第84話 バルコニー (イザーク・メイアン視点)

「あら、メイアンさん?」


 涼やかな声に、イザーク・メイアンは振り返った。


「あっ! レ、レディ・リリアーナ……!」


「まあ、やっぱり! 後ろ姿で、そうじゃないかと思いました」


 顏の前で両手を合わせたリリアーナが、にこやかにそう言い終わったのと、俺が「あっ」と最敬礼の体勢を取ったのはほぼ同時だった。長靴ちょうかが純白の砂利を弾く。


「――団長閣下っ! 副団長っ! お疲れさまですっ!!」


「うん」「ああ」


 リリアーナと一緒にいるノワゼット公爵とウェイン副団長が、軽く頷いて応えてくれる。  

 ルイーズ・オデイエ卿、シュロー・ラッド卿に、レディ・ブランシュやロンサール伯爵の姿もあった。一団はどこか得体の知れない大物オーラを放っていて、混雑の中にあってもぽっかりと浮かぶ月のように目立っている。


「お元気そうですねぇ、メイアンさん」


 おっとりと言うリリアーナは、顔を隠していない。さらさらと流れる黒髪。夜と星くずを絶妙なバランスで溶かしたみたいな瞳。白く透き通る肌。


 長身の銀髪、涼しい顔立ちのウェイン副団長と並ぶ姿は、すごくお似合いだった。

 良かった。俺の作戦、失敗して良かった。別れさせなくて、本当に良かった。


「メイアンさん、最近あまり屋敷でお見かけしないと思ったら、王宮にご栄転だそうですね。おめでとうございます」


「あ、は……はい。どうも……」


 口ごもり、頭裏に手を遣る。

 べつに栄転じゃないですよ—―とオデイエ卿あたりがはっきり言うかと思ったけれど、誰も何も言わなかった。


 気まずく視線を泳がせると、薄紅色の頬に手を当てたリリアーナが、おっとりと続ける。


「ですが、わたくしはメイアンさんがいらっしゃらないと、少し寂しいような気もいたします。ご多忙でしょうけれど、屋敷の方にお見えの際はまたお茶をご一緒してくださいね」


 ふふ、と天使の微笑を投げられた。

 肩を落とし「あ……はい。いや……はあ……」と口ごもる。


 ――ロンサール邸に行ける日なんか、来るのかなぁ……。


 ここのところ、俺は王宮の詰所で――他の従騎士に紛れ、待機、訓練、武具の手入れに騎馬の世話といった雑用に明け暮れている。

 副団長どころか、正騎士に声をかけられることすら、ほとんどなくなった。

 そもそも、普段のウェイン副団長はロンサール邸にいる時のように安らいだ眼をしていないし、私語もめちゃくちゃ少ない。というか、喋らない。


 左遷されてようやく、ロンサール邸の居心地の良さに気付いた。

 レディ・リリアーナの護衛だった俺は、すごく恵まれていた――それなのに。


 すぐ泣き出して、すぐ動転して……心身が未熟――そう思われてしまったのかなぁ……? それとも、まさか、例のハンカチの件を疑われてるってことは……………


「メイアン? 今は詰所にいるはずじゃない? あ、応援ー?」


 オデイエ卿に明るく問われて、内心の動揺を押し隠し、「はい! そうです!」と姿勢を正す。


「手の空いてる者は左ファザードに向かうようにって……でも、まさか……こんな……。ひどい状況ですね……」


 振り仰ぎながら呻く。

 命じられて駆けつけたものの、一目でわかった。俺みたいに経験不足の従騎士、手も足も出せない事態だ。


 三階バルコニー上には、立て籠もり犯。

 それに向かって、真下にいる第三騎士団の正騎士たちが怒号を上げている。


 さらにそれを取り囲む、固唾を呑んで見守る貴族たちと、多くの護衛騎士。

 寒さの増す季節だというのに、バルコニー周辺は人いきれに包まれていた。貴婦人たちの纏う香水だろうか――むっとするほど甘い香りが漂う。


「……立て籠りって……」


 犯人たちの目的が何にせよ、これは、紛うことなき世紀の大事件だ。

 ローゼンダール王国を照らす太陽神の末裔にして賢君、国王陛下のおわす都の中心。

 建国以来、何者にも侵されたことがないこの王宮は、この世で最も安全な場所だと信じられてきた。

 大陸最強と詠われる、三つの王宮騎士団が守る場所なのだから。そこに――――

 

 ――立て籠りだって?


