第76話 蛇と賭ける
「――いったいいつから、この王宮は品位を忘失し、けだものの住まう動物園になり下がったのかね」
ドアの方から声が届いた途端、ノワゼット公爵が、「げ」と馬車に曳かれそうになったアマガエルのように呻いた。
「すみません、煩いと仰られて」
扉の前に立つ騎士が、自分が悪いことをしたみたいに眉を下げている。その背後に、異様なオーラを発する一団が現れた。
「儂の執務室まで、獣じみた声が届いたぞ」
紫紺の騎士と付き人を従えたブルソール国務卿が、堂々と踏み入ってくる。
燕尾服にサッシュ。胸に並んだ勲章は、目がチカチカするほどたくさん。杖をつき、腰の曲がった細い老人。けれど、これほど他を圧倒する人が、他にいるだろうか。
長椅子に座っていた一同は腰を上げてそれを迎える。
――その国務卿の血を受け継ぐ、唯一の公女。
見ると、少し落ち着いたのか、エレノアは小さくしゃくり上げながら、次から次へと溢れるものを、ハンカチで拭っていた。
息を押し殺したダーバーヴィルズ侯爵が、国務卿からエレノアへとゆっくりと視線を動かす。
けれど国務卿は、娘であるエレノアに一瞥もくれなかった。
上目遣いで様子を伺うわたしに、ウェイン卿が少し腰を屈め、耳打ちする。
「国務卿の執務室は、この部屋と同じフロアにあるんです」
息を呑んでまじまじと見返す。見透かしたように、ウェイン卿は残念そうに頷く。
「はい、その通り。配置ミスです。蛇とマングースを同じ檻に入れるようなものです」と沈痛な声である。
マングースに例えられたノワゼット公爵は、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「これはブルソール国務卿。私に何か、御用でも?」
国務卿は冷たい瞳を細める。
「品位の欠片もない集団が、いよいよ獣に成り下がり、動物園に鞍替えしたかと心配になりましてな。ノワゼット公爵」
ノワゼット公爵が、冷たい眼差しの上にみるみる美しい笑みを広げた。
「……これはこれは、国務卿がみずから、我々を心配してくださるとは……実は、誠に遺憾なことに、私の婚約者が両陛下主催の昼餐会で、一服盛られましてねえ」
「……ほう」
「いや、ですが、ご心配には及びません。こちらの女性から、たった今、事情を聞いていたところです――ふ……ふふっ」
どうしてか、「お前の娘は人質だ。ほれほれ、恩をたっぷりんこと買いやがれ」と誘拐犯の台詞が聞こえた。わたしったら、疲れているのかもしれない。
しかし、国務卿はエレノアにちらと視線を投げただけで、無関心に目を逸らす。冷たい血が流れる蛇のような一瞥だった。
「……陛下の昼餐会を汚すとはけしからぬ。国家の一大事でございますな」
「まったく同感です。国務卿」
にこにこにこにこ笑う、ノワゼット公爵。
ものすごく嬉しそうだ。甘い飴玉をもらった子どものようだ。
国務卿は冷淡な声で言う。
「即刻、事件を
「へ?」とノワゼット公爵が口を開けた。
「閣下!」とダーバーヴィルズ侯爵がたしなめるような声を上げる。
それらを一切無視して、「そんなことより」――とブルソール国務卿は平然と向き直った。
「ちょうど良かった。ロンサール伯爵。貴殿に話があった」
「は、はい」
流石のランブラーも、動揺していた。碧い虹彩をわずかに揺らし、国務卿に向き直る。
「さて、ブルソール公爵家は知っての通り、後継者の不在に辟易している。そこでだ――」
じろり、と氷の眼差しで、ランブラーを見る。
「貴殿に目をかけてやろう――ロンサール伯爵」
「え?」とランブラーは目を見開く。
「貴殿の有能さは聞き及んでいる。王宮内での人望も厚いとか。見所があるようだ」
「……あ、ありがとうございます。閣下」
訝しげなランブラーに、国務卿は感情の抜け落ちた声で淡々と続けた。
「代わりに、貴殿の従妹のうちひとりを、当家に養女へ寄越せ。どちらでも良いが、ブロンドの方は両陛下のお気に入りのようであるから、黒髪で構わん」
「はあっ!?」と叫んだのは、ランブラーでもわたしでもなく、ノワゼット公爵だった。
ほんの一瞬、固まっていたランブラーが、気を取り直したように完璧な微笑を取り戻す。
「申し訳ありません。閣下、私には意味が解りかねます」
