第83話 立て籠りと騎士道精神

 声の方を振り返ったアルフレッド・キャリエールは、予想通りの顔ぶれだな、と思った。


 その令嬢たちとは、ノワゼット公爵の護衛中に何度か、顏を合わせたことがあった。

  レディ・ブランシュの友人――すなわち、コンスタンス・バルビエ、デリア・ビシャール、ビアンカ・フォーティナイナー。それから、最近仲直りしたというカメレオン侯爵の娘、マージョリー・ダーバーヴィルズ。


 レディ・ブランシュと並び、社交界の頂点に咲き誇る華たち。

 その容姿は精巧な人形のように華奢で可憐。「流行の牽引者」たる自信に満ちた佇まい。人々の目を惹き付けてやまないオーラ。


 そんな令嬢たちの大きな瞳は、訝しそうに黒鷹の制服を着た自分たちに向けられていた。無理もない。ついさっき、この制服姿の人間たちに襲われたばかりなのだから。


「ええと……」


 何か言葉をかけようとして、逡巡して、やっぱり口を閉じた。


 ――こういう時にかける、適切で気の利いた言葉は……


 思いつかなかった。令嬢たちの様子は、いつもと変わりないように見えた。細い肩を震わせてもいないし、泣いてもいない。

 背筋はすっと伸びているし、結い上げた髪には一筋のほつれもなく、締め付けの少ない先進的なドレスは、シワ一つない。


 けれど、見た目は普段通りでも、それは無傷である証拠にはならない――。『未遂』の境目は曖昧だ。

 身体には傷ひとつなくても、心は傷つき深く抉られ、その魂は昏く沈んでいるかもしれない。


 不条理な暴力は、平穏な日常を覆し、人々を巻き込みなぎ倒し、後に残るのは、草も生えない絶望だけ。


 ――『アルは天才だなぁ。特に剣の才能あるよ』


 俺はそれを知っている。不意に、兄の穏やかな声を思い出して、胸にさざ波が立ち、浅い息をゆっくりと吐き出した。くそっ……


 ――問題っていうのは、なぜこうも重なるんだ!


 とにかく今は、レディ・ブランシュのことが心配だった。アイルや、途中で声を掛けた他の連中も医務官を探しているはずだから、すでに治療を受けられた可能性もある。けれど、もし……レディ・ブランシュに、もしものことがあったら――。