 何が狙いにしても、これだけは言える。


 張り詰める空気。揺らぐ陽炎。立ち昇る殺気。犯人たちが、生きて外に出る道は閉ざされた。

 王宮騎士が、抜剣する。

 この神聖な王宮で。

 流血沙汰が起こるのだ。


「こんなことが、起こるなんて……!」


 ごくりと唾を飲みくだし、じとりと滲む額の汗を拭うと、ノワゼット公爵が爽やかな微笑を浮かべた。


「うちの従騎士ときたら、仕事熱心だなぁ。感心感心。でもほら見ろ、向こうはお祭りみたいに賑やかだ。手が足りないとは思えないね。ここは連中に任せて、高みの見物していればいいよ――あ、いい風が来た。こんだけ人が多いと、暑いくらいだね。アイスでも食べたい気分」


 吹いた風が公爵の髪を揺らすと、公爵は風上を向き心地良さそうに鳶色の目を細めた。


「は、はあ……」


 のんきだ。

 国王陛下の従弟。ということは、この人にも、太陽神に連なる血が流れている。王位継承権を持つ、救国の英雄。雲の上の存在。


 ――さすが……と言うより、


 理解不能だ。ちょっとこわい。


「エレノア夫人、ブランシュ、リリアーナ、女性陣はお疲れじゃありません? 椅子とお茶を運ばせましょうか?」


 ロンサール伯爵が日だまりのように微笑んで申し出た。秋の陽を浴びた金髪がキラキラしている。

 秀才で、仕事もできて、気遣いもできるそつのない貴公子。そして、やっぱりのんきだ。


 彼の美しい従姉妹たちは、にこやかに首を振る。


「大丈夫よ、お従兄様。立ち見で充分。あらほんと、涼しい風ー」

「わたしも平気です。風が吹くと良い香りがしますねぇ。ヒイラギかしら」

「おかまいなく。ロンサール伯爵」


「暑ければ扇ぎましょうか?」とウェイン副団長が甘く目を細めている。



 ……………………のんきだ。 


 戦場を経験したウェイン副団長や先輩騎士たちはともかくとして、ロンサール伯爵やレディたちまで、狂言劇を楽しむ観客のごとき落ち着きようじゃないか。


 ――これが『貴族の余裕』ってやつか。


 いけない。これだから下層階級出身は、と思われる。

 全力で駆けてきたのと緊張で、自身の息は荒いままだ。

 平静を装いたくて必死に息を整えてていると、リリアーナの隣に見知った顔があるのに気づく。


「あ……っ! アナベル……? その格好……まさか、今は王宮の侍女なんですか?」


 ほっそりした身体を包む紺色の上質な制服は、間違いなく王宮の専属侍女のものだ。アナベルは青い目を少し細めた。


「メイアン従騎士、お久しぶりですね」


「あ、はい……。どうも……」


 伯爵邸を逃げ出すように辞めたアナベル。

 あんなに条件の良いところをなんで? と訝しんでいたけれど、そうか。そういうことだったのか。

 アナベルの今の職場は、伯爵邸よりずっと格上。


 ――恵まれてんな。


 俺とは違う。


 この場にいる、良い服を着て良い暮らしをして、恐ろしく落ち着き払った人たち。

 神様に愛されて。

 高貴で金持ちで、食べるに困ったこともない。気紛れに殴られたことも、蹴られたこともない。


 美しく、優雅で、光を纏って、キラキラして――――。


 ふいに、自分が滅亡した星から地球にたどり着いた宇宙人みたいに、孤独で寄る辺ない異端な存在に思えた。


 ――なら……。


 やっぱり隠し通す。

 喉の奥に刺さった骨のように、心を重たくする鉛。RとWの刺繍。上質な白いハンカチ。