「そのままの意味だ。強大な軍事力で勢力を拡大しつつある東の大国の王は好色で、巨大な後宮があることは知っていよう。機嫌を取りたい各国が、こぞって美姫を献上している。さて、遠方に位置する我が国は機嫌を取る必要はまったくないように思えるが、交易の重要性を考えれば、貢ぎ物はあるに越したことはない。それは使える――」
言いながら、国務卿は振り上げた杖でわたしの顔の方を差した。
「この儂が養女にした後、この上なく高く売ってやる。栄誉なことだ。頭の弱い女の身でありながら、祖国の役に立てるのだから。卑しい騎士などに嫁がされるより、ずっと幸福であろう」
しいん、と謎の沈黙が落ちた。え? どゆこと?? 王家の後宮? なんだか、壮大な歴史ロマンを感じるわねぇ……。自分が外国の後宮に身を置く場面を想像しようとしてみたけれど、もちろん、うまく行くわけなかった。
同じように思ったのか、「あらま」とブランシュが目を丸くしている。
執務室の空気が、恐ろしいほど張り詰めていた。ぎりり、と誰かが奥歯を噛み締めている。
ランブラーはにっこりと麗しい笑みを広げ、深々と頭を垂れる。
「身に余るお言葉、感謝の言葉もございません。閣下。しかし何分、あまりに大それたことゆえ、この場ではお答え致しかねます。また、日を改めて」
薄く細められた碧眼は語る――「あほらしい」と。
そう。ランブラーは面と向かって喧嘩を買ったりしない。綿密な根回しによって法と世論を味方に付け、確実に勝利を得るタイプである。
果たして、ブルソール国務卿は白けたように鼻を鳴らした。
「…………どちらに付くのが貴殿の得になるか、違えぬことを期待しておる。ロンサール伯爵」
言いながら、もう用は済んだとばかりにさっさと扉の方へと足を向ける。
「……お待ちください」
それを地を這うような声で呼び止めたのは、ウェイン卿である。
「――わたしの婚約者への、無礼な言動、とうてい見過ごせません……!」
「その通り! リリアーナはこの私の義妹でもある! 国務卿! 撤回と謝罪を要求する!」
ノワゼット公爵が気勢を上げて立ち上がった。
その周りで、ゆらりと不穏な気配を尖らせる騎士たち。
知っての通り、前向きな積極性をもってどしどし喧嘩を購入するタイプの皆様である。
「ああもう」とランブラーが溜め息を押し殺すのが見えた。碧眼は呆れかえって細められている。
果たして、国務卿は面倒そうに足を止めた。ウェイン卿に冷たい視線を投げつける。
「……その紅の瞳をこちらに向けるな。甚だぞっとする。卑しい生まれの分際で、人殺しの才に恵まれたお陰で、王宮騎士まで上り詰め、それで満足すれば良いものを、伯爵令嬢を娶りたいなどと。失笑ものよ。身の丈をわきまえるがよい」
ぎりり、とウェイン卿が奥歯を噛み締めた。ノワゼット公爵が猛然と口を開く。
「国務卿っ! 無礼な!! 私の部下は国に勝利をもたらした英雄です! 彼の働きなくば、ガリカ谷の勝利は到底得られなかった! 貴殿は戦場もいろはも知らぬくせにっ――」
「あっ、あのう……」
恐る恐る上げたわたしの声は、ノワゼット公爵の息継ぎとちょうどかぶってしまって、意外なほど響いた。しぃん、と静かな視線が集まり、わたしの胸はどきりと鳴る。緊張で火照る顔を、慌てて下げる。
「僭越ながら、国務卿閣下に申し上げたいことがございます」
「……ふむ。許す、顔を上げて述べよ」
「はい――ご心配には、及ばないと存じます」
わたしはおずおずと顔を上げた。ブルソール国務卿卿は怪訝そうにわたしを睨む。
「――娘さんは、戻って来られますもの」
「馬鹿らしいっ!!」
途端、ブルソール国務卿はぎょっとするほど激しく一喝した。鼓膜がびりっと震える。
「二十年も前だ! 儂は婿と孫を失い、唯一生き残った娘は、傷の治りが悪く、頭をおかしくして数か月後に死んだ!! すでに葬儀も済ませ、墓も建てた!! もはや、どうやっても、戻らん!!」
激昂と言って良かった。国務卿の肩がはあはあと息をする度に揺れる。ランブラーとウェイン卿が、わたしを庇うように立ち塞がった。
「――まったく、浅はかな! 異形の騎士にたぶらかされるだけのことはある! 取り柄は顔だけのようだが、若いうちならば使い道は――」