 一刻も早く、医務官を探さねば。


 コンスタンス・バルビエが、大きな瞳を薄く細めて口を開いた。


「……お二人は確か……よく、ブランシュの護衛についておられる方ですわね。カマユー卿、それから、キャリエール卿……? どうしてこちらに?」


 この場にいることを咎めるような響きに、カマユーと素早く視線を交わした。

 繊細でデリケートな状況だ。

 結婚前の令嬢ならば、噂が立つことを恐れて当然。

 面白おかしく「きずもの」呼ばわりされれば、彼女たちの結婚への道は狭まる。

 令嬢たちが、事件を知る人間が増えることを許し難く感じても、無理はない。


 返事を躊躇っているうち、「自分が呼びました」とリーグ・ホワイトが素早く答えた。

 令嬢たちの視線を避けるように目を伏せ、首裏に手を遣りながら言いにくそうに続ける。


「ええと、ほら、そのぅ……王宮騎士にもいてもらった方が、何かと都合が良いかと思いまして……」


「あらそうかしら……皆様とカマユー卿とキャリエール卿は、ご友人でしたの?」


 目を細めたデリア・ビシャールが、意外そうに小首を傾げた。


「ええ? いや……その、そういうわけじゃ……」


 リーグ・ホワイトはもごもごと口ごもる。


「……ずいぶん、意外な組み合わせですわね」

「ほんとうに……あら、でも、そうでもないのかも知れないわ。目に見えるものが、すべてそのままと限らないもの」

「そうね、胡散臭い破落戸が、胡散臭い破落戸とは限らない」

「実際、さっきの手際は、本物の王宮騎士様のようでしたわ。それにほら――」


 ええ、ええ、と頷き合っている様子を見る限り、思ったよりも元気そうだ。


 内心でほっと胸を撫でおろす。幸いなことに、想像したよりも早い段階で、リーグ・ホワイトらは令嬢たちを救い出せたらしい。

 見るからに温厚な顔に、穏やかな微笑を貼り付けたカマユーが、職務をまっとうすべく果敢に割り込んだ。


「彼らとは、ちょっとした顔見知りなんです。――ところで、令嬢方、少しお話を伺っても?」


「ええ……こうなっては、そうすべきでしょうね」


 コンスタンス・バルビエは頷き、令嬢たちは揃って、ひらりと開いた扇で優雅に口元を隠した。宝石に例えられる瞳たちが、薄い三日月の弧を描く。しゃらりん、と扇についた真珠飾りが揺れた。


「わたくしどもといたしましても、ぜひお願いしたいことがございます。立ち話もなんですから、お茶にいたしましょう。どうぞ、お掛けになって」


 手早く扇を畳むと、きい、と微かに車輪を軋ませ、寝室から金色のティーワゴンを細い腕で引っ張ってくる。


 椅子を勧められた破落戸たちは、物欲しそうな目つきで、ワゴンでなく掃き出し窓の方を見ていた。「早くとんずらしたい」と考えているのは、傍目にも明白だ。


「サラは向こうで休んでいます。ショックを受けていて、お茶を淹れられそうにありませんから、わたくしが淹れました」


 ワゴン上には、湯気が揺らぐ銀のティーポットと白磁のカップが並んでいた。


「……サラ?」

「どなたです?」


 他にも被害者がいるのか? 焦って尋ねたカマユーと俺の声に、コンスタンス・バルビエは優美な所作で紅茶をカップに注ぎながら、悲しそうな顔をしてみせた。


「わたくしの家に長く勤める、大事な侍女です。ここで一人で留守番しているときに、強盗と鉢合わせしたのです……目の前で剣まで抜かれて。もう年ですから……ショックのあまり、卒倒したのですって……。ですが、お陰さまで、ずいぶん良くなりました。さっきブランデーを飲み、今は寝室で休ませております」


 レディ・コンスタンスが注ぎ、レディ・デリアらの手によって整然とテーブルに並べられてゆく紅茶のカップ。たぶんアールグレイだろう。湯気がくゆり、爽やかな柑橘の香りが辺りに漂う。


 眉尻を下げた破落戸たちは、しばし揃って天を仰いだ。

 やがて、ひとつ息をつくと、ゆるゆると動き出す。女性が淹れた紅茶を断るのは人道に悖るとでも思ったのだろう。

 協力し合って、横倒しになった長椅子を元に戻し、てきぱきと乱れた部屋を片付け始めた。その姿は控えめに言っても、統率の取れた親切で紳士的な不審者だった。


 銀のポットを両手で持ったまま、コンスタンス・バルビエが破落戸たちに向かって美しい礼をしてみせる。


「――サラを診てくださってありがとうございました。お医者さまがいてくださって、助かりましたわ」


 拾ったランプを丁寧に執務机に置きながら、リーグ・ホワイトが片頬だけで微笑む。


「いえいえ、お役に立てて何よりです」

「医者って、だれが!?」と俺が叫び、「君は花屋じゃないのか!?」とカマユーが被る。


「はあ? 花屋はただの趣味だよ。どうせなら、色んな仕事してみようと思って」


 あからさまに怪しげな出で立ちのリーグ・ホワイトが、自嘲するように唇の端を歪めて続ける。


「あ、ドクターじゃないよ。家が代々、医者の家系だったから……ちょっと知識があるってだけ。俺は、小さい頃から騎士になりたかったんだ。医療の心得があったから、衛生兵の印も付けさせられてた。……お陰で、あの全滅のガリカ谷では条約が守ってくれて、こうして生きてるってわけ」


