第74話 闖入者

 寝台の下にしっかりと両の足で立ち上がると、ブランシュは口許を押さえて洗面室に駆けこんだ。

 付き添おうとしたノワゼット公爵はにべもなく振り払われ、わたしもまた、すまなそうに首を横に振られた。そりゃあ誰だって、こういうときは一人になりたい。


 執務室内では、電光石火の目配せが取り交わされた。

 護衛の為にオデイエ卿と、介助のために熟年の侍女ひとりだけが付き添うことが決定された。すべての采配は、一瞬かつ暗黙の了承のうちに行われた。



「…………大丈夫そうでしたね、ブランシュ」


 ブランシュとオデイエ卿らの閉じこもった洗面室の扉を見つめて、わたしはほうっと胸を撫でおろした。


 執務室には、さっきまでの熱気の名残と、安堵と疲労感とがごちゃまぜになって渦巻いている。


「ああ……本当に良かった。……アルカネット先生、ありがとうございました」


 ランブラーも心底ほっとしたように、頭を下げた。


「あの様子では、水を飲んで安静にしていれば、まあ問題ないでしょう。念のため、酒が抜けるまで一人にはしないように」


 落ち着き払ったアルカネット医師が、鞄の留め金をぱちりと閉じる。


「しかし……アルコールだって? いつのまに、ブランシュは酒を飲まされたんだ? ずっと隣にいたのに、気が付かなかった……」


 長く息を吐きながら、ノワゼット公爵がばつが悪そうに言った。乱れた燕尾服の襟元と前髪を手早く整えている。


「こうなると、グラスが回収できなかったのが悔やまれます。強い酒が入れられていたとしたら、そっちでしょう」


 言いながら、ウェイン卿がコンソールテーブル上のディナー皿に鋭い眼差しを送る。騎士たちの眉間にも、深い皺が寄っていた。


「……事故か?」

「いいや、たとえば白ワインやシャンパンが誤って注がれたとして、あんな風に呼びかけにも反応しないほど、意識を失うか?」

「なら、誰かが悪意を持って、もっと度数の高い、蒸留酒か何かを――」

「レディ・ブランシュのアルコール耐性のなさを知る誰かが、未必の故意で――」


 喧々ごうごう、名推理を繰り広げはじめた騎士たちを横目に、すっかり落ち着きを取り戻したランブラーが一歩前に歩み出た。


「ダーバーヴィルズ侯爵、このたびは、私の従妹いもうとを救っていただき、ありがとうございました。失礼な態度をとった我々をお許しください」


 失礼な態度を取っていたのは全面的にノワゼット公爵だったような気がしたけれど、よくできた従兄は、優美に頭を下げた。


 いやいや、とダーバーヴィルズ侯爵は鷹揚に首を振った。


「礼などいいよ。タンブラー・ロンサール伯爵。このダーバーヴィルズ、ノワゼット公爵閣下のお役に立てたと思えば、無上の喜びでございますから」


 恋する乙女のようにただ一心に、ノワゼット公爵だけを見つめ、ダーバーヴィルズ侯爵は応えた。


「…………」


 名前をコップの一種と取り違えられたランブラーはしかし、いささかたりとも美しい微笑を揺らさなかった。

 もちろん、麗しく細められた碧眼から、「このおっさんとことん目下に興味ねえな」と毒づく内心が読み取れたけれど、それを微塵も顔に出さぬあたり、大した人である。


 一方で、ノワゼット公爵はあからさまに不服そうな咳ばらいを落とす。


「……今日のこのことは、借りとして覚えておく」


「ありがたいお言葉! 閣下。ですが、借りだなんて! このダーバーヴィルズ、寂しい限り。この私めの、ささやかな真心――でございますのに」


 腰を屈めたダーバーヴィルズ侯爵は、ゆったりと声をひそめた。その目と唇は、極限まで薄い三日月である。

 ノワゼット公爵はますます嫌そうに目を細めた。


「あのぅ……ダーバーヴィルズ侯爵様。わたくしからも、お礼申し上げます。ありがとうございました」


 スカートをつまんで控えめに礼を述べると、意外なことに、ダーバーヴィルズ侯爵はこちらに向き直った。


「レディ・リリアーナ・ロンサール。お役に立てたのなら良かった。ええと、たしか、娘から聞いたところによると……トゥウェイン副団長とご婚約とか? おめでとうございます」


 そんな馬鹿な!? と飛び上がりそうになるのを、わたしは寸前で堪えた。わたしの名前が合っているのに、ウェイン卿の名前が惜しいですって!? そんな馬鹿な!?