 レディ・リリアーナのハンカチを引き裂いたことがばれたら、副団長が、いや、オデイエ卿やキャリエール卿、ノワゼット公爵だって激怒する。詰られ、呆れられ、捨てられる。

 俺、魚の餌になるのかな。

 いや、さすがにそれは冗談にしても、ここにはもう居られない。

 ごみの溜まった沼底を這い回る虫みたいな暮らしに、戻ることになる。魚の餌になるのと、どっちがマシだろう。


 ――恵まれているくせに。


 ハンカチ一枚くらい、赦してくれたっていい。あんたたちにとっては、痛くも痒くもないだろ――――



「――――いい加減にしろっ!!」


 響く怒号に、自身の肩がぎくりと跳ね上がった。


 慌てて振り向くと、声の主は第三騎士団の年かさの正騎士だった。

 バルコニーに向かって野太い声を張り上げている。


「罪を重ねるな! いいかよく聞け、ここは完全に包囲されている! あきらめて投降しろ! 令嬢たちを解放するんだ!!」


 柄に手をかけた浅葱の騎士たちが大勢、バルコニーへと間合いを詰める。

 三階――少々高すぎるが、大木の枝や二階のバルコニーの手摺を足掛かりにして、駆け上がれないこともない。

 この人数なら、隙を見て制圧することも――――


 人質のコンスタンス・バルビエ侯爵令嬢が、白い手すりに手を掛け、前のめりに叫んだ。


「お下がりなさいっ! それ以上近づいたら、わたくしの命はないっ!!……と、犯人が仰っています」


「なっ……!?」と騎士たちが絶句する。


 バルコニーは遠いし高い。よくわからないけれど、令嬢たちはどうやら、犯人からの指示を脅されて無理やり言わされているらしい。気の毒に……。


 白い首筋に刃物を突き付けられたデリア・ビシャール伯爵令嬢が、のら犬を追っ払うみたいに扇をひらひらと振ると、扇飾りがキラキラ光った。


「犯人の要求通り、お下がりなさいませ! わたくし、断じて死にたくありませんからね。凶悪きわまる犯人を怒らせたら、わたくしを手ひどく傷つけるそうです。そこのあなた!! そうなったら、どうやって責任を取るおつもり!?」


 扇でピシッと指されたひとりの若い騎士が、えっ…! と息を呑んで青ざめた。屈強な騎士たちの腰が、一斉に引ける。


「断っておきますけれど――」


 白亜の手すりの前で顎をつんと上げているのは確か、ビカンカ・フォーティナイナー子爵令嬢。


「なめてもらっては困ります。こちらの犯人たちは、血も涙もないことでは右に出る者なき犯罪のエキスパート! 彼らこそ、犯罪界における重鎮にして大御所。――」


 数秒の間の後、令嬢はきっぱりと叫んだ。


修道士の頭巾党モンクスフードです!!」


「…………な!……なんだとっ!?」

「っ、そんな……!?」


 浅葱の騎士たちが青ざめる。


 野次馬たちが、どよめく。

 聞いたか? ああ、なんてことだ。もう、女性は見ないほうがいいんじゃないか。

 修道士の頭巾党モンクスフードがなぜ王宮に? さあね。なんにしてもその一員なら、人間にナイフを突き立てるくらいのこと、容易にやってのけるね。

 もっと下がろう。巻き込まれちゃたまらない。血がここまで噴き出すんじゃないか? やめて、怖い。

 なにしろ、あの修道士の頭巾党モンクスフードだ。やつらときたら、人の命は虫けらと同様と思ってる。ほら、例の、港湾地区で起きた、血なまぐさい連続事件があったろ。あれもどうやら――――。