 リーグ・ホワイトは遠い目をして、しんみりと残念そうに肩を落とした。


「君を探してた! 俺と一緒に来てくれ!」


 抱きつかんばかりの勢いで両手を広げると、リーグ・ホワイトは「は?」と気味悪そうに眉をひそめた。素早く俺から身を躱す。


「いやだよ、なんで?」


「なんでって、そりゃあレディ――いてっ」


 ブランシュが、と口にする前に、カマユーの肘にどすっと背中を小突かれた。空色の瞳に睨まれ、はっと気づいて、口を噤む。


 俺は、なんて無神経なんだ。

 硝子細工よりも脆そうな令嬢たちは、ひどい事件に遭ったばかり。育ちの良さ故か、妙に落ち着いて見えるけれど、心は傷つき苦しみ、満身創痍に違いない。

 この上、レディ・ブランシュが毒を飲まされた、などと聞けば、今度こそ卒倒してしまうかもしれない。


 おまけに、あれは陛下主催の昼餐会での出来事。事実関係もはっきりせぬうちに、憶測で『毒』などと口が裂けても言えない。下手すれば、こっちが陰謀罪に問われる。


「そ……それは、その、ほら! 腹、減ってないか? 王宮騎士専用の食堂で、本日のスペシャルメニュー、ランプステーキを奢ってやろう! 旨いぞ」


「はあ? 腹なんか減ってない。仮に減っていたとしても、初対面の人から奢ってもらう謂れがない」

 

「ま、真面目だな……」


 猫なで声を出しニコニコ笑うと、いかがわしい変質者を見るような目をして、リーグ・ホワイトはにじり下がってゆく。こっちは急いでいる。イライラしてきた。いっそのこと、力ずくで捕まえて引き摺って行きたい。しかし、令嬢たちの手前、それもできない。


 俺たちのやり取りは完全に無視して、真剣な顔つきで黙々とティーカップをローテーブルに置いていた令嬢たちが、長椅子の一つに並んで腰を下ろす。

 女性なら四人並んでも、まだゆとりがある大きな長椅子だった。コンスタンス・バルビエが、白い掌をひらりと動かし、向かいの長椅子を指し示す。


「さ、どうぞ。慣れないのですけれど、頑張って淹れてみました。美味しいと良いのですけれど……冷めないうちに、召し上がってくださいませ」

 

 男が全員で座るには、もう一つの長椅子は明らかに小さい。目配せで譲り合うが、誰も座らない。カマユーが言う。


「どうぞ。俺たちは職務中だからいい」


「あ、そう?」


 あっさりと頷いて、破落戸達はさっさと腰を下ろした。背の高い男が五人で座ると、さすがにきつそうである。「……やっぱ俺、立っとく」「……お前らの体温とかマジいらん」と言って、カップとソーサーを片手に、二人が立ち上がった。

 結局、四人の高貴なる令嬢と三人の礼儀正しい不審者が、壮麗な長椅子にお見合いのように向かい合って腰掛ける、という滅多にお目にかかれない絵面に落ち着いた。


 それでね――とコンスタンス・バルビエが、沈痛な面持ちで切り出した。ちょっと嫌な予感がした。これ、話が長引く流れじゃないだろうか。


「マージョリーが、結婚することになったのです。あの、アンドリュー・ホールデンと」


 あの、の部分にすごい力が籠っていた。

 アンドリュー・ホールデン侯爵令息――関わったことはないが、主要な貴族の顏と名前はだいたい覚えている――家格は上の中、容姿は人並み以上、クリケットが得意、普通に人当たり良い茶髪の男、だったはず。


