第82話 彼らの関係

 父の執務室の扉を開けると、ヒイラギの強い香りと風が、コンスタンスの頬をひんやりと撫でた。

 換気のためか、少し開いた掃き出し窓の前で、陽光をはらんだカーテンがゆらゆら揺れている。


「戻ったわ、サラ? サラ? いないの? サラ!? おかしいわね……いるはずなんだけど……どこに行ったのかしら?」


 怪訝に思いながら、少し肌寒いような気がして、バルコニーに続く掃き出し窓をきつく閉じ、錠を下ろした。窓越しに、すっかり葉を落としたマロニエの木が見える。


 失礼しますわ、と小さく口にしながら、後ろから友人たちが室内に足を踏み入れてくる。

 

「素敵な執務室ですわね」

「ええ、落ち着いた雰囲気」


「そうかしら? 父はこだわってるみたいだけど、わたしは別にふつうだと思うわ。……侍女がいるはずなんだけれど……」


 軽く首を傾げて、部屋を見まわす。


「あ、皆はそちらに座ってて、寛いでいてね。ちょっと、あっちを見てくるわ」


 枢密顧問官である父の執務室には、側近のための控室や、寝泊まりできるよう寝室やバスルームもついている。


 サラは、母の嫁入り時からバルビエ侯爵家に仕えてくれている侍女だ。いつも溌剌としているから忘れがちだけれど、考えてみればけっこうな歳だ。

 どこかの部屋で腰掛け、休憩するうち、うとうとと微睡んでいるのかもしれない。


 向かい合う長椅子を勧められた友人たちが、それぞれ腰を下ろす。デリアが、細い眉を下げておっとりと言う。


「下の方はすごい騒ぎだけれど、三階まで来れば、静かなものねぇ」


 ビアンカが、ふふっと笑って応える。


「そりゃそうよ、さすがの侵入者も、この宮殿には入れっこない。左ファザードには、『無敵の青竜』――第三騎士団がいるもの。まさに鉄壁よ!  ここなら、マージョリーの話の続き、安心してゆっくり聞けそうね」


「あの、今日は……自分でもすこし、気持ちの整理がつけられそうに思うわ……」


 マージョリーが深い溜め息をついた。伏せた睫毛が、彼女の白い頬に長い影を落としている。今日はずっと、マージョリーは肩を落としたままだ。


「まあ、いいのよ。わたしたちの方こそ、貴女とこんな風に話せて嬉しいと思ってる――ねえ、サラ!? どこにいるの?」


 声をはり上げながら、寝室の扉を開けた。もし、サラがいないと、自分でお茶を淹れなくてはならない。茶葉はポットにスプーン何杯? 困った。舌が痺れるほど渋いお茶を、友人たちに振る舞う羽目に陥るかもしれない。


 視線を奥に向けた途端、ぎくりと心臓が跳ねる。


 サラがいた。


 父が昨年、千夜一夜の国から取り寄せたふっくらした絨毯の上で、仰向けに寝そべっている。投げ出された手足は、ぴくりとも動かない。


「あ……っ!」


 背中が、すうっと冷える。


 黒鷹の制服を着た騎士が、サラの傍らに跪いていた。サラを見下ろしている。

 その向こうに、同じ制服を着た騎士が、数人。

 しかも、あれは、あの人が握っているのは、鈍く光る銀色の、剣――?


「――ひっ」


 遠くで、誰かが息を呑んだ。少し遅れて、それが自分だったのだと気がつく。

 

 ――どうして?


 王宮騎士が父の執務室に? しかも、抜剣? 何をしているの?


 さっき、庭園で見かけた騎士たちとは、ずいぶん印象が違う。

 制服が、白と黒だから……? 違う。違いは、それだけじゃない。


 雰囲気、制服の着方、顔つきが――何かが、何もかもが、違う。


 ――違う……!


 けれど、濁った鋭い目が、わたしを見据えていた。


 ずっと不思議に思っていた。

 どうして、ウサギは捕食者に睨まれたとき、震えるばかりでもっと必死に逃げようとしないのか。愚かだ。

 生きるために、全力で抵抗すればいいのに。


 ――無理だ。


 わたしは、逃げられない。

 この身体はすでに、射程内にある。悲鳴を上げ、身を翻した瞬間、わたしは呆気なく狩られ、補食される。あの銀色の剣が、わたしの心臓を容赦なく貫くのだ。いやだ、死にたくない。だけど――


