第81話 主役と脇役
リリアーナたちが左ファザード前で足止めされる、少し前――――。
枢密顧問官たるバルビエ侯爵の一人娘、コンスタンス・バルビエは、王宮のガーデンパーティに参加していた。
コンスタンスは、冬に近づいてゆくこの季節が好きだった。
オフシーズンの噴水庭園には、春のような華やかさはないけれど、この時期ならではの落ち着いた魅力がある。暖かい時期には脇役に過ぎなかった草花が、堂々と主役を張るようになるのだ。
スノーフレークの白い小花、銀色に輝くシロタエギク、レンガの隙間から逞しく手を伸ばす常緑のフィカスプミラ、春夏は引き立て役だった草花が、眠りにつく準備を済ませた庭園に、控えめながら凛とした彩りを添えている。
プリ・マ・ドンナに急遽抜擢された、若い踊り子のよう。けなげで、応援したくなる。
すっきりと澄んで晴れた空。たおやかに流れる管弦楽の音色。噴水のせせらぎ。耳をくすぐる着飾った人々のさざめき。オフシーズンのガーデンパーティは、コンスタンスにとって居心地がよい。
「コンスタンス、そのカシミアの帽子すてきね。よく似合ってる」
「そのコートドレスもすごくエレガントだわ」
親友のデリアとビアンカに褒められて、コンスタンスはおっとりと微笑んだ。
新調したばかりの帽子とコートドレスは、我ながらよく似合っていると思っていた。何しろ、早めの就寝が利いたのか、お肌のトーンはいつもより明るく、ドレスを着る前に計ったウエストは、先週より六ミリも細い。
もちろん、友人たちの装いもじっくりと観察する。
「デリア、今日はいつも以上に薔薇から生まれた妖精みたいよ。ビアンカ、貴女ったら、会うたびに綺麗になってくわね。そのうち天上の女神たちの嫉妬すら買いそうだわ」
心からの、忌憚なき称賛を送る。
いつもながら美しい親友たちは、首筋の後れ毛、爪先に至るまで、どの角度から見ても完璧に磨き上げられていた。
魔法の鏡が実在したなら、間違いなく、彼はわたし達に向けてこう答えるだろう。『この場でもっともお美しいのは、みなさま方でございます――』と。
「楽しい一日になりそうね。昼餐会が終わったら、ブランシュとリリアーナもこっちに来られるんじゃない? 合流したいわ」
もちろん、かの友人姉妹がこの場にいたなら話は別だ。
魔法の鏡はこう答えるに違いない――世界でもっとも美しいのは、ロンサール姉妹でございます、と。
あの姉妹の美しさは、およそ人に張り合おうという気持ちを失わせる類のものだ。湖に淡く映る銀色の月のように、心の根底を揺さぶられる、圧倒的な美。
親友のひとり、デリア・ビシャール伯爵令嬢が、ひらりと白蝶貝を細工した扇で口元を覆う。
「こんなふうに晴れている日は、出掛けていると良いことがありそう。例えば……そう、星の王子様が、空から降ってくるとかねぇ……」
夢見るような瞳を瞬かせ、至って真面目な調子で、幼馴染のデリアは空を見上げてそう言った。
昔から、彼女の言動は少し不思議だ。浮き世離れしているとも言える。
断っておくと、デリアはものすごくモテる。
眠たげでおっとりした美貌は、異性の目から見ると『たまらなく癒される』らしい。
社交界における人気度で、ブランシュと肩を並べるのは、間違いなくデリアだ。彼女が受けてきた求婚の数は、両手両足の指を足しても数えきれないし、今この時も、多くの若い貴族たちから、熱と甘さをたっぷり含んだ秋波を送られている。
けれど、当の本人は、本気で伴侶を探しているようには見えない。
『近頃は持病の癪の調子が思わしくなく、そんな気になれませんの』(幼馴染として保証するけれど、彼女は至って健康体である)『今世では星の巡り合わせが凶兆ですから、ぜひ来世でお会いいたしましょう』(ふだんは占星術になんか目もくれないないのに!)『字画の相性が微妙ですわね』(意味がさっぱりわからない!)