 愕然と顔を上げ、「あ、ありがとうございます……」と消え入りそうに言うと、ダーバーヴィルズ侯爵はわたしに柔らかく微笑みかけていた。

 しかし、すぐに興味を失ったのか、その視線はノワゼット公爵に戻る。


「そういえば閣下! 来週、当家にて夜会を催すつもりでごさいまして―――」


「…………屋敷の方へ招待状を送っておけ。善処する」


 とてつもなく面倒そうに、ノワゼット公爵は低く唸った。

「お待ちしております!」とダーバーヴィルズ侯爵が両手を擦り合わせたその時、扉の方で、そろりと不穏な気配が動いた。


「どちら様です?」


 訝し気な声を、騎士の一人が上げる。



 女性が一人、無言のまま室内に足を踏み入れていた。


 王宮の侍女のお仕着せに身を包み、顔は黒雲で覆われた空みたいに陰っているのに、雪白の髪には窓から差し込む陽光がきらきらと反射していた。


「何かご用ですか?」と騎士が再び、今度は強めの口調で問う。


 彼女は、乾いてひび割れた唇を固く引き結んでいた。

 先にいるのは、ノワゼット公爵とダーバーヴィルズ侯爵だ。


 彼女の眼差しには、えもいわれぬ凄みがあった。

 部屋の隅にうっかり黒光りする生き物を見つけてしまったときだって、これほど憎々しく睨みつけはしないわ――とわたしは思った。


「誰だ?」


 ノワゼット公爵が、自身に向かってくる闖入者ちんにゅうしゃを不審げに見つめる。誰もが彼女を注視し、合間に騎士たちが鋭く目配せし合っていた。


 けれど、いくら様子が尋常でなくとも、騎士が力づくで取り押さえるには、彼女の佇まいは弱々しすぎた。

 冬枯れた枝のように細い身体は、おとぎ話に出てくる寂しがり屋の森の魔女を思わせる。


 まさしく魔女が呪文を唱えるように、侍女は低く唸った。


「……まさか……まさか……ダーバーヴィルズに、邪魔をされるなんて……!」


 ――あら? 声はけっこうお若い。


 見た目よりもお若いのかしら? いいえそれより……?


 見回すと、皆が訝しげに首を捻っていた。

 現在、この部屋にいる人間のうち、枢密顧問官たるダーバーヴィルズ侯爵をぞんざいに扱って許される人間は、一人しかいない。

 王位継承権第八位を持つ、アラン・ノワゼット公爵のみである。

 それを、呼び捨てですって?


 驚きはしかし、それだけにとどまらなかった。


「ゆるせない……!」


 お仕着せのポケットからそっと抜き出された手。

 枯れ枝のようなそれには、銀色のペティナイフが――鈍い光を放っていた。



 あっ――と声を上げるより早く、侍女は動きを止めた。


 ウェイン卿が、お仕着せの細い腕をしっかりと握っていた。まあ素早い――とわたしは感嘆の溜め息をつく。いつの間に移動したのかしら?


