第75話 くし形の林檎
その侍女は、離された右手を静かに下ろした。左手の林檎にじっと視線を落とし、無表情のまま荒れた唇を開く。
「それじゃ早速、林檎を剥かせてもらおうかしら」
「ええ!?」
「いや、本当に剥くおつもりですか!?」
わたしとダーバーヴィルズ侯爵が思わず仰け反ったのをついと見やり、侍女は不思議そうに首を傾げた。
「何を驚くのです? わたくしが解放されたのは、王宮における刃物所持の事由が『林檎を剥くこと』であるとレディ・リリアーナ・ロンサールが主張し、それが受諾されたゆえ。にも関わらず、林檎を剥かないというのでは、まったく道理に反します」
真面目な正論である。
「そ、それは、そう……、ですが……」
――ペティナイフをもう一度渡せと?
ウェイン卿を含めた騎士たちは、明らかに警戒を解いていない。ノワゼット公爵は「やれやれ」と言いたげに、肩を竦めている。
ダーバーヴィルズ侯爵が、困惑したように瞳を瞬かせる。
「ですが、ここは一旦――」
その女性の容貌は、ひどく疲れて見えた。
乾きすぎて黒ずみ、ひび割れを起こした肌。目の下の深い隈。ちゃんとしたものを食べているかも疑わしい細すぎる身体は、木綿のお仕着せに包まれている。
およそ人が手に入れたいと願うはずの、美や富や贅といった愉楽から、遠い存在。
けれど、顔を上げた彼女は、はっとするほど威厳のある眼差しで、執務室を見まわした。
「心配するのはもっともだけれど、もう振り回したりしないと誓います。わたくしは、こう見えて、林檎を剥くのは得意なの――」
永遠に過ぎ去った月日を懐かしむように、その侍女は目を細めた。憑き物が落ちたように濁りが消えた虹彩は、きれいな榛色だった。
わたしはその瞬間、彼女の上に誇り高い血脈の幻を見た。
かつて、煌びやかな宮廷人に囲まれ、至高の宝石と例えられ、数多の求婚者に傅かれた、生まれながらの公女――――
「――わたくしは、母親としては甚だしく失格でした。けれど、息子のレイモンドが具合を悪くしたときは、わたくしが手ずから、林檎を剥くことにしていましたから」
執務室に、しんと沈黙が落ちた。正体を明かしたも同然だった。
「ああ……」とダーバーヴィルズ侯爵は俯いてしまったので、その表情は伺えなかった。
「へえ……」と腕を組んだノワゼット公爵が、獲物を見つけた狼のように唇の端を上げる。
「レイモンド……? まさか……」とウェイン卿は赤い瞳を眇める。わたしはがっかりした。恥を偲んであんなに頑張ったというのに、渾身のジェスチャーの意図はちっとも伝わっていなかったらしい。
あら――とかつての公女は顔を上げた。
「息子のことをご存知ですの?」
「ヒューバート・ディクソン公爵から、事の次第を聞き及んでいます」
彼女の目前に立つウェイン卿が、丁重な口調でゆっくり言うと、「ああそういうこと……」とお仕着せを着た貴い人は、わずかに残念そうに息を吐いた。
「なるほど。おおむね理解しました――」
何か言いかけたノワゼット公爵に向かって、彼女は顔を上げた。
「アラン・ノワゼット公爵。――貴方はわたくしに、ここで林檎を剥かせてくださるでしょうね?」
まるで女王のような、誰にも逆らうことを許さぬ、毅然とした態度だった。
ノワゼット公爵はゆっくりと瞬いた。やがて、にこりと麗しい微笑を返すと、仰々しく腰を折る。
「お望みとあらば。仰せのままに――私の執務室に、歓迎いたします」
にやりと片頬を上げ、手を差し出しながら続ける。
「――エレノア・ブルソール・ディクソン公爵夫人」
§
「――わたくし、以前、すごく不思議な夢を見ましたの。鴉とお友だちだと言うおじいさんが、真っ暗な森で、土に向かって釣り糸を垂らして、きらきら光る宝石を釣り上げていたんです。わたくし、それがすごく欲しくなって。物欲しそうに見ていたら、おじいさんが子どもに言うみたいに『いい子だね』と言って、二つ手渡してくださって、わあ嬉しい、と思ったところで、目が覚めてしまったんですの。あんな場所、行ったことも見たこともないのに……夢って不思議ですよねぇ」
気まずいとき、わたしときたら、どうしてこうもくだらないことを滔々と話してしまうのだろう。言い募るほどに、余計に気まずくなるのに。