「国務卿!!」と今度はウェイン卿が鋭い声で遮る。
「わたしの婚約者を、これ以上侮辱しないでいただきたい!」
「………では、賭けよ!」
国務卿はじろりとウェイン卿を睨み上げた。
「賭け?」
「そうだ。その娘が言ったことが正しければ、儂は貴様の頼みを何でも一つ、叶えてやろう。だがもし、その娘の言ったことが誤りならば、貴様は……この王宮を去れ。卑しい紅眼の民が、王宮を我が物顔でうろつく状況には、まったくぞっとする!」
「ええ?」と今度はわたしがぎょっとして声を上げた。
「ウェイン卿――」
乗るなよ――とランブラーが目で訴えるのを無視して、ウェイン卿は強く頷いた。
「いいでしょう。その賭け、受けます」
「ええ!?」
わたしが叫ぶと、ブランシュが「あらまあ」と口許を押さえる。「ウェイン卿ったら、本当にあなたが好きなのねぇ」とわたしの耳元でこっそり囁く。こんな状況なのに、どこかわくわくして見える。酔いはまだ醒めていないらしい。
ランブラーが小さく天を仰ぐ。
ノワゼット公爵は、愉快そうに、にまにま頬を緩め始めた。
「約束を、違えぬようにな」
感情の消えた声を残し、国務卿はさっさと立ち去ってゆく。
「閣下!」と叫んで、ダーバーヴィルズ侯爵が胃の辺りを押さえて、それを追いかけてゆく。エレノアをちらと見てから、ノワゼット公爵にむけて「頼みます」と言いたげに目礼をした。
八方美人と揶揄されるカメレオン侯爵の本質は、苦労性なのかもしれない、とわたしは思った。
「何っなんだあいつは! いよいよ耄碌したのか? 冗談じゃない!」
国務卿とダーバーヴィルズ侯爵の一団を見送ってから、ノワゼット公爵は苦々しく毒づく。
ランブラーが呆れたように目を細めた。
「ウェイン卿、あんなのにいちいち反応するなよ。僕がリリアーナを渡す訳ないだろ。意味ないよ、賭けなんて――」
「すみません」とあっさり、ウェイン卿は頭を下げる。
「謝ることはないわよ。リリアーナが大好きなウェイン卿としては、あれは買わずにはいられないわよね! あんまりひどい態度だわ」
ブランシュはやはり、わくわくしている。ノワゼット公爵がにやにやして言う。
「ま、いいんじゃないか。ここにいるエレノア殿を返せばいい。賭けに勝って、次の叙爵式でレクターの爵位を国務卿自身に申請させてやろう。子爵位は固いな」
ノワゼット公爵は満足げに頷き、ウェイン卿の肩にぽんと手を置く。
「それは無理ね」
しかし、落ち着きを取り戻したエレノアはあっさりと否定した。
「賭けなんて、気にする必要ないわ。放っておけばいい。今のあれは、単にわたくしに念を押しに来たのよ。『死んだ人間が、ブルソール公爵家とディクソン公爵家に迷惑をかけるな』って。あの人はそういう人だから」
平然と紡がれる言葉に、「まさか」とわたしの他にも何人かが言った。
エレノアは、ひっそりと微笑む。
「国家には、そういう人間も必要なの。身内への情よりも、国の利益を優先する。そうでなければ、国務卿なんて長く務められるものじゃない」
「いや、しかし、エレノア殿。私としては、あなたを牢に閉じ込めるつもりは――」
ノワゼット公爵が遠慮がちに、まったく意外なことを言うと、エレノアは誇り高く背筋を伸ばした。ぐずる子どもをあやす母親のように、優しく目を細める。
「アラン・ノワゼット公爵。――立派な若者になったわね。マーシャル・ノワゼットとテレジェ・ノワゼットは、うまく子育てを成功させたようね。けれど、気遣いはいらないわ。言っておきますが、わたくしは決して、捨て鉢になっているのじゃない。考えてみれば、わたくしの願いは初めっから、これひとつだったように思うの」
わたしたちは彼女から、ある決意を感じ取った。言葉を失くす一同を、エレノアはゆったりと見回す。
「もう無駄なことよ。わたくしは、王宮に無法者を五人、引き入れました。医務室をかく乱するためにね。彼らは今頃捕らえられ、洗いざらい話しているでしょう」
春の歌を口ずさむように、エレノアは晴れやかに続けた。
「絞首刑になる――これでようやく、レイモンドとあの人のところに行けるわ」
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