これはほんの一例で、傍目には妙ちきりんに思える理由を並べ立てては、言い寄る男たちをのらりくらりと煙に巻いて躱していた。
「そうだといいわねぇ、このままじゃ、干物になっちゃいそうよ。ほら見て、ウォルドーフサラダに、サーモンと林檎が入ってるわ。美味しそう! ラムのソテーもあるじゃない!」
自他ともに認める
「よく食べるわねえ、ビアンカ」
「あなたったら、どうやってそのスタイルをキープしているの。わたしはサラダだけにするわ。結婚するまで、このウェストを保ちたいの。油断すると太る質なのよ」
「まさか!」
「あなたが太るなんて、想像もできない」
さて、こうして褒め称え合うわたしたち三名は、今現在、誰とも結婚の約束をしていない。できないのではない。あくまでも、していない。
しかしながら、いくら社交界デビューの時期がちょうど戦時に重なったことを差し引いても、この状況はもうすぐ二十歳を迎える貴族令嬢として、なかなかに稀有な部類に入る。
「はあ……オールドミスと呼ばれる前に、次のお相手を決めてもらわなくっちゃね……」
軽く肩を竦め、わたしは本音を冗談と冷たい風に溶かした。
過去に、わたしには婚約者が一人いた。
とある侯爵家の嫡男だった。将来有望な若者に育ちそうだ――と値踏みした父が、幼少期に決めた相手である。
しかし往々にして、青田買いした土地が、たわわな稲穂の実りをもたらすとは限らない。
十年後、青年となった婚約者は、豊穣な稲穂とは言い難く、せいぜいモヤシかカイワレだった。特に何かに秀でているでもなく、何か造詣が深いわけでもない。
だがしかし、政略結婚とはそういうものだ。思っていたのと違っても、約束は約束。守らねばならない。
このままぼんやりといつか、この話の合わない人と結婚するのだと思っていた頃、転機が訪れた。
隣国ハイドランジアと開戦したのだ。
生粋の武官を排出してきた有力な家柄だったのに、驚いたことに、彼を含む兄弟全員が出征を断固として拒否した。
家長である彼の父親は「臆病者」の誹りを受けたまま枢密院を辞し、一家で領地に逃げ帰ってしまった。それきり、つつましい隠遁生活を送っているらしい。
父が申し入れ、ひっそりと破談にしたのは、四年も前のことだ。幼い頃に結ぶ政略的婚約は、色々な意味で「思ってたのと違う」結果になった。時折、かつてよく訪れた元婚約者のタウンハウスの前を通るけれど、そこは今や、幽霊屋敷のように静まり返っている。
「空から降ってくる星の王子様もいいけれど、地に足のついた人が土からにょきっと生えてこないかしら」
ビアンカ・フォーティナイナーと出会ったのは、ちょうどそのころ、互いに十五歳のときだ。
海辺の小さな領地から来た、自信のなさそうな、やぼったい猫背の男爵令嬢。頬は陽に焼きすぎていたし、目はいつもおどおど泳いでいた。
けれど今、すっきりと背を伸ばした彼女が身に着けているものは、この上なく洗練されている。
斜めにちょこんと被った帽子は、彼女の意思の強そうな綺麗な顎のラインを際立たせているし、肌は白磁のように輝いている。サファイアブルーのコートドレスから覗くモスリンの裾からは、クリスタルビーズがきらきら光る。
ファッショナブルさでブランシュと並ぶのは、間違いなくビアンカだ。
今も年若い令嬢達が、ビアンカをチラチラ見ては、きゃっきゃっと嬉しそうにはしゃいでいる。ビアンカを崇拝する少女達は、ビアンカが先月着ていたものとそっくりのドレスを着て、ビアンカの皿とまったく同じ料理を、いそいそと自分たちの皿に取り分けていた。
「結婚するお相手が、日当たりの良い葡萄の栽培に適した領地をお持ちなら、言うことないのだけれど」
とビアンカは歌うように言った。
フォーティナイナー一家は、遣り手揃いである。
家長たる父親が小さな港から始めた新大陸航路を結ぶ海運業は、長兄がノワゼット公爵の口利きによるコネクションを最大限活用したことにより、大当たりした。