 ――逃げて、みんな、


 友人たちは、今ならまだ助かるかもしれない。

 軽やかに笑み交わす声が、背後から聞こえてくる。

 彼女たちは気付いていない。ここに恐ろしい捕食者がいることを。知らせなきゃ。叫ばなきゃ。大声で。

 そう思うのに、震える唇からは、はくはくと声にならない息が吐き出された。


 わたしのせいだ。

 あの名も知らぬ騎士に、送ってもらえば良かった。騎士なら、部屋に入る前に、何かおかしいことに気づいてくれただろう。わたし、断ってしまった。選択を間違えた。


 視界が、じわりと滲む。


 かたかたと小さく震え始めたわたしの肩を見て、その黒い騎士は、嬉しそうに嗤った。



「ラッキー、こりゃ上玉だな」



 §



「……ここって、バルビエ侯爵の執務室で合ってるよな? 顧問官の」


 トマス・カマユーとともに三階に上がって来たアルフレッド・キャリエールは、状況の把握に努めていた。


「そのはずだ」と訝しそうに答えたカマユーと頷き合い、室内の様子に視線を戻す。


「ひどい有り様だな」


 長椅子の一つは横倒しにひっくり返っているし、執務机の上にあったと思われるランプと文鎮は、ふかふかのラグの上にある。

 開いた掃き出し窓は大きく割れ、ピカピカに磨き上げられた大理石の床の上で、ガラスの破片がきらきらと陽光を弾いている。

 吹き込んでくる風は、知らない植物の甘ったるい匂いがした。


「何があった?」と訊きながら、赤いものが点々と散る白い壁に目を凝らす。

 あれはまさか、血痕だろうか?


 目の前には、庭園にいた俺たちに、窓から身を乗り出して、『助けてくれ』と声をかけてきた男がいた。


 ――どこからどう見ても、柄の悪い破落戸だな……。


 その周りで、似たような格好の男が四人、手持ち無沙汰に立っている。


 アルフレッド・キャリエールには、一目でわかった。

 見た目の胡乱さを差し引いても、こいつらは、怪しい。

 暗がりに身を潜める深海生物のごとく、光を疎み、夜の闇に紛れて生きることを固く決めている目つきだ。

 かつて自分も、同じ闇に住む貉だった。だから、わかる。


 かしこまった顔をして、破落戸たちは俺たちに向かって礼儀正しく頭を下げた。


「この度は、駆けつけてもらって申し訳ない」


「いいや」とカマユーが鷹揚に首を振った。


 俺は内心で首を捻っていた。

 俺と違って、カマユーは代々騎士を輩出してきた健やかで真っ当な家の出である。身も心も真っ当な男、それこそが俺の知るトマス・カマユー。こいつらとの共通点は、一体何だろう。

 ちょっと嬉しそうに頬を緩めて、カマユーは口を開く。


「確かに、意外ではあったよ。リーグ・ホワイト。君が俺に助けを求めてくれるとは、思ってなかった」


「ああ、それは」と目の前のリーグ・ホワイトと呼ばれた男は困惑気味に瞬いて、眉を寄せた。

 薄汚れていてわかりにくいが、その顔はたぶん、けっこう整っている。


「ここにきて、収拾しかねる不測の事態が起きてさ――」


 どこか疲れを滲ませて、リーグ・ホワイトは説明を始めた。

 

「――俺たちが、宮殿に侵入しようとしていたときのことだ……あ、言ってなかったけど、仲間たちとは、合流地点を決めてあった。左ファザードには、衛兵と騎士の目を盗んで侵入できる場所がある。実は前もって、仲間の一人が調べてたんだ」

 

 別の破落戸が、引き継ぐ。


「余計なお世話を承知の上で言うけど、そこの登りやすいマロニエの枝は、早いとこ切った方がいい。小道の向こうの樅ノ木が陰を作っていて、見張りから完全に死角になってる。それから、三階とは言え、窓を開けっ放しにしておくのは、あまりお勧めしないね」


 なんで王宮騎士の俺たちが、破落戸から防犯指導を受けている。

 内心でますます首を捻ったが、先が気になるので、キャリエールは黙っておくことにした。

 カマユーが空色の瞳を細め、「なるほど」と短く頷く。


「で、ここからが本題なんだが、その死角の存在に気付いていたのは、俺たちだけじゃなかったらしい。ちょっと、こっちを見てくれ」


 そう言って、リーグ・ホワイトは扉のひとつを軽く顎でしゃくった。

 担当が違う左ファザードには、あまり足を踏み入れる機会がない。しかし、王宮内の造りは右も左も似通っている。たぶん、そこは使用人のための控え室だろう。

 そして、向こうの扉は寝室――先程から扉の向こうに、人がいる気配を感じていた。



 リーグ・ホワイトが迷いのない手つきで開けたのは、控室のドアの方だった。

 ぎょっとして、足を止める。

「なんだこれは!」とカマユーまで声を荒げた。


 控え室では、第二騎士団の騎士が、シーツで簀巻きにされ、芋虫のようにごろごろと木製の床に転がっていた。

 リーグ・ホワイトは平然と肩を竦めた。

 

「偽物だよ。制服はそっくり君らのと同じに見えるけど、顔見てみろ。知り合いじゃないだろ」


 言われて、顔を覗き込む。


「ほんとだ。誰だこいつら?」


 俺が誰ともなしに問うと、破落戸の一人が頷いて答えた。


修道士の頭巾党モンクスフードだ。気絶させる前に話を聞いたから、間違いないと思う。騎士に変装して王宮に侵入して、男を一人、処理する手筈だったらしい」

「途中で寄り道したみたいだけど」呆れた声で、破落戸の一人が付け足した。


 第二騎士団の制服を着た男たちは、全部で五人いた。

 その話を聞くために、ずいぶん扱われたのだろう。

 白目を剥き、額や鼻から血を流している男たちの唇は、所々切れて、紫色に腫れ上がっている。さっきの血痕は、こいつらのものだろうか。なんとなく、嫌な予感がした。

 リーグ・ホワイトが冷静な声で、説明を続ける。


修道士モンクの手下は、オウミとアナベルが全員仕留めるはずだったが、侵入ルートが二手に分かれていたらしい。こっちは五人。残りは、向こうで何とかしているはずだから……王宮に侵入した修道士の頭巾党モンクスフードは、これで全部だと思う。あとは君らで、煮るなり焼くなり好きにしてやってくれ」