 その悪名を知らない者が、この国、いやこの世界にいるだろうか。



 同じく人質のマージョリー・ダーバーヴィルズ侯爵令嬢が大きく頷いた。


「先ほど伺ったところによると、彼らが初めて犯罪に手を染めたのは、ヨチヨチ歩きを始めた頃でした――以来、殺人、放火、強盗、詐欺、ゆすりたかりに無銭飲食。欲望と本能の赴くままやりたい放題の人生。良心? もともとありません。倫理観? とっくに捨てました。道徳心? そんなものゴミです。乾かずとも盗泉の水を飲む。それが彼らの生きる道……!」


 言いながら、なんでかどこか得意げである。

 バルコニーに立つ冷酷な立て籠り犯は全部で五人。布で顔を覆っていてその表情はまったく読めないが、どうしてか揃って悄然と天を仰ぎ見ているように見える。


「まさか……! ど、どうします!? どうやって助けます!?……修道士の頭巾党モンクスフードだなんて……た、大変だ……!」


 振り向いて叫ぶ。

 人質の令嬢たちは、レディ・ブランシュとごく親しい間柄だったはず。


 優しく線の細い、天使のようなレディ・ブランシュ。気の毒に、ショックを受けて真っ青に――――


 だがしかし、レディ・ブランシュはどこまでも淑女レディだった。淑やかに、涼しげに、碧眼を細めている。


「うんうん、ヤバいヤバい。大変ねぇ。……ふ、うふ、うふふ」


「え?」


 その横でレディ・リリアーナが、華奢な肩を震わせる。


「……ふふっ、マージョリーったら。ふ、ふふっ」


 ――え!? この姉妹、笑ってんの!?


 愕然とする俺。

 笑いを堪えている姉妹。

「かわいいなあ」と言いたげな甘ったるい眼差しを注ぐ、団長、副団長と先輩騎士たちにロンサール伯爵。


 いや、おかしいだろ。

 美しい人質令嬢たちの命は、今まさにかき消されようとしている。

 銀の刃がほんの少し動くだけで、熟しすぎた柘榴の実が地面に落ちて弾けるみたいに、辺りは真っ赤に染まるのだ。

 それなのに、


 近くにいた紫紺の騎士――国務卿の専属騎士のはず――と、糸みたいな目の正騎士――先輩のはずだけれど、初めて会う――が、口を開いた。


「なんって悪そうな奴らなんだ。おいオウミ、見ろよ。あのナイフの持ち方、まったく隙がない。ただの破落戸じゃないなぁ。ありゃ無差別連続殺人鬼だろ」


「ああレオン、確かになぁ。あの凶悪そうな眼」


 へらへらと言って、可笑しそうに肩を竦める。アナベルも、ふっと唇を歪めた。


 ――こわい。

 人の不幸は蜜の味。貴族は冷たいと思っていた。だけどだけど、それにしたってあんまりだ。


 小さい頃からずっと、『死』は身近にあった。父ちゃんや母ちゃん、俺の家族が行ってしまった向こう側は、きっと安らかで、苦しみも飢えも暴力もなくて、みんなで笑って過ごしている。そう信じている。

 けれどそれでも、『死』を感じることは苦しい。それがまったく赤の他人のそれであったとしても、やっぱりすごく苦しい。

 何とかして助ける術があったんじゃないか。こちら側に繋ぎ止める術はなかったのか――。ああしていれば、こうしていれば。

 やるせない喪失感と無力感に苛まれ苦しむ――それが、普通の人間の反応じゃないのか!


「ふふ、ふ……!」

「くす、ふ、ふふふ」


 姉妹は可愛らしく目尻を下げている。

 ロンサール家の人間ときたら、揃いも揃って虫も殺さぬような顔して、果てしなく底が知れない。異星人は俺じゃない。こいつらだ!