あれよあれよという間に社交界で一目置かれる存在となり、今年に入って、ついに子爵に取り立てられた。
「コンスタンスったら! 『取り立てられた』なんて、気を遣わなくていいわよ。みんなの言う通り、『お金で買った』の方がしっくりくるわ」
彼女の一家を陰で『成金』『新興貴族』と皮肉る人は多い。けれど、卑下どころかどこか誇らしさすら滲ませて、ビアンカはさっぱりと笑い飛ばすのが常だ。
ビアンカの明るい瞳を見ていると、数十年先の未来、世界の中心で笑っているのは、フォーティナイナー家の方だという予感がしてならない。
「娘を、可能な限り高位の貴族に嫁がせようと目論んでるのよ、うちの父は! 欲張って迷っているうちに、花は盛りを過ぎちゃうのにね。わたしは領地経営を自由に任せてくれる夫なら、べつに誰でもいいの。理想は、ワイナリーをやってみたいのよねえ」
自分で色々やってく方が楽しそうだもの、とすっかり垢ぬけたビアンカは言ってのける。
「わたしたち、もうすぐ二十だものね。アンバーの婚約式の招待状、見た?」
「うちにも届いてたわ。みんなは何着てく? 『思いっきり着飾ってきて!』って書いてあったけれど、主役より目立ってしまうと品がないし、あら――? あそこにいるの、マージョリー・ダーバーヴィルズじゃなあい?」
ビアンカの視線の先、葉を落とした薔薇の蔓が絡むガゼボに隠れるように配置されたベンチに座り、一人で皿をつついている令嬢がいる。
華美さを抑えたノーブルなモスグリーンのコートドレスと、揃いの帽子。
フォークで突き回された冷製ニシンは、皿の上でぼろぼろになってぐったりしている。どうやら彼女、食欲がないらしい。
ごく最近まで、マージョリー・ダーバーヴィルズと言えば、活火山から溢れ出るマグマと同義だった。手が付けられない、ってやつだ。
ハートの女王も真っ青になって逃げ出すくらいの癇癪持ちだったが、この頃は水をかけられた暖炉みたいに鎮まっている。
非常に喜ばしい。けれど、やりあう相手がいなくなって、すこしもの足りない気もする。
「レディ・マージョリー! お一人ですの?」
和解して日が浅い友人に手を上げて声をかけると、彼女は、はっとしたように顏を上げた。
そうして、わたしたち三人は揃って、あら? と目を瞠った。
――マージョリー・ダーバーヴィルズったら、今にも泣き出しそうじゃないの。
§
ガーデンパーティの中止が告げられたのは、マージョリーの話を聞いている最中だった。
マージョリーを挟んで、木製ベンチに身体をくっつけて四人並んで腰かけていた。両隣の触れ合った部分から、じんわりと友人たちの熱が伝わる。
隣のデリアが身じろぐと、彼女のお気に入りの香りが淡く鼻孔をくすぐった。マグノリアとフリージア。
「いやだ、侵入者ですって。まさか
「物騒ねえ。心配ですこと」
ちっとも心配していなさそうな平然とした声で、ビアンカは言った。実際、噴水庭園のそこかしこに王宮騎士の姿が見えるから、不安を覚えないのも当たり前だ。
浅葱と白の騎士。黒もちらほら。赤い制服の衛兵も入れたら、数えきれない。
「ふふっ、その侵入者、太陽に向かって行くイカロスみたいね」
わたしは軽く笑って肩を竦める。勇気は認めるけれど、無謀だ。
ローゼンダールの民なら誰しも、王宮を護る騎士の勇敢さと強さに、自信と誇りを持っている。王宮に侵入? 馬鹿馬鹿しい。すぐに王宮騎士に捕らえられるに決まっている。
騎士の後ろ姿が近くに見えた。ガーデンパーティの客たちに、宮殿内へ移動するか、もしくは直ちに帰路につくよう、大きな声で促している。
「ねえ、見てよ。あの白獅子の騎士様、がっしりした肩幅に広い背中! お姫様抱っこだって、軽々となさるんでしょうねえ……」