「……お前たち、アナベルの仲間なのか」


 カマユーと破落戸をゆっくり見比べながら、俺は訊いた。

 レディ・リリアーナと仲の良かった、あの銀髪の線の細い侍女が、実はロウブリッターの仲間であったことまでは聞き及んでいる。

 しかし、その後何がどうなったのか、まったく訳がわからなかった。


 カマユーは平然として、修道士モンクの手下たちの顏を検分している。あらかた承知しているらしい。

 リーグ・ホワイトはあっさりと頷く。


「そうだ、俺たちは、アナベルとレオ……ロウブリッターの仲間だよ。ロンサール姉妹の平和と安定のために、今は動いている」


「そうか」と俺は緊張を解いた。「なら確かに、俺たちの敵じゃないな」


 破落戸たちが、揃って真顔でこっちを見た。少し間があってから、「どうかな」と一人が唇を歪めて言った。

 リーグ・ホワイトが、目を逸らして首裏を掻く。


「まあそれで、ここからが本当の本題なんだが……」


 五人の破落戸は、視線をもうひとつの扉に向けた。リーグが潜めた声で続ける。


「俺たちがなんでここにいるかって言うと、別のバルコニーに隠れていたら、悲鳴らしきものが聞こえたからだ」


「悲鳴?」


「そう、悲鳴っぽいものが聞こえた。俺たちの目的地はこの部屋じゃなかったんだけど、無視できないだろう? で、そこの掃き出し窓から中を覗いたら――」と今度は硝子の割れた掃き出し窓を指し示す。


「――若い令嬢たちが、黒鷹の騎士に襲われているところだった」


「なんだって?」


 唖然と声を揃えたカマユーと俺に、いやあ――と言いにくそうに、破落戸の一人が、いっそう声を潜める。


「未遂だ。押し倒されても女性たちは抵抗していたし、窓が開かないから叩き割って……とにかく、すぐに止めさせたから」


「当たり前だ!」と俺は叫んだ。


 息苦しい。胸の中を、ぞわぞわと虫がはいずり回るような。

 蘇ってしまう。

『往来のど真ん中で女性に乱暴しようとして、抵抗されたから、撃ち殺した』男の記憶が。

 怒りや嫌悪といった類いのまともな感情を通り越し、言い様のないどす黒い感情がこみ上げて、それは控室で転がる男たちに向いた。

 今すぐ剣を抜いて、あの男たちをバスルームに引き摺って行くのはどうだろう。喉を切り裂いて、汚れきった血をぜんぶ抜いてしまえばいい。そうしたら、この体に半分流れる狂った血を、薄められるんじゃないか。

 カマユーが、俺の肩をぽんぽんと二回叩いた。はたと我に返る。


「それで、その女性たちは?」


 リーグ・ホワイトが、視線だけで寝室の扉を差す。


「令嬢方は、向こうの部屋にいる。侍女殿と一緒に。乱れた服装を直してくるって」


 令嬢たち、ということは、コンスタンス・バルビエ侯爵令嬢と友人だろうか。

 人の気配や衣擦れの音が聞こえてきそうな扉を見る。

 か弱い令嬢たちは今、声を殺して泣いているのだろうか。安全なはずの場所で、嵐のような暴力に遭遇した。今にも卒倒しそうな身をかき抱き、奮い立たせているのかもしれない。


 黙っている俺たちを見て、リーグ・ホワイトは影の差す神妙な顔で続ける。


「そんなわけだから、後を頼みたい」


「……ああ、おおむね理解した。男達のことは任せてくれ。王宮に侵入の上、令嬢たちを襲った修道士の頭巾党モンクスフードのメンバーか……重い刑は免れない」


「令嬢に悪い噂が立つといけないから、ちゃんと箝口令を敷く。最小限の人員で、屋敷まで送り届けるよ。だけど、君らは――」


「いや、その……まあ、それもそうなんだけど――」


 リーグ・ホワイトが頬を引き攣らせて何か言いかけると、破落戸の一人が、リーグの背を叩いてそれを遮った。


「おい、時間を取りすぎだ。そろそろ行こう――」


 がちゃり、と扉が開く音が響く。


「しまっ……!」


 リーグ・ホワイトたちの身体が、途端にぴしっと強張った。わざとらしいほど煤けたその顔が、狼狽えたようにも見えた。


 鈴を鳴らすような声が、寝室から響く。



「さあ皆様! 準備はお済みかしら?――あら? 新しいお客様かしら?」



 


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