第73話 カメレオンの思惑

「この私めが、お役に立てるかもしれません。ノワゼット公爵閣下」


 ウェイン卿がわたしを背に庇うみたいに身体をずらしてしまったので、声の主を確かめるために、わたしは少し首を伸ばさねばならなかった。


 ――……マージョリーの……お父さま?


 ノワゼット公爵から「ダーバーヴィルズ」と呼ばれた紳士は、扉の向こうで泰然と佇んでいた。眦の尖った瑠璃色の瞳と、褪せたプラチナブロンド。

 『カメレオン』と揶揄されるのに、爬虫類とは似ても似つかない。マージョリーと同じく、くっきりとした目鼻立ちの人である。


 ノワゼット公爵がためらいがちにゆっくりとブランシュから手を離し、立ち上がった。


「……ダーバーヴィルズ侯爵、何の用だ?」


 公爵から低くすごまれたダーバーヴィルズ侯爵は、たちまち困惑したように眉尻を下げた。瑠璃の瞳に卑屈な色が浮かぶ。

 けれど、わたしは直感した。


 この人は、少しも困ってなどいないわ。

 卑屈? とんでもない。


 内心を悟らせぬため、人はさまざまな工夫をする。満面の笑みを浮かべて愛想良くしてみたり、もっともらしく取り繕ってみたり。この人の場合は、過剰にへりくだって見せることで、煙に巻こうとしているのだ。

 ダーバーヴィルズ侯爵は、真実の心を、厚い扉の向こう側――誰にも触れられない深い場所に隠しておきたいらしい。


「これは……お取込み中のところ申し訳ありません。閣下。……ご婚約者たる姫君の体調は、いかがでございますか? まったく、お痛わしい……閣下におかれましては、さぞご心痛のことでしょう。心より、お見舞い申し上げます」


 気の毒でたまらない、と言う風にダーバーヴィルズ侯爵は慇懃に腰を折る。高級な仕立ての燕尾服に流されたサッシュベルトの上で、勲章がしゃらしゃらと音を立てた。

 それは、少しぎょっとするほど芝居がかっていた。


「御託はいい。相手をしてやる暇はない。尻尾を振る相手を間違っているんじゃないか?――ここに毒蛇はいないぞ」


 あからさまな苛立ちを返されて、ダーバーヴィルズ侯爵はひっそりと首を振った。


「もちろんもちろん。――実は、ご事情を耳に挟みましてね」


 ダーバーヴィルズ侯爵は口許を緩めたまま、後を濁した。

「失礼」と声が聞こえたかと思うと、侯爵の背後から騎士が一人、荒々しく扉をくぐってきた。皿とグラスの回収に戻っていたエルガー卿である。


「皿は、無事に回収できました」


 苦く顔を歪めたエルガー卿が、手に持っていたディナー皿を手近なコンソールテーブルに置く。ほとんど手の付けられていないステーキは、肉汁が冷え固まって粘土細工のように見えた。


「ですが、グラスの方は……間に合いませんでした」


 ラッド卿が軽く舌打ち、そのまま何か言おうと口を開きかけたのを、ダーバーヴィルズ侯爵が大声で遮った。


「ええ、ええ。こちらのエルガー卿が赤の広間に駆けこんで来られた時、私はたまたま、その場におりましてね。血相を変えた卿が皿に手を伸ばし、グラスについて給士に問いただすのを見て、ピンときました!

 これは何か大変なことがあったのだ! とね。まったく、恐ろしいことでございます。おちおち食事も楽しめやしない。しかし、給士の手際が良すぎるのも、考えものですな。かといって、そう急がなくて良い、とねぎらえば、ゆっくりしすぎて用意が間に合わぬ畏れがある。まったく、使用人の手綱の締め具合と言うのは、我々貴族階級にとって誠に頭の痛い――」


「ダーバーヴィルズ!!」


 もう我慢ならない、と言う風に、ノワゼット公爵は怒鳴りつけた。


「――要点だけ言え!」


 これは失礼――とダーバーヴィルズ侯爵は胸に手を当て、またもや薄笑いを浮かべた。


 わたしはようやく、気が付いた。

 喜劇役者を彷彿とさせる、大げさでちぐはぐな侯爵の言動。そのせいで、室内の空気はしらけ切っていた。

 ランブラーは訝しそうに瞳を眇め、さきほどまで狼狽えていたオデイエ卿も平静を取り戻し、侯爵を睨みつけている。


 冷静さを取り戻した頭で、わたしは考える。


 もし、ダーバーヴィルズ侯爵がわたしたちの頭を冷やすために、この妙ちきりんな振る舞いをして見せているのだとしたら――この人は、本当はとても頭が切れる人なのではないかしら――――。


「それでまあ、急ぎ馳せ参じた次第です。もしや、閣下がお困りではないかと――」


「毒蛇の手先が! しらじらしい真似はやめろ!」


 とノワゼット公爵は鋭く断じた。


 喧々たる遣り取りを横目に、寝台に横たわるブランシュに、わたしは視線を戻す。顔色が悪い。胸はかすかに上下している。

 力なく投げ出された手を、そっと握ってみる。冷たかった――まるで、ブランシュの中に燃えている炎が、消えゆくようだ。


 再び恐慌状態に陥りそうになって、わたしは自分の頬を、片手でぱちんと叩いた。

 落ち着いて考えるのよ! ブランシュを失う? 冗談じゃない!!


