第72話 曙の女神

「――くそっ! くそっ! くそっ!」


 王宮を満たす優雅な空気にそぐわない、耳を疑うような罵り声が聞こえて、ティーカップに口をつけていたランブラーが顔を上げた。

 声のした廊下の方を振り向くと目の端で、ウェイン卿も怪訝そうに振り返っている。


 扉が乱暴に開き、現れた声の主は――ノワゼット公爵だった。乱れた髪、紅潮した顔。これは尋常でない。

 ノワゼット公爵の腕に、小さな子どものように横抱きにされているのは……――ブランシュ!?


「まあっ!?」

「っ!? ブランシュ!?」


 わたしとランブラーは、ほとんど同時に長椅子から腰を上げた。


「レディ・ブランシュ!? 何があったんです」


 険しく眉を寄せたウェイン卿が、素早くベッドルームの扉を開けながら尋ねる。


「やられた……!」


 ノワゼット公爵の声はひどく苦しげで、震えていた。

 そっとベッドに下ろされた身体に、わたしは駆け寄って縋り付く。

 青白い顔で横たわるブランシュは、この世のものでないように美しかった。魂のない人形みたいに。


「ブランシュ? ブランシュ!! どうしたの!?」


 誰よりもきれいでやさしい、自慢の姉――薔薇色に透けているはずの頬が、冷たく白い。蝋のようだ。息は浅い。

 長い影を落とす金の睫毛は、ぴくりとも動かない。


 ランブラーが青ざめて、ノワゼット公爵に詰め寄る。


「ノワゼット公爵!! やられたって、ブランシュに何が!? どういうことです!?」


「ブランシュ……! しっかりしてくれ……!」


 返事もしないでランブラーを振り払うと、ノワゼット公爵は寝台の傍らに跪いた。ブランシュの額に触れる手が、ひどく震えている。

 代わりに、後ろにいるオデイエ卿が口早に応える。


「レディ・ブランシュは、昼餐会の最中に気を失われました。それで、急いで運んで――でも、医務室が……」


 いつも落ち着き払っている彼女が、引きつった頬を紅潮させている。うろたえているのだ。その動揺が、たちまちわたしを含む部屋全体に伝染する。

 オデイエ卿があえぐように息をついて濁した言葉のあとを、ラッド卿が引き継いだ。


「――もぬけの殻だった」

「どういうことだ?」


 ウェイン卿に鋭く返され、ラッド卿が唇を噛む。精悍な眉根に険しい皺が刻まれているけれど、彼は他よりは落ち着いて見えた。


「偶然に学会やなんかの出張が重なって、今日は医務官が平時より少なかったらしい。そこに、侵入者騒ぎで怪我人が出たせいで、次々に呼び出されて、今は――ひとりもいない。キャリエールとアイルに、医務官を探しに行かせた。エルガーは、皿とグラスの回収に戻らせた」


 皿とグラスの回収に戻らせた――? その意味することころは、つまり。

 ランブラーが、ますます青ざめる、


「……まさか……毒……ってこと?」


 そんな――と悲鳴のような声がどこかで上がる。わたしは、反応のないブランシュの頬を撫でる。


「ブランシュ!! しっかりして!!」


「令嬢」とウェイン卿の労わるような声が聞こえて、肩に温かい掌が触れる。泣きたくなった。なんだろう、これは。まるで、小説の中の、最期のお別れの場面シーンのようじゃないの!


「……やられた。しくじった。何か起こるって、知ってたのに。僕は騎士を増やしただけで……馬鹿だった。ブランシュを、連れて来るんじゃなかった。狙いは、医務官の不在……治療できない状況で……毒を……。……また……まただ――」


 ノワゼット公爵の声が、弱々しく掠れて消えてゆく。

 春の終わりに、王立病院から消えた劇薬。もし、あれが体内に入ったなら、助ける術はあるのだろうか。


 ここには、医者すらいないのに。


 迷い子が泣き出す寸前みたいに、ノワゼット公爵は頭を抱えた。


「――また、僕は間違えた」



 §



 ――「けっこうです。公爵様」


 東洋から取り寄せた大粒真珠の髪飾りを、ブランシュ・ロンサールは冷たく一瞥して、目を逸らした。


「すすすみません。し真珠はお気に召しませんでしたか。で……では、そう! サファイアは? きっと貴女の瞳によくお似合いです。うちの鉱山からこれまで出たものの中で最も大きく、傷一つない――」