「何の真似だ……?」


 眼光鋭く、ウェイン卿が問う。真剣な声もすごく素敵。

 手首を強く押さえられているだろうに、その侍女は銀色のペティナイフを手放しはしなかった。

 握りこみ過ぎて白くなった指が、抗うあまりぶるぶると震えている。


「ダーバーヴィルズ……! 黒鷹にまで媚を売るとはね……! あの人に顔向けできないとは思わないの……!?」


 叫ばれて、ダーバーヴィルズ侯爵は「はあ……?」と不愉快そうに眉をひそめる。侍女の顔をじっと見つめて、何度か瞬いた。 


「お知り合いですか?」とエルガー卿が尋ねると、ダーバーヴィルズ侯爵はゆるく首を振る。


「いいや……知らな」と言いかけた次の瞬間――「ああああっ!」と叫び声を上げた。


 そのときのダーバーヴィルズ侯爵を、なんと表現すればいいだろう。

 大きく開かれた目はこぼれ落ちそうで、おそらく驚愕のあまり、血走っていた。

 幽霊を見たような――というのは、こういう顔を云うのだわ、きっと。


 実際に、ダーバーヴィルズ侯爵は確かめるみたいに侍女の足先を凝視した。

 何度も何度も、侍女の足と顔の間を、侯爵の視線は往き来する。瞬きもせず。


「やはり、ご存知の者ですか?」


「あ!? あ、ああ!」


 今度は、ダーバーヴィルズ侯爵は大きく頷いた。


「そう! その人は、す、すっかり忘れていたが、うちに縁のある者だ! あとはこっちで何とかするから、手を離してやってくれ! トゥウェイン卿!」


「そういうわけにはいきません――」とウェイン卿は低いトーンで応える。


「――このナイフの、説明をしてもらわないことには」


 らしくもなく、ダーバーヴィルズ侯爵は明確に狼狽えた。


「ああ……それは、その……」


「ダーバーヴィルズ……まさかとは思うが、今日のこれは全て、君の描いた筋書きってことはないだろうな?」


 ノワゼット公爵が地を這うように言う。


「まさか! とんでもない! いや、しかし……」


 不信に満ちた眼差しが、言葉を濁す侯爵とその一行に注がれていた。


 くすくす、と侍女は笑い声を上げた。正気じゃない。――と室内に緊張が走る。


「ふふ、あははっ、はははっ! このペティナイフを持ってきたのはね――」


「林檎を剥くためでございます!」


 はっきりと声高に、わたしは答えた。


 遮られた侍女と慌てていたダーバーヴィルズ侯爵が、ぎょっとしたようにわたしを見た。


「え、令嬢……?」

「リリアーナ?」

「な、なんで?」


 ウェイン卿とランブラーとノワゼット公爵が揃ってぽかんと目を丸くする。


「二日酔いには、林檎の中に含まれる成分がすばらしく効くと、何かで読んだことがございます! ほら、『林檎が赤くなれば医者は青くなる』と云うくらい、林檎は身体にいい! そうでございますよね? アルカネット先生!」


「あ、ああ……まあ……そうです」


 勢いに負けたアルカネット先生は、もごもごと頷いた。


「ですから、ダーバーヴィルズ侯爵様はブランシュのために林檎を剥いてくださろうとした。それで侍女様に、ペティナイフを持って越させてくださったのですね。あら? ちょうど折よく、林檎がここに!」