口を開いたその瞬間から、わたしは後悔していた。目の前の長椅子に腰掛けたエレノアは一心に林檎を剥いているし(使っているのは、新しく用意させたさらに小さな果物ナイフだ)、その手つきを注視するノワゼット公爵の微笑は凍てつくようだし、ウェイン卿ら騎士たちは傍らに威圧感たっぷりに立っている。
ダーバーヴィルズ侯爵は緊張した面持ちで腰を下ろし、ランブラーですら、無言で温かいお茶の入ったティーカップに鼻先を寄せていた。
皆、内心でこの状況を推し量っている。
「ブランシュにアルコールを飲ませたのは、貴女ですか?」
銀色の刃をあてた赤い林檎をくるくる回すエレノアに、ノワゼット公爵が直球を放り投げた。声は氷点下である。
静かな室内には、さりさりと小気味よい音が響いて、透けるほど薄い皮がウォルナットの俎板の上で渦を巻いていく。
エレノアは何も聞こえていない振りをした。
黄金色の美しい球体となった林檎をまな板に据え、ざくりとまっ二つに割る。
「とてもお上手ですね」とわたしはまた沈黙が耐え切れなくなった。「果肉に剥き残しがひとつもないように剥くのって、大変なんですよね」
わざとのんびり聞こえるように言うと、エレノアは少しだけ顔を上げた。
「皮の上のほんの一ミリくらい、果肉の部分も一緒に剥いてしまうの。そうしたら、剥き残しがないわ」
「へーなるほどー」とゆっくり応える間に、林檎はきれいな櫛型となって、整然と白磁の皿の上に並んだ。
「どうぞ」
エレノアが、果物ナイフをローテーブルに置かれた小さな俎板の上に置くと、傍に控えていた騎士がさっとそれを下げる。エレノアは、手渡された濡れ布巾で果汁のついた手を拭った。手入れもされず、痩せて、指の付け根の節のところがひび割れて赤くなっていた。
レイモンドの母親――――。
だとしたら、目の前のこの人は壮年のダーバーヴィルズ侯爵と同年代のはず。けれど、エレノアの見た目は完全に老境のそれだ。
林檎には、誰も手を伸ばさない。胡乱な視線を浴びる罪なき林檎は、このままでは酸化の一途を辿ることになる。
「…………あの、いただきま――」
「令嬢」
たまらず手を伸ばそうとしたら、ウェイン卿の低い声に制止された。
もう! この状況で、どうやって毒を仕込むって言うんですか。白雪姫の継母の魔女じゃないんだから! と内心で叫びながら大人しく手を引っ込めると、ウェイン卿は言った。
「私が先にいただきます」
「え?」
真剣な顔つきでウェイン卿は腰を屈め、添えられた小さなフォークを使って林檎を一切れ、口に運んだ。ぱくぱく、とたった二口で平らげてしまう。任務中は瞬発力が落ちるから何も口にしない、と前に言っていたのに。ごくりと呑み込んで、ひとつ頷いて見せた。
エレノアはその様子をじっと見つめていた。ちらと見返して、感想を求められていると思ったのか、ウェイン卿は口を開いた。
「……私は、母親に林檎を剥いてもらったことはありませんが、もし剥いてもらっていたら、こんな味だったのだと思いました。ごちそうさまでした」
エレノアは目を瞠った。数秒の間のあと、がっくりと崩れ落ちるように項垂れる。
「――わたくしの、負けです」
疲れきって、掠れた声だった。
そのとき、ようやく洗面室のドアががちゃりと開いた。
ノワゼット公爵がエレノアから視線を外し、がばと立ち上がる。
「ブランシュ!! 大丈夫か!?」
「お、お待ちください!」
ダーバーヴィルズ侯爵が上げた制止の声を無視して、エレノアはノワゼット公爵に向かって言い放った。
「――――そう。レディ・ブランシュにアルコールを飲ませたのは、わたくしです」
§
ノワゼット公爵付きの侍女が丁寧にすりおろし、さらに絞ったばかりの林檎果汁を一息に飲み干すと、ブランシュはほっと息を吐いた。