 彼女は、美しくにっこり笑った。僕の心臓は喜びに跳ねる。冷たい声は告げる。


「けっこうです」


「で、では、最高のクラリティを持つダイヤは? 我が家には、『ヴィーナスの星』と呼ばれる五十八カラットの――」


 白銀の月光が差す湖のような瞳は、冷たい光を放つ。


「どれもこれも、けっこうです」


「……し、しかし、で、では、代わりに何か、何でも、欲しいものは?」


「特にございません」


 ブランシュ・ロンサールはそっぽを向いて、「いいかげんにして」――と言いたげな溜め息をついた。不機嫌そうに碧い瞳を眇めている。


 いい加減にしてほしいのは、こっちの方だ! と叫んでやろうかと思った。それじゃ、どうしたらいいって言うんだ! どうやったら、君は僕を見るんだよ! けれど、口にした途端、たぶんもっと嫌われる。想像だけで死にそうになったので、僕はへらっと愛想笑いを浮かべた。



「そちら、陛下から賜られたのでございましょう?」

「ノワゼット公爵閣下のご権勢ぶりに並ぶ方はいらっしゃいませんことね……」

「流石ですわ……」


 下賜された馬車を前に、ほうっと艶めいた溜め息を落とす、貴婦人たち。

 キャリッジに浮き彫られているのは、王家の紋章である。彼女たちの瞳は、物欲しげな猛獣のようにぎらぎらと潤んでいた。

 戦後、英雄扱いされてからというもの、この王都の誰もが僕の顔色を伺い、気を惹こうとする。


 先回りした夜会の門の前で、待っていた。ブランシュ・ロンサールが出席することは調べがついている。

 どうしてか彼女は、高位貴族が主催する夜会には顔を出さない。こぢんまりとアットホームな夜会が好みらしい。

 その法則を読み解くまで、時間をいくらか無駄にしてしまった。


 計画は完璧だ。陛下から賜った馬車。いつもより多めに引き連れた精悍な王宮騎士――これよりまぶしい背景があるだろうか。

 新調した燕尾服とエナメル靴は僕の魅力を最大限に引き出している。天候も悪くない。風は身を切るように冷たいけれど、星はロマンチックにちかちか瞬いていた。


 どうしてか、これまでのところ――僕はことごとく空回っている。

 たまたま、巡り合わせが悪かったせいだろう。


 この若さで、国内一二を争う高位貴族のひとり。頭も顔もいい。上背もある。自分で言うのもなんだが、女性から見て最良の結婚相手だ。僕に見向きもしない未婚女性など、いるはずがない。

 これまでの人生、女性に不自由したためしがない。駆け引きにさえ、持ち込めれば――彼女は潤んだ瞳で僕を熱っぽく見上げるに違いない――。


 白い馬車から降り立った彼女の姿が見えた途端、期待と喜びが胸にこみ上げた。


「ご機嫌よう! レディ・ブランシュ! ききき奇遇ですね!」


 ブランシュ・ロンサールは、僕の方をちらっと見た。美しい唇に、冷笑が浮かぶ。

 途端に、自分がつまらないダンゴムシやミミズのような存在に思えて、僕の頭の中は真っ白になった。推敲を重ねた、気の利いた言葉は消え去る。

 

「ごきげんよう公爵さま――」


 つまらなそうに。早口で。ブランシュ・ロンサールは足も止めなかった。


「………公爵、非常に言いにくいのですが……今日という今日は、見るに見かねて、思い切って言います。そのう……この世に生きる適齢期の女性は、レディ・ブランシュ・ロンサールだけではありませんよ?」

 

 アイルが、わかりきったことを、とても優しい声で言った。


「…‥‥何がいけなかったんだ……? 虫の居所が悪かったのかな……いや、外が寒いせいか? 早く中に入りたかったんだな……」


 呟くと、騎士たちの目が、痛々しいものを見るように細められた。

 

「……例えば……そう、ティーカップに羽虫が入ったとか。髪のセットがきまらなかったとか。道中、黒猫が前を横切ったとか。朝刊の星占いが微妙な結果だったとか、僕の知らないところで不測の事態が起きた可能性も――?」


「いいえ、違います。公爵。そろそろ現実に目を向けましょう」

「レディ・ブランシュは、肌寒かったのでも、ご機嫌斜めだったのでもありません。ほら、楽しそうにお話しされています――公爵以外の人とは」


 顏を上げると、流行遅れの服を着た、領地がどことも知れないような貧乏貴族の男に、女神の微笑が注がれていた。もったいない!