 テーブル上の果物籠の中には、真っ赤に熟れた林檎がこんもりと盛られていた――小腹の空いた騎士たちがいつでもかぶりつけるようにだろう――。

 それを一つ取り、わたしは侍女に向かって差し出した。


「さ、お願いいたします」


 侍女は怪訝そうにわたしを見た。


「な、何なの、あなた……」


「申し遅れました。リリアーナ・ロンサールと申します。そんなことより、さ、林檎を。お願いいたします」


 侍女は不信たっぷりに眉を寄せた。

「ささ、どうぞ」と笑顔でさらにずいっと突き出すと、気圧されたように、しぶしぶと林檎に手を伸ばす。


 そうして、彼女は林檎を受け取った。



 ――『返しておやり――元の持ち主に』


 こんな非常時に、わたしはどうしてか唐突に、かつて昏睡中に見たおかしな夢を思い出した。


『――昔、願いを叶えてやった対価だ。未来であり、生命であり、世界そのもの。誰かにとっての全て』


 夢の中の不思議な森で、鴉と友達のおじいさんが、わたしにくれた光るきれいな玉が、この林檎のように艶々していたからかもしれない。



 つかつかと歩み寄ってきたダーバーヴィルズ侯爵が、ウェイン卿の前に立つ。

 侍女の手からペティナイフをそっと抜き取り、手際よくハンカチに包むとポケットに仕舞った。

 その間、侍女は不思議そうな顔をして、左手の林檎をただじっと見つめていた。

 ダーバーヴィルズ侯爵が、さきほどまでと打って変わった、真剣な調子で言う。


「どうか頼む。彼女には、何もさせない。この私が、保証する。――どうか。ノワゼット公爵閣下。それから、トゥウェイン副団長」


 やはり惜しかった。


「わたしからもお願いします。ウェイン卿」


 侯爵が無事に聞き取って改めてくれることを願い、力を込めて、「ウェイン卿」とわたしは発音した。


「令嬢……しかし……解放するわけにはいきません」


 真剣に任務に取り組む彼は、まだ気づいていないらしい。


 ――ペティナイフを握っていた侍女の指の形。


 ブルソール国務卿とディクソン公爵様、それからマーク・エッケナーさんと、そっくり同じだった。

 

 だとすると、この方は、『レイモンド』の関係者である可能性がある――――。

 見た目よりも、若く感じられた声。


 もしかしたら、この人は……。


 侍女の制服。ペティナイフ。王宮。多くの目撃者。彼女がこの場で王位継承権を持つノワゼット公爵に向かって「殺す」的なことを口走った瞬間、彼女の絞首刑はほぼ確定してしまうだろう。

 ここは穏便に済ませた方が良い、とわたしは確信めいたものを感じていた。この人を助けなくちゃ、と心の声が叫ぶ。


 けれど、それをこの場で口にするのは憚られたので、わたしはウェイン卿に向かってぴしっと親指を立てて見せた。

 

 ――ほら、親指です!


 思い出して。ぱちん、とウィンクもして見せる。


「ええ?」とウェイン卿はぱちぱち瞬き、白皙の頬をみるみる染めた。


「あら……まあ……なあに……?」


 侍女は、毒気を抜かれたような声を上げた。


「ああほら、レディ・リリアーナ・ロンサールと、こちらのトゥウェイン副団長は、ごく最近、婚約を交わしたそうです。今の可愛らしいジェスチャーはおそらく、恋人同士にだけ通じる、熱烈な暗号の一種でしょう。恋に落ちた若者はたいてい、こういった一見すると気恥ずかしいと思える振る舞いに、心を浮き立たせるものですからね」


 ダーバーヴィルズ侯爵が、侍女のために折り目正しく、やさしい声音で解説してみせた。


「ああ、そういうこと。なるほどねぇ……」


 侍女は、感じ入ったように頷いた。もはや、抵抗する気力を完全に失って見えた。

 右腕を掴まれ、ペティナイフは取り上げられ、左手に林檎まで持たされている。すっかり出鼻を挫かれたせいかもしれない。


「くくく」とラッド卿が吹き出した。「見せつけるなあ」とエルガー卿が笑った。他の騎士たちが、にまにまと頬を緩めていた。


 ウェイン卿の頬を染めていた桃色は、いつの間にか耳にまで広がっている。


 ジェスチャーが正しく伝わっているか、とてつもなく不安を覚えたので、わたしはもう一度、ぴしっと親指を立てた。力いっぱい、ウィンクを飛ばす。


 ――ほらっ! 親指です! 気が付かれました?


「ぐっ」とまるでみぞおちでも殴られたみたいに、ウェイン卿は呻いた。桃色は今や、首筋にまで及んでいる。


「あら、照れているのねぇ」と侍女が納得したように頷いた。


「青春時代が思い出されますな」とダーバーヴィルズ侯爵が真面目な顔で言った。


「こ、公爵……っ!」


 ウェイン卿から救いを求めるような視線を受け、にまにまと成り行きを見守っていたノワゼット公爵が「うんいいんじゃない」と頷いた。



 心からほっとしたみたいに大きく息をついて、ウェイン卿は侍女を解放した。





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