 まじまじと見ていると、ぱちっとリリアーナと目が合った。

 ハッとした様子を見せたかと思うと、ばつが悪そうに、こほ、と小さな咳をした。


「その……ほら、ひどい事件です。ええ、ええ、まったくもう、ほんとに、ねえ。許せません」


 すごい棒読みで、わざとらしく眉をしかめて見せる。



「――た……っ、た頼むっっ!!!!」


 絶望的な声が聞こえ、向けた視線の先では、バルコニーの真下で男が大きく両手を広げていた。


「頼む! 頼む! 頼む! 頼む! うちの子は助けてくれ! その子は結婚を控えているんだ。可哀想じゃないか!? 可哀想だろ!? マージョリーだけは解放してくれ。そうすれば、私が」


「はああ? 何を言ってる!? ダーバーヴィルズ、こんな時まで卑劣な抜け駆けはどうかと思うが!? ――いや、しかし、人質は一人いれば充分だとも言える。ならば、コンスタンスを解放してくれ。その子は昔からすぐ風邪をひくんだ! 体が弱いんだよ!」


「うちの娘は、たかだか子爵令嬢だ! 人質としては物足りない! うちの子を解放してくれたら、代わりに望みの……望みの……あっ! 金か……金だろ!? 出す! 言い値を払ってやる! だから――」


「卑しい物言いはよさないか! まったくこれだから! これだから……そう、そうだ、……恩赦だ? 望みは仲間の恩赦だな? そうなんだろ? ならば掛け合う! 約束する! うちの子を解放してくれたなら、私は枢密顧問で、当家は建国以来の――」



「人質令嬢たちの父親だね!」遠巻きに見ていたノワゼット公爵が清々しく言った。


 最近、従騎士になった俺でも知っているくらいの、有名な侯爵に伯爵、大金持ち子爵。そうそうたる顔ぶれである。


 制止しようとする騎士たちの手を振り払うと、犯人たちに向かって盛んに訴えかけている。

 父親たちの両の目は血走り、丁寧にセットされていた髪は乱れ、高級なタイはだらしなく緩んでいた。


「お、お父様……?」


 人質の令嬢たちが困惑したように眉を寄せ、バルコニーの手すりから手を離す。


「まあ」と意外そうに、リリアーナが首を傾げた。


「おっ? リリアーナ、何か気付いた? いた? 怪しい奴――」


 ノワゼット公爵が鳶色の瞳を嬉しそうに輝かせる。


「――人を蔑むのが趣味みたいな澄ました連中が、揃いも揃って芝居がかって見えるほど狼狽えてる。変っちゃ変だよね? あの中にいそう?」


 あからさまに愉快そうに続けるノワゼット公爵。リリアーナは黙ったままじっとバルコニーの方を見て、訝しげに眉を寄せている。

 さっきロンサール伯爵から『エレノア夫人』と呼ばれていた王宮の侍女が、無表情に口を開いた。この侍女、ぎょっとするほどがりがりに痩せている。生者としての気配が薄い。幽霊みたいだ。


「変? 貴方も見る目がないわね。わたくしは変とは思わない。ダーバーヴィルズもバルビエも、そりゃ普通はああなるでしょう。子どもが危険に晒されたら、親なら誰だって、自分の心臓だって差し出すものよ」


 ノワゼット公爵にタメ口、侯爵を呼び捨てだと? 

 たかが侍女が?


 ひやりと固まる俺の他、しかし、その不遜さを誰も気に留めていない。


「そういうものですか?」とノワゼット公爵が姿勢を正し、首を傾げる。「すみません。僕はまだ子どもがいないから、気持ちがわかりませんでした」


 丁重に、軽く頭まで下げている。幽霊侍女が、ヘーゼルの瞳を細めた。


「貴方にも、そのうちわかるでしょうよ。アラン・ノワゼット」


 呼び捨てた! 