「まあ、それで、わたくし、眠っている間にすごく変な夢を見たんです。雪が降る庭の東屋にアランと一緒に座って、どちらがよりたくさんロイヤルミンスパイを食べられるか、競争しておりましたの。だけど、あれって、そんなにたくさん食べられるものじゃないでしょう? 四切れ目を食べたあたりでお腹が膨れて、アランを見たら甘ったるいパイの上に、エスカルゴの中身をたっぷり取り出して、涼しい顔して言うんです。『おやブランシュ、もう終わりかい? 僕はこれで九切れ目だ! ロイヤルミンスパイとエスカルゴは合う! 君が負けたら、冬祭りの贈り物はカタツムリにさせてもらうからね!』って。わたくし、『冗談じゃないわ! 季節外れが過ぎる!』と言って、憤然と四切れ目を平らげて五切れ目に手を伸ばしたところで――、目が覚めて、そうしたら、すごく胸が悪いんですもの。もうてっきり、ああ、わたくしったら、ロイヤルミンスパイを食べ過ぎたせいだわ――! って、思いましたの」
ああ、わたしたちはやっぱり姉妹だわ――と内心で強く頷いた。
「レディ・ブランシュ……本当にどこも、なんともありませんか?」
ダーバーヴィルズ侯爵がこわごわと尋ねると、ブランシュはにっこりと微笑んだ。
「ええ、お陰様で。すっかり生き返りましたわ」
室内のいたるところに、安堵の嘆息が落ちる。
洗面室から出てきたブランシュは、少しばかりテンションが高いし、顔色は青白かったけれど、間違いなく危機は脱していた。
ノワゼット公爵が、またブランシュの肩を優しい手つきで引き寄せた。ブランシュは珍しく、されるがままになっている。
「ディクソン公爵夫人」
ノワゼット公爵が、険しい声で呼びかける。
「エレノアでけっこうです。ディクソン公爵家とは、もうとうに縁が切れています。現当主のヒューバートは、わたくしが生きていることすら知りません。おかしなもので、わたくしはかつて、あの家を命よりも大事にしていましたが、今ではもう、何の思い入れもありません」
ノワゼット公爵はブランシュの肩を抱いたまま、神妙に頷いた。
「……エレノア殿。今回の件は、到底、許すことができません」
エレノアは眩しそうに、榛色の目を細めた。
「そうでしょうね」
ブランシュがエレノアを真っ直ぐに見つめた。
「本当に、ただのお酒で、他には何も入っていなかったのですよね? その……毒だったり、後から何か出てくるなんてことは……」
表情を失くしたまま、エレノアは頷く。
「ええ。純度百パーセントの、ハーバルランド産『スピリット』です。レモン風味のものよ。疑われるのは尤もですが、誓って、他には何も混ぜていません」
「……どうして、わたくしはそんなものを飲まされたんでしょう?」
ブランシュは問うた。気の強い姉には珍しく、気遣うような口調だった。ええ――とエレノアは姿勢を正す。
「……レイモンドのことを知っているのなら、事件のことはもう、説明しなくても大丈夫でしょうね?」
こっくりと、皆が頷く。
「二十年前、わたくしの周りは、『犯人は第二騎士団ではないだろう』と言いました。けれど、わたくしは、夫を殺し息子を攫ったのは、あなた方に違いないと、信じてきました」
自嘲するみたいに、エレノアは唇を歪める。
「マーシャル・ノワゼットは、冷酷な切れ者だった。あの男なら、レイモンドを拐って、人質にするくらいのこと、やりかねないと思ったから」
お仕着せのスカートをぎゅっと両手で握りこみ、エレノアは声を震わせた。
「二十年前のあの夜、わたくしは人の皮を被った悪魔を、この目で見ました。足元に這いつくばって命を乞う者に向ける目は冷めきっていて、わたくしは生まれて始めて、自分の命を虫けらのようだと感じました。そうして、彼らはあなた方と同じ制服を着ていました」
「ご期待には沿えませんよ。父の仕業ではない」
ノワゼット公爵は間髪いれず断じた。エレノアはうっすらと笑った。
「マーシャル・ノワゼットは、冷血な悪魔だと、皆から云われていたし、わたくしもそう思っていた。会って、問い詰めたかった。それなのに彼は、のらりくらりと逃げたまま、この国から去ってしまった。それでも、どうしても、わたくしは諦め切れなかった。そんな時、レディ・ブランシュの懸賞金の話と、王立病院で劇薬が盗まれたという話を聞いたのです」
「利用できる、と思ったんですね」
ランブラーが平坦な声で言うと、そうよ、とエレノアは深く頷いた。
「レディ・ブランシュが昼餐会の最中に、急に具合が悪くなれば、あなた方は勝手に結びつけるでしょう? 盗まれた劇薬と」