 ああっ!! と嗚咽を漏らし、マージョリー・ダーバヴィルズが両手で顔を覆った。デリア・ビシャールとビアンカ・フォーティナイナーが、さっとその背を支える。


「レ、レディ!? ど、どうされました!?」

「えーと、ハンカチ!」

「今は『破落戸』を熱演中だぞ! 持ってるわけあるか!」


 慌てふためきポケットを探る破落戸たちの横で、俺も焦ってポケットを探った。指先に触れた一枚しかないハンカチは、しっとりと濡れている。さっき使うんじゃなかった。


 あたふたと狼狽える俺たちを横目に、「どうぞ」とスマートな所作で、カマユーが真っ白いハンカチを差し出した。「清潔です。いつも二枚以上、持ち歩いていますから」


「まあ、ご親切に……トマス・カマユー卿」


 マージョリー・ダーバーヴィルズが、ぐすぐすと啜り上げながらそれを受け取る。


「……用意いいな、色男」とリーグ・ホワイトが小声で呆れたように突っ込み、「しょうがないだろ、家訓なんだよ」とカマユーが頬を引き攣らせた。


 そんなわけで――とまっすぐ前を向いたコンスタンス・バルビエが、平坦な口調で告げる。


「先ほども申し上げた通り、今からわたくしたち四人を人質に取って、立て籠もっていただきたいの」


 いかにも侯爵令嬢らしい、可憐でおっとりとした、けれど一切の反論を許さぬ口ぶりだった。


「…………はい?」


「…………さっきの、空耳じゃなかったか……」と破落戸たちが小さく絶望的な声を上げて、天を仰ぐ。


 思ったよりも、ずっと話は短かったけれども、ちょっと、脈絡がわからなすぎた。

 しんとした室内に、気の強いことで知られるマージョリー・ダーバーヴィルズの、聴く者の胸を締め付けるような悲しいすすり泣きが響く。


「ええ……っと」


 ひとまず落ち着こう。

 男たちは一斉に温かいカップに手を伸ばし、口をつけた。

 舌が麻痺するほど渋い。

 えへん、おっほん、と妙な咳をしながら、みんな揃って平然を装い、カップをしずしずとソーサーに戻す。


「こほ、も……申し訳ない。じ、実のところ、我々は外国人なんです。ゆえに、この国の文化や常識に疎く、立て籠もりに至るその理由が、ちょっと、完全には、わかりかねます」


 少し涙目になったリーグ・ホワイトが、心から申し訳なさそうに、至極まっとうな疑問を口にした。


 咳き込み終えたカマユーが、遠慮がちに口を開く。


「ごほ……そのう……すみません、レディ・コンスタンス。私ども王宮騎士は、王宮の治安維持を最優先に考える立場にあります。立て籠もりとは……その、少しばかり、穏やかさに欠けるような気が……しないでもないような……」


 労るようにレディ・マージョリーを見ていたコンスタンス・バルビエが、ほうっとやるせない溜め息をついた。


「ええ……でも、この際、仕方がありません。あのアンドリュー・ホールデンですもの」


「その……アンドリュー・ホールデン侯爵令息に、何か問題が? 私の理解では、ホールデン侯爵家は名家で……むしろ、結婚相手としては良好な――」


 カマユーが言いかけると、「あら」とデリア・ビシャールが小鳥のように首を傾げ、長い睫毛を瞬かせた。扇をばちん! と畳むと、南極の氷河のようにひんやりと微笑む。


「おかしなことを仰るのね、カマユー卿。あの、アンドリュー・ホールデンと結婚したがる女が、この王都にいるわけないでしょう」


 きっぱりと言い切る。またしても、あの、の部分にものすごい負荷がかかっていた。

 ビアンカ・フォーティナイナーが、きりりと柳眉を上げた。


「イーディスとジャクリーンの、ショーモン姉妹のことですわ。まさか、騎士様はご存じありませんの?」


「あ、そういう話ですか……?」気圧されたように、カマユーが瞬く。


「ええ。先に声を掛けられたのは、姉のイーディスの方でした。ショーモン家のご両親は、当然ながら娘たちの異性関係に厳しく目を光らせていました。でも、恋におちるのって、何にも誰にも止められないでしょう? すっかり恋におちた彼女は、恋人の存在を秘密にしていました。そうこうするうち、アンドリュー・ホールデンは、妹のジャクリーンのほうも気にかけだしたのです」


 不穏な話の輪郭が、なんとなく掴めはじめる。意思の強そうな顎をつんと上げ、ビアンカ・フォーティナイナーがきびきびと説明を続ける。


「ほら、イーディスとジャクリーンは、大人しく控えめな性格で、あまり自己主張する性質ではありませんでしょう? 良いようにできると思われたのでしょう、気の毒に……。姉妹への二股が発覚したとき、アンドリュー・ホールデンは二人に言ったそうです。『僕は、二人を同じくらい愛してしまった。とてもじゃないが、どちらか一方を選べない』と……」