 あんぐりと口を開ける俺の前でしかし、ノワゼット公爵は「はい」と真摯な表情で頷いた。

 誰も何も言わない。平然としている。そんな馬鹿な。


 そういえば、とはっとする。

 さっき、ロンサール伯爵もこの幽霊侍女に気を遣っていた。何てことだ。侍女って実はすごく偉いのか? 少なくとも、ときどき公爵より偉いのが混じっている? 下層民だった俺が知らなかっただけ? なんてことだなんてことだ。


 リリアーナが細い眉を下げて、ほんのりと微笑んだ。


「……そんな風に心配されて、幸せですね。羨ましいような気も致します……」


 ウェイン副団長の左手が、リリアーナの右手とそっと結ばれた。二人がそっと見つめ合う。

 国務卿の護衛騎士が「ちえーっ」と舌打ちし、幽霊侍女は何か言いたそうに、リリアーナをちらっと一瞥した。



「――と、とにかくっ!」


 バルコニーの上で、バルビエ侯爵令嬢が慌てたように口を開く。


「騎士様、お父様も、引いてください! 犯人たちの要求は、改めて、わたくしが代わりに伝え――」


「ちょっと待ったーーっ!!」


 甲高い大声が上がり、場の視線が声の主に集まる。

 どすどす、と地響きを立てて足音が近づいてくる。

 はあはあぜえぜえと丸い肩を揺らしながら、声の主は口を開いた。


「――はあはあ、交渉は、後まわしっ! ぜえ……まず、人質交代っ! 僕が、そっちに行く! ひい、ひと、人質に、立候補するっ!」


 盛大に息を切らして、声高にそう叫んだのは――――


 その場の誰もが、目を丸くした。リリアーナが、きょとんと口を開く。



「ディクソン公爵さま……?」



§



 事件現場であるバルビエ侯爵執務室――その真下に位置する王宮政務室。


 窓の外の喧騒に耳を傾けつつ、ウィリアム・ロブは、目の前のソファーに向かい合って座る男を注意深く観察していた。



「政務官の方々は、退室してくださって構いません」

「我々が安全に外まで案内いたします」


「すみません。書類を置いては行けません。管理義務があって。第三騎士団みなさんの邪魔にはならないようにします。王宮政務官われわれも在室させてください」


 背後では、今日、何度聞いたかわからない遣り取りが第三騎士団と後輩のアシュレー・ウィルトンの間で交わされていた。


 そうですか――と返す騎士の声には、落胆の色が滲んでいる。「邪魔だから出てってくれ」と言いたいのは明白だけれど、机上に山のように積み上がった『国家機密』を前に、強く出られないらしい。


「ポエトリーさん、お待たせして申し訳ありません。今は上も下も大変な騒ぎで出入りできない状況ですが、事が収拾すれば、シュバルツも戻るはずです。――どうぞ、アールグレイですが」


 同期のジョゼフ・シュバルツの客だという男は、ピーター・ポエトリーと名乗り、少し前にこの政務室にやって来た。


 右目の下の泣き黒子が、彼をより小心に見せている。


「いえ……こ、こちらそ、す、すみません。ぼ、ぼくが、勝手に部屋を出たばっかりに……ご迷惑を……シュバルツさんには、本当に、親切に、してもらったのに……」


 ジョセフは面会人に会いに行くと言って下の応接室に降りたきり、まだ戻らない。探しに出たジョセフと、行き違いになってしまったらしい。

 立て籠り犯が捕らえられるまで、左ファザードは封鎖される。ジョセフもしばらく戻れないだろう。


「隠れていたんです、トイレに――」


 ピーター・ポエトリーは悄然と肩を落とした。


「――襲われそうだったから」


「襲われる?」

 

 誰に――驚いて問返すと、ピーター・ポエトリーは唇を何度も舐めて湿らせた。

 重大な秘密を打ち明けるように、声を潜める。


「ええ、身の危険を、感じて……ですよ。……実は、ぼく、ずっと狙われているんです。やつらは大勢いる。真っ黒で、不気味で……攻撃的で……執念深くて、僕を追っているんです。今日だって、窓の隙間から姿が見えました。今にも襲ってくるんじゃないか。そう思ったら、居ても立ってもいられなくて……窓のないトイレなら、もさすがに入って来られないだろうから」