 ――どうして?


 国務卿と修道士の目的が、ブランシュに毒を盛ることだったとして……なぜ、リーグたちを侵入させたの? 

 狙いは、平時よりも少ない医務官を、侵入者騒ぎにかこつけておびき出し、ブランシュから遠ざけるため――だとしたら。


 なぜ?


 ――ブランシュを深い眠りに引きずり込んだは、必ずしも死に直結するものではない……? 


 少なくとも……。


 ――……?


 果たして、ダーバーヴィルズ侯爵は恭しく片手を上げた。彼の背後から、付き人の一人が一歩、足を踏み出してくる。分厚い眼鏡をかけ、厳めしい顔つきの老人だった。巨石のごとく落ち着き払っている。


「ご紹介いたします。当家の主治医、ドクター・アルカネットです。三年前まで王立病院に勤めており、引退しましたのを雇い入れました。お若い閣下と違い、私のような歳になると、一人くらい医者を侍らしておいたほうが、何かと都合が良いのです――」


 ああ……とわたしの口から、感嘆と安堵が混じった声が溢れた。


 そういえば――とわたしは思い出した。

 マージョリーの部屋で見た、愛らしい壁紙。白木の棚の上でちょこんと座る水色うさぎ。かぐわしいローズティー。かいがいしく世話を焼いてくれた笑顔の侍女たち。清潔であたたかな屋敷。


 国務卿の側近にして、ノワゼット公爵の政敵――ダーバーヴィルズ侯爵が、悪い人なのか善い人なのか、わからない。


 けれど、この人は間違いなく、わたしの友人マージョリーの、だ。


 呆気にとられる一同の前で、ダーバーヴィルズ侯爵は柔らかく微笑し、力強く頷いてみせた。



「――腕の方は、保証いたしますよ」



§



 眠ったまま手首の脈をとられるブランシュ・ロンサールを遠巻きに囲む面々を、シオドア・ダーバーヴィルズはさらに一歩退いた壁際で腕を組み、観察していた。


 アルカネットの腕は確かだ。ブランシュ・ロンサールはおそらく、快復するだろう。


 無慈悲の代名詞とも云われる第二騎士団の連中が、心配そうに固唾を飲んで見守っている。冷酷な黒鷹にも、並みの青年らしい顔つきができるらしい。

 少し意外な心地で、自らも心配そうな表情を繕った。


 ――しかも、アラン・ノワゼットにたっぷりと恩が売れた。


 枢密院における私の地位は、いっそう盤石。


 ――あの給士を突き出すのは、いつでもできる。全容を把握してからだ。


 騎士が戻る前に、グラスの回収と給士の身柄を得られたのは、幸いだった。

 もっとも、給士が自から話すことはないだろう。とうてい許しが得られぬことくらい、馬鹿でもわかる。黒鷹どもが、あの給士をどんな恐ろしい目に遭わせるか、想像に難くない。


 ――グラスを揺らし、残った液体の香りをかいだ瞬間、私には起こったことの概ねが理解できた。


『――頼まれた? 誰にだ?』


『は、はい……。お年を召した……古参の侍女殿です。その侍女殿が、僕のところに来て、こう仰ったんです――』


 ――レディ・ブランシュは、スパークリングウォーターよりも、こちらのお飲み物をお好みです。けれど、ご婚約中のノワゼット公爵閣下は「こんなものは淑女らしくない」とレディをお諫めになるのです。一方で、他のご夫人がレディに見せる態度ときたら……ほら、つらいお立場でしょう? お気の毒だと思うでしょう? ですから、こっそりとお水のふりをして、こちらを注いで差し上げて。レディ・ブランシュは、大層、あなたに感謝されるでしょう。


 馬鹿らしい――とダーバーヴィルズは吐き捨てた。


『君はそれを、鵜呑みにして注いだのか?』


 若い給士は、白い頬を紅潮させて狼狽して見せた。さては金を掴まされたな、とピンときたが、あえて触れないでおいた。逃げ道を残してやった方が、人はじたばたとよく喋る。


『その侍女は、僕よりも明らかに偉くて、階級だって上です……だから、その、断りにくくて……。それに、万が一、それが手の込んだ悪戯の類だったとしても、大したことにはなるまいと思ったんです。だって、だって……べつに、


『だが実際に、レディ・ブランシュは昏倒した。 それに毒物が混入されていた疑いが出れば、君は絞首台に一直線だ』


 そんな――と給士は真っ青になった。


『断じて! 断じて嘘じゃありません!! そもそも、僕が受け取ったそれは、開封もされてなかった! 毒なんて入れようがないんです! しかも……僕は……僕は……実は……試してみたんです……』