 うへえ、とこの口から声にならない呟きが漏れた。


「しかもその上、まったく同じデザインのペリドットのブレスレットを二つ持ってきて、『真実の愛の証』と言ってイーディスとジャクリーンにそれぞれ贈ったのです。『これからも三人で仲良くしよう』と」


「……なるほど。そ、それはひどい」とカマユーが、驚愕した様子でおそるおそる頷く。


「ええ……しかし、アンドリュー・ホールデンにとって何より残念だったことは、『大人しい人間が、弱いとは限らない』という真理に気づくのが少し、遅かったことでしょう……」


 きらり、と令嬢たちの瞳に強い光が宿る。


「尊厳を踏みにじられたイーディスとジャクリーンは、ほとんど同時にこう叫んだそうです。『はああ? 選べないだぁ!? 選んでもらわなくてけっこう! こっちが選んでやる! この最っ低ナルシスト!』と。そして、それ以降は姉妹仲良く、茶会、夜会、旅行、ショッピング……行く先々で、アンドリュー・ホールデンを完膚なきまでにこき下ろすことにしたのです。よって、この国の令嬢で、アンドリュー・ホールデンが浮気二股最低男であることを知らぬ者はいません」


 令嬢たちは力強く頷き合う。何かすごく恐ろしい話を聴かされている気がした。心臓の血液が凍り付くような錯覚に囚われながら、一同、まんじりともせずその話を拝聴する。


 デリア・ビシャールが、幼子に寝物語を読み聞かせるような透き通った声でおっとりと告げる。


「こうして、アンドリュー・ホールデンは人類のおよそ半分を敵に回し、いつまでもいつまでも、末永く領地に引っ込むことになったのです……」


「な……なるほど……」


「それなのに、まさか……! このわたくしに、縁談を持ちかけてくるなんて……! 婚約期間もなく、すぐに結婚!? わたくしの評判があまりにもひどいから、これならいける、と足元を見られたのよ! しかも、お父さまが、それを受けてしまうなんて……っ!」


 わっ! とレディ・マージョリーは泣き伏した。


「ひどすぎる!」

「恥知らずにもほどがあるわ!」

「『浮気は男の甲斐性』とでも思っておられるのかしら!?」


 令嬢たちが吼える。


 いやいや。カメレオン侯爵は確かに腹の中の読めない感じの悪い男だが、単に、ショーモン姉妹の件を知らないんじゃないか。世代が違うから、情報伝達速度が違ったんじゃないのか……と擁護してやりたくなったが、キャリエールは口を閉ざしていた。

 地雷を恐れたのもあるが、うっすらとあることに気づき始めたからだ。


 そういえば――と今になって思い出す。この令嬢たちは、かつて、レディ・ブランシュと互角に渡り合った好敵手なのだ。


 百獣の王の好敵手が、ガラス細工のように脆いなんてことが、果たしてあるのだろうか――――? 



 わなわなと肩を震わせるマージョリー・ダーバーヴィルズの、力を込めすぎて白くなった手の中で、カマユーのハンカチが雑巾みたいにぎゅうぎゅう絞られている。 


 ふう、とひとつ息をつくと、コンスタンス・バルビエが、にっこりと頬を緩めた。可憐な花が、咲き綻ぶような微笑だった。


「さて皆さん。――今日、わたくしたちが不埒者たちに襲われたことを知ったら、父たちはどう動くと思われます?」


「え?…………ええと、それは、もちろん、心配されるのでは……」

「……それから、犯人たちに、お怒りにもなるかもしれませんね」リーグ・ホワイトとカマユーが、当たり障りなく小さな声で応える。


「まあそうね。それから、緘口令を敷き、控え室に転がっている犯人たちは、こっそりと秘密裏に処理される。わたくしたちは屋敷に閉じ込められ、どこからか悪い噂が立つ前に、マージョリーはアンドリュー・ホールデンと、わたくしたちは適当な誰かと、早急かつ迅速に縁組みさせられるでしょう――」