「ほう」


 ――からす


 焦げ茶の眼差しは、怯えた様子で政務室の窓の方をおどおど彷徨っている。


「なるほど」ウィリアム・ロブはゆったりと足を組みなおし、穏やかに頷いた。


 なるほど。

 しかし、確かに、鴉は賢い生き物である。敵と見做した人間の顏を覚えてしつこく付き纏い、襲うこともあると聞く。彼は実際に被害に遭い、トラウマになっているのかもしれない。


「それは災難でした。ですが、ここは安全ですよ。ほら、騎士の皆さんもいらっしゃるし」


 ああ、と彼は少し寛いだように息を吐いた。サイズの合っていないスーツに包まれた、日陰で光を求めて細く伸びきった草のような身体を両手で包むように抱く。


「ええ。良かった。ここにいる騎士は青いですもの。青は悪くない。白もいいけど、一番いいのはみどりですよね。けど、いちばん駄目なのは黒です。不吉で、攻撃的だ。ほら、ときどき、公園に黒いベンチがあるでしょう? ベンチは白に限りますよね。黒いベンチを見ると僕は、白いペンキを買ってきて、塗り込めてやりたくて堪らなくなるんですよ」


「ほう」


 ジョセフのやつ。

 あとでちょっと話を聞こう。この面会人は、一体どういう素性だ。

 至極穏やかな微笑を崩さぬまま、ウィリアム・ロブは「冷める前にどうぞ」と再びアールグレイを勧めた。


「しかし、大変な騒ぎですねえ。せっかく休日出勤したのに、仕事がちっとも進まない。上に人質になってるお嬢さんがいるみたいです。お気の毒なことです。あ、茶菓子です、よかったらどうぞ」


 テーブルに焼き菓子の載ったトレイを置きながら、後輩のアシュリー・ウィルトンがソファーの隣に腰を下ろす。

 こちらの会話が聞こえていたのだろう。

 ずり落ちそうになる黒縁の眼鏡を押し上げながら、素早く耳打ちしてくる。


「――ポエトリーさんって、シュバルツ卿が処理されていた、ほら、例の件の、の方ですよね。よっぽど辛い目に遭われたんでしょうねぇ」


「……ほう」


 ウィルトンは、気の毒そうな眼差しをポエトリーに向けた。

 さて、ジョセフは何を言っていたっけ? 

 その話をしていた時、自分はその場に居合わせていただろうか。思い出そうとしてみたが、うまく行かなかった。


 ジョセフ・シュバルツは裏表のない気持ちのいい同期だけれど、雑談が多すぎるきらいがある。

 すべてにきちんと耳を傾けるのは不可能だ。


「ロブ卿、ここは僕が。例の、ドゥフト=ボルケ地方復興統合担当官からの急ぎの調査報告書、不備があったんでしょう?」


 アシュリー・ウィルトンも他の王宮政務官の例に漏れず、気遣いの達人だった。

 書類が積み上がり、殺人的に多忙でも、この政務室の空気が殺伐としたことはない。同僚たちは皆、温和で善良だ。


 自身の机上には、今日中に仕上げなければならない書類が積み上がっている。


「そうか。すまない。頼むよ」


 ウィルトンだって、仕事が溜まっているから、こうして休日も出ているのだろうに。

 申し訳ない気持ちを込めて言うと、ウィルトンは任せてくれと言わんばかりに鷹揚に頷いてくれる。


「すみません。ポエトリーさん、私はちょっと失礼します」


「ああ、すみません。すみません。お気遣いなく」


 ピーター・ボエトリーは頬を紅潮させ、頭を何度も下げた。




 ――――ウィリアム・ロブは、生涯のうちに、何度も思い返すことになる。


 もっと注意深く観察していれば。

 あの時、席を外していなければ。


 そうすれば――――


 後に、自身とランブラーを長く苦しめることになったあの凄惨な事態の始まりを、止めることができたのだろうか―――――――。


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