『……? 試した?』


 がっくりとうなだれていた給士は、いたたまれなさそうに瞬きを繰り返した。

 この男、一見すると誠実そうで、王宮に勤めるからにはそこそこの家柄のはず。ところが、とことん誘惑に抗えぬ質らしい。ダーバーヴィルズは呆れた。


 使用人にはとうてい手の届かぬ風味を思い出しているのか、給士はわずかに瞳をうっとりとさせた。ごきゅりと音を立て、喉仏が上下する。


『はい、飲みました。レディ・ブランシュのグラスに注ぐ前に……一応、確認しておくべきだと思って。なんていうか、すごくまろやかで……喉がかっと熱くなるのも最高で……天国みたいに美味しかった。あれは間違いなく、毒なんかじゃない。ただの――』



 ――ハーバルランド産蒸留酒、『スピリット』でした。



 果たして、診察を終えたアルカネット医師は、つまらなそうに首を振った。

 有能で寡黙なところは気に入っているが、この人生に退屈しきったような態度だけは慣れない。もうすこし愛想があれば、王立病院で出世の道も拓けたろうに。

 落ち着き払った声で、アルカネットは告げる。


「レディ・ブランシュの昏倒の原因は、アルコール中毒かと思われます」


 ああそりゃそうだろうとも。ダーバーヴィルズは内心で深く頷く。


「えええっ!!」と部屋中に驚嘆の声が上がるので、同じく驚いて見せる。


「酒!? なんでそんなものが!?」


「姉が自分で飲んだとは思えません! アルコールをまったく受け付けないんです! ほんの少し舐めただけで気分が悪くなると言って、『ブルームーン』のガトーショコラですら、口をつけないくらいですもの……!」


「そ、それで!? 助かるんだな!?」


 アラン・ノワゼットが掴みかからんばかりに尋ねると、アルカネットは淡々と頷いた。


「問題ないでしょう。少量ならば、このまま寝かせておいても良いですが、どのくらい飲んだか、わかりますか?」


 一同が、ゆっくりと首を横に振る。


「では、荒療治にはなりますが、水を飲ませて体内のアルコールを薄めましょう。起こしますよ?」


「頼む」と言われたアルカネットが、強めの気付け薬を鞄から取り出す。


 問題は――かの侍女が、どこの貴族の手の者か、だ。


 レディ・ブランシュをよく思わぬ貴族は多い。ただの度の過ぎた嫌がらせだろうか?


 ――それともまさか本当に、ブルソール国務卿の……?

 そうだとしたら、自分はやはり、国務卿に従う。いまさら、この地位を手離しはしない。


 そこまで考えたとき、視線を感じて扉の外に目をやる。影のように佇む侍女の姿が、目に飛び込んで来た。


 真っ白な髪を一つに束ね、ガリガリに痩せた身体にお仕着せをきっちりと纏っている。歳は自分より、ずっと上だろう。


 狂気じみた闇を呑んだような眸で、さも憎々しげに、私の方をじっと睨んでいる。


 私がブランシュ・ロンサールを助けたせいで、計画が狂った――とでも云いたげに。



 たかだか使用人風情が、この私を睨みつけるとはいい度胸だな――とダーバーヴィルズは唇の端を歪ませた。


 赤の大広間。昼餐会。両陛下の御前。

 ブランシュ・ロンサールが、口に含んだものに異常を感じても、吐き出せはしない。そこまで見越していたのだ。

 ずる賢い方法で昏倒させた相手の様子を、伺いに来たのか?

 護衛騎士に捕らえさせ、洗いざらい問い質すべきだろうか。しかし……


 ――さてはて? どこかで見たような……? 


 老女の砂漠のように乾ききった面差しに、どこか既視感を覚えて、首を捻る。どこの屋敷で、見かけた使用人だったか……? ずっとずっと、遠い昔に……


「ブランシュ!!」


 何か過りかけた瞬間、呼び声が聞こえて、ダーバーヴィルズは昏い眼差しから視線を逸らす。


 寝台の上で、ブランシュ・ロンサールがゆっくりと目を覚ますところだった。


「ブランシュ!!」

「大丈夫!? ブランシュ!?」

「ブランシュ! わかるか!?」


 ひどく青ざめたまま、ブランシュ・ロンサールは長い睫毛を瞬かせた。


 良かったな、とダーバーヴィルズは心から素直に、そう思った。ただの酒だって、時として命を奪う毒となりうる。あの娘は、いい人間だ。良かった。


 アラン・ノワゼットがその背に両腕を回し、しっかりと抱き起こす。


「ブランシュ! 良かった!! 愛して――」


 それを、ブランシュ・ロンサールは思いっきり押し退けた。寝台から降りながら、猛然と叫ぶ。


「ちょっとアラン! どいてっ……!……っは、吐きそう……っ!!」



 

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