ノワゼット公爵が苦く唇を歪める。
「まったくその通りでした」
エレノアはポケットから小さな小瓶を取り出し、ローテーブルにかちゃと置いた。いかにも怪しげな、茶色のガラス瓶。
「中身はただの砂糖水です。けれど、これがレディ・ブランシュを救える唯一の解毒剤だと言えば、アラン・ノワゼットは言うがままになったでしょう? なんとしても父親を呼び戻すと言うならそれでよし。なんなら、命だって差し出すのじゃないかと思った。レディ・ブランシュの踏んだ影まで拝み倒す偏愛ぶりだと、もっぱらの噂でしたからね。実際、うまく行きそうだった……」
「……その計画を、私が、邪魔した」
ダーバーヴィルズ侯爵が、そこはかとなく申し訳なさそうに言う。
「……裏切られたような気分だったわ。だって、貴方がこの世で一番好きだったのは、わたくしの夫だったでしょう」
「まあ……!」とブランシュが頬を染めて息を飲んだ。
「はははそんな馬鹿な」とダーバーヴィルズ侯爵は乾いた笑みでもってそれを退けた。
「そんなことはないでしょう。あなた方の親密さに、わたくしは随分やきもきさせられました」
「まったくの誤解です」とダーバーヴィルズ侯爵はまた微笑む。
まあいいわ、とエレノアは話を元に戻す。彼女はすべてを、話したがっていた。
ああ、しまった――とわたしは思った。
ずっと、夢を見させてあげれば良かった。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。
エレノアの木綿のお仕着せの膝に、ぱたりと一粒、水滴が落ちた。
「あの悪魔は、第二騎士団。それなのに、それなのに……どうしてよ……」
突然、エレノアはもう堪えきれないというように、堰を切ったように、叫んだ。
「どうしてよ……っ! 婚約者を命よりも大事にする!? 恋人からの合図に、顏を真っ赤に染める!? わたくしの剥いた林檎を食べて、『ごちそうさま』ですって……!? どうして、そんなことするのっ!!」
――どうして、悪魔だと信じさせてくれなかった!
全身を引き絞られたみたいな、悲鳴だった。
「こんなのって、ひどいじゃないの……っ!」
真実に辿り着いてしまった心を、子を失った母親の身体が拒んでいた。細い肩が、手が、ぶるぶると激しく揺れる。
意外なことに、それを見てもっとも狼狽えたのは、ノワゼット公爵だった「エ、エレノア殿……どうか……」と腰を浮かす。
エレノアは頭を抱えて、獣のように咆えた。
「……第二騎士団じゃ、なかった……!!」
たったひとつの、希望だったのに。
犯人が、第二騎士団だったらいい。それならば、レイモンドはきっとどこかで生きている。
もうずっと長いあいだ、まともに眠らず、まともに食べもしないで、レイモンドに会うために、そのためだけに生きてきた――。
深く落ち窪んだ眼から、水滴があふれ落ちる。
「あの子に会いたい!! あの子に会わせて!! あの子に会わせてよっ!!」
駄々をこねる子どものようにむせび泣く彼女に、誰も何も言えなかった。ノワゼット公爵は絶句したまま腰を下ろし、ウェイン卿ら騎士たちは黙ってそれを眺めていた。ランブラーもブランシュもわたしも、口を閉じていた。
――本当に、奇跡が起きればいいのに。
強く願った。ああ、神様。離れ離れにされた親子を、再会させてあげてください。マーク・エッケナーさんが、レイモンドでありますように。
けれど、その可能性は限りなく低い。証明する手立てもない。
窓の外では、変わらずさんさんと陽が照っている。テーブルの上で、きれいな黄金色だった林檎が、悲しみを吸ってゆっくりと錆びてゆく。
あああ――。母の嗚咽が、部屋の空気を震わせる。
「……あの子は、もう……どこにもいない……!」
胸を掻きむしられるようなエレノアの悲鳴が、細く長い錐のように、わたしたちの胸を抉った。
「――いったいいつから、この王宮は品位を忘失し、けだものの住まう動物園になり下がったのかね」
心臓までひやりと凍てつかせる、冷酷な声に遮られるまで――――。
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