 コンスタンス・バルビエは、唇だけうっすらと笑って続けた。


「――冗談じゃない。まっぴらごめんです」


 ビアンカ・フォーティナイナーが、小悪魔めいた笑みを浮かべた。


「あなた方が躊躇されるお気持ちも、よくわかりますわ。でも、よくお考えになって。これは皆様にとっても利になる話です――」


 リーグ・ホワイトたちを、まっすぐに見つめる。


「わたくしたちはただ、時間が欲しいのです。そのためには、騒ぎにするのが一番。お金と権力を使いきれないほど持つ父たちですら、どうやっても揉み消せないほどの、大騒ぎにしてしまう。『傷心』を理由に、マージョリーの結婚は延期になる。そうしたら――」


「その隙に、修道院に行くわ」


 マージョリー・ダーバーヴィルズがあっさりと言った。瑠璃色の瞳には、強い決意がみなぎっている。


「わたくしだって、家のために愛のない結婚をする覚悟くらいしてきたわ。……でも、アンドリュー・ホールデンだけはいや……! あの人は何て言うか……恩着せがましくて、嫌味ったらしくて、使用人に対して不遜で……鳥肌が立つの!」


 デリア・ビシャールが、扇をひらひらと振る。


「簡単なことです。皆さまには、わたくし達を盾に立て籠もりを演じた後、入れ替わっていただきます。控室で眠っている五人の偽騎士とね。

 そうして、わたくしたちは証言いたしましょう――犯人は、初めから終わりまで、控室で眠る彼らだったと。

 彼らが否認したところで、わたくしたちの証言を一体、誰が疑うでしょう? 第二騎士団の制服に着替えたあなた方は、大手を振って悠々と、この王宮から出てゆけばいい。どうです? 悪くないお話でしょう?」


 ようやく、キャリエールは事態を呑み込んだ。視界を覆っていた鱗が、ぽろりと取れたようだった。


 ずっと、暴力は何よりも強く、人を怯えさせ、力を奪うのだと思っていた。


 けれど、目の前のこの華奢な女性たちは、どうだろう。ちっとも踏みにじられてなどいない。――むしろ逆だ。不条理な暴力をきっかけに奮い立ち、自由に飛び立とうとしている。


 コンスタンス・バルビエが、掃き出し窓の方へと視線を向ける。よく晴れた空は、真っ青に澄み渡っている。


「わたくし、さっき、死ぬほどの恐怖を味わいました。それで、ふと思ったのです。宝石もドレスも、好きなだけ与えられて生きてきた。豪奢な屋敷に住み、多くの使用人に傅かれている……わたくしの一生は、本当に幸せだったろうか。一度きりの人生に『自由』を望むのは、ほんとうに欲張りだったのか、って」


 ――自由に大空を羽ばたく鳥と、たっぷりの餌を与えられた籠の鳥、真実に幸せなのはどちらだろう。


 キャリエールはふと、手伝ってやりたいような気持ちに駆られた。


 探しに行ってみようか。

 兄の足跡を。

 ずっと目を背けてきた。けれど本当は、王宮騎士となった今の自分なら、兄の最期を調べられるかもしれない。


 あの大人しく気の弱かった兄の人生は、それほど悲惨なものじゃなかったかもしれない。

 優しい人だった。追放された先で、誰かを助け、誰かに助けられ、誰かに愛され、看取ってもらえたかもしれない。運命などに負けるものかと奮い立ち、抗ったかもしれない。

 目の前の、令嬢たちのように。


 人間は本当は、暴力にも、どんな禍にも、負けないんじゃないか。あの見るからに弱そうなレディ・リリアーナだって、俺たちに命を狙われながら、強かに裏をかき、生き抜こうとしていたじゃないか。


