弾みで、瑠璃色の雫が一粒、こぼれ落ちる。


「理由は………そうだな。まずは、百聞は一見に如かずだ」


 ディクソン公爵が振り返る。

 ディクソン公爵家の忠実な護衛騎士――深緑の制服の一団が、ゆっくりと二つに割れた。


 深緑の壁の向こうから現れたのは、ヘーゼルの髪と瞳の男だった。


 上等の燕尾服を着ているけれど、着こなせてはいない。人のことは言えないけれど、虎の檻に紛れ込んだ猫みたいな違和感がある。

 実際、借りてきた猫のように落ち着かない様子で、辺りをそわそわと見回していた。


 ディクソン公爵が、男を掌で指し示した。



「彼の名前は、マーク・エッケナーさんと云うんだ――――」

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