読んだばかりの小説の一節を思い出して、思わずうっとり口に出すと、デリアがひらりと扇を揺らしながら、愉快そうに目を細めた。
「コンスタンスったら、ブレないわねえ。たしか、五つの頃のあなたの初恋の相手は、お父上の専属護衛騎士じゃなかった?」
「いいでしょ、夢を見るくらい。ロマンス小説を読んだばかりなの。深窓の姫と騎士の恋物語。ありがちだけど、やっぱり王道は最高!」
胸に手をあて、茶目っ気たっぷりに口にすると、ふふふ、と美しい友人令嬢たちはあでやかに笑う。元気のないマージョリーも、つられたように笑ったから、わたしは少しほっと息をつく。
ビアンカが、明るく声を潜めて言う。
「ねえ、声を掛けてみる? こっちには、『レディ・コンスタンスの唇が綻べば、シャクヤクは恥じらって花を閉じる』って新聞を飾るほど、魅力的な微笑があるのよ? あの騎士様、喜んでエスコートしてくださるんじゃない?」
「そうねえ……」
とわたしは考えるふりをした。わたしたちは皆、承知の上だ。
どんな相手にときめこうと、誰かと恋に落ちようと、この人生には何の変化も起こらない。
生涯を共にする相手は、家長である父が決める。
父親たちは、できる限り格上の貴族、可能ならば王族と連なる公爵家と縁組みしたいと願っている。一代限りの騎士爵は、平民と同じ。縁のない人だ。
いずれにしても結婚相手は、剣よりも芸術を好み、労働よりも有閑を好む生粋の貴公子に違いない。
――別に、それでいいわ。
どんなに美しく着飾っても、これはただの自己満足。
わたしたちは、恋物語の主役にはなれない。
視線に気付いたのか、背を向けていた騎士が、こちらに近づいてきた。
「ご令嬢方、屋外は危険ですから、移動していただけますか。よろしければ、安全な場所までお送りします」
正面から見ると、切れ長の眼差しが凛々しい印象を与える美丈夫だった。口調も態度も嫌味がなくて、好感が持てる。
含みのある意味ありげな視線を、ビアンカとデリアがわたしに向ける。「そうね……」と少し逡巡してから、わたしは答えた。
「……いいえ、自分たちだけで参りますわ。父の執務室は、すぐそこの左ファザードの三階ですから」
「そうですか。では、お気をつけて」
にこりと口端を上げ、柔らかな礼をしてから立ち去って行く騎士を見送り、わたしたち四人はベンチからようやく腰を上げた。ビアンカが残念そうに口を尖らせる。
「断っちゃっうなんて、もったいない。送ってもらえば良かったのに」
「ふふっ、やめておきましょう。今日の騎士様はお忙しそうだもの。第一、女同士だけも気兼ねなくて良いものよ。ねえそれより、外でじっとしていると、やっぱり体が冷えるわね」
言えてる――とデリアとマージョリーがほっそりした身体を両腕でかき抱き、揃ってぶるっと震わせた。
「皆でお父さまの執務室に移動しましょう。すぐそこだし、父と側近たちは昼餐会の真最中だから、ゆっくり使えるわ」
「……話の続きを、聞いてくれるの?」
泣くのを堪えるみたいに唇を歪めるマージョリーの肩に、「もちろん」「当たり前!」とデリアとビアンカが間髪入れずに手を置いて答える。わたしもマージョリーの背に手を添えた。
「さ、行きましょう。侍女のサラはいるはずだから、温かいお茶を淹れてもらうわ」
わたしたちは頷き合って、宮殿へと足を向けた。
――この時のささいな選択を、後悔することになるとも知らずに。
世界は、健やかで安全で、禍などとは無縁だと信じていた。いえ、実際はそうじゃない。わたしたちは気付いていながら、目を背けて生きている。
嵐のような暴力が、草陰に身を潜める毒蛇のように舌なめずりしながら、今もどこかで誰かを待ち構えている。
恐れを知らない無知で愚かな獲物を、暗い草むらに引きずり込み、踏みにじり、ゆっくりと弄んで味わうために――。
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