「で、でもですね」とリーグ・ホワイトは慌てたように身振り手振りを交え、口を開く。


「噂とは、なかなか恐ろしいものです。騒ぎが大きくなれば、令嬢方の将来に差し障りが出るかもしれない」


「問題ありません。『きずもの』はいらない、などという男は、こっちから願い下げです。そもそも、一生独身でオールドミスというのも、それはそれで楽しそうです」


 うふふ、と令嬢たちは笑い合う。破落戸たちは前のめりで、焦って次々に言い募る。


「……で、ですが! 今はほら、ショックを受け、冷静なご判断ができていない可能性もあるでしょう? 時間を置いたほうが……」

「あら? タイミングと勢いも、時に身を助けますわ」


「ええっと、ほら、満ち足りた衣食住は、人の心をも豊かにすると言うではないですか。裕福な人との結婚は、それはそれで――」


「わたくしたち四人とも、祖父母からすでに信託財産を得ています。自分たちが生きて行くくらいは、なんとかなります」


「……し、しかし……そう! 王宮騎士であるカマユー卿とキャリエール卿はどうします。彼らは、王宮を守るため――」


「わかりました。協力しましょう」と先に応えたのは、俺でなくカマユーだった。さっきから何か、顎先に手を遣り、物思いに沈んでいるようだった。


「「「「「ええ!?」」」」」


 瞠目した破落戸たちがハモる。

 令嬢たちは満足そうに頷き、揃って「よし!」とガッツポーズをした。


「トマス・カマユー!? 何のために呼んだと思ってるんだ!?」とリーグ・ホワイトが腰を浮かす。


「まあ、いいんじゃないか?」と俺も言う。


「な……!? キャリエール卿まで!? 君ら、それでも騎士か!?」


「いや、よく考えてみたら、なんかこれがベストな気がしてきた」


「どこが!?」口角泡を飛ばす勢いのリーグに、カマユーが顎を撫でながら、落ち着いた声で言う。


「俺たちは理由があって、君らをここから迅速かつ安全に連れ出したい。ところが今、王宮は大騒ぎだ。白獅子、青竜、衛兵が総出で血眼になって、君らを探している。

 俺たちが捕まえたことにして一緒にいても、途中で何度も足止めされるだろう。顔はばっちり見られるだろうし、その後、いろいろややこしくなる」


 リーグ・ホワイトは真顔に戻った。


「いや、俺たちは、逃走に君らの手は借りない。自力で逃げる」


 迷惑をかけるつもりはない――と彼らの誇り高い目は語っている。


「それは無理だな」と俺は断じる。「王宮騎士をなめすぎている。死ぬよ、あんたら。それでも逃げるって言うなら、剣を抜かせてもらう。足の腱を切って、この場で捕まえてやるよ。死ぬよりはマシだろう」


 柄に手を遣ると、破落戸たちが身を固くしたのがわかった。空気が張り詰め、次にゆらりと揺らぐ。こいつら、確かに手練れらしい。


「王宮騎士は、簡単には抜剣しないんじゃなかったのか……?」

「時と場合による」


 カマユーが「でも」と緊張した空気を破る。


「服を入れ換えて、令嬢たちが証言してくれるなら、話はまったく別だ。これより安全にここを出られる方法が、他にあるか?」


「……………ない、かもしれない。だが、それでも」


 すっと目を閉じ、リーグ・ホワイトはきつく眉根を寄せ、それから開いた。何か、覚悟を決めた者の強い眼差しだった。


「騎士道精神に反することはできない。君らも誓いを立てた騎士ならば、俺たちの気持ちがわかるだろう?」


 カマユーと俺は、顔を見合わせた。きょとん、とした空色の瞳と目が合う。

 ふるふると首を振りながら言う。


「いや、ぜんっぜんわからない」


 カマユーが、「すまない……」と気の毒そうに溜め息をつき、申し訳なさそうに言う。


「残念ながら、第二騎士団には、騎士道精神とか良心とか、気にするやつはいないんだ……」


 破落戸たちが、目と口を大きく開けている。なにか、唖然、としているらしい。

 リーグ・ホワイトが、声を震わせる。


「………う、嘘だろう……っ!?」


「それじゃ」とさっきまで泣いていたマージョリー・ダーバーヴィルズが、涙を拭いながら明るい声を上げる。



「多数決で決定! 立て籠るってことで!」



 

 

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