 貧相な男が目を輝かせて何か言うと、彼女は嬉しそうに笑い返す。

 雲間に金色の月が顏を覗かせたようだった。羨ましくて、憎たらしくて、たまらなかった。


「………彼女の機嫌が直ったようだ。僕も行ってみる」


「ばっ、馬鹿なんですか!?」

「公爵! 正気に戻りましょう!」

「これ以上は訴えられますって!!」

 

 エルガー、アイル、カマユーが愕然とした声を上げるのを、無視して進む。

 ――どうしたら、その笑顔を向けてもらえる? 教えてくれたら。それをもらえるなら、何だって差し出すのに。


 僕に気づいた貧乏貴族は、たちまち身体を硬直させた。


「ノ、ノワゼット公爵閣下っ!? な、なんで、こんなひなびた夜会に!?」


「レディ・ブランシュ、いい夜ですね」


 ちらと一瞥してやると、事情を察した男は真っ青になって逃げ去った。同時に、彼女の顏からもすっと笑みが消えた。僕を見もしない。「そうですかしら」と、離れて行く。


「おかしいな……。あの女神に振り向いてもらうには、どうやったらいいんだ? なあ、ロイ――」


 振り返ると、騎士たちが揃って、しん……と声を失っていた。やるせなく歪んだ皆の顔を見て、失態に気づく。


「ああ……ごめん。まちがえた……」


 ――……ああ、そうか。


 ――もう、いないんだった。



 負け知らずの神童だと、言われていた。

 八歳で、チェスでは誰にも負けなくなった。十二歳で、七か国語をマスターした。政治や戦術の本、一度でも目を通したものは、何年経っても諳じることができる。

 先の戦争では、絶望的と云われた戦局を、次々とねじ伏せた。頭が切れる。天才だ。皆が言う。

 けれど、同じ口が、『あの子は人格破綻している』と囁いていた。


 十三の時、母は言った。


『アラン、あなたはおかしい。わたくしの手には負えないわ……。あなたみたいに罪深い子は、天国に行けないのよ? どうして? どうして、あなたはグラハムやジェフリーみたいに、優しい子になれないの?』


 母の友人の息子が、嫉妬深い奴だった。ささやかに僕を嵌めようとしたから、百倍デカイ罠に嵌め返してやったら、家族みんなで国から出て行くことになった。その直後のことだ。


「きっと……みんな、わたくしが悪かったのね」――唇を噛み締めてゆっくりと首を振る母は、とても悲しそうだった。


 その直後、当時、第二騎士団団長だった父が連れてきた、四つ上で、十七歳の騎士。


『彼の名はロイ・カント。腕が立つし優秀だから、今日から君専属にする。ちゃんと大事にするんだよ?』


「よっしゃあっっす!!」と鼓膜が破れそうな声で叫んだのは、図体のデカイ男だった。

 底抜けにうざい奴がきた――絶対に気が合わない。と不満たっぷりに顔をしかめた僕に向かって、ロイ・カントは太陽のように鮮やかに笑った。


 それから、ロイ・カントはずっと一緒だった。


『まったく……子どもは世の中を真っ直ぐに見る! 斜めに構えない!』

『頭はいいけど、バカでしょう!?』

『こういうときは、ふつうに「ありがとう」って言えばいいんです!』


 誰もが顔色を伺う僕に向かって、歯に衣を着せるということをしない男だった。


 爵位を継いで団長になった後、執務室で二人で飲みながら話した。


『僕は神がかって有能な天才だけれど、常識と腕力には、ほんの僅かに欠けるようだ。そこを、ロイが補う。ほら、これで第二騎士団は無敵だ』


『えっ……! 常識がないって自覚あったんですか!? ……いやそれより……ふっ、しょうがないなぁ。毒食らわば皿までです。地獄の果てまでお付き合いしますよ』


 何言ってんだ、と呆れた声で返した。


『馬鹿馬鹿しい。断っておくが、僕は控えめに言って千年に一度の天才だ。地獄に堕ちる失態など犯すわけがない。しぶとく長生きし、晩年にちゃっちゃと善行施して、天国行きの切符を手にする。ロイも一緒に連れてってやるから、大船に乗ったつもりでいろ』


 大きな男は、呆れたように噴き出した。



 ――けれど、僕は間違えた。



『城に残っているベルフィーヌ王女、十一歳……』


 隣国ハイドランジアは、歴史ある大国。王朝交代となると、近隣諸国のパワーバランスが崩れる。諸外国から反発を喰らう。うちの陛下も良い顔しないだろう。

 幼い王女まで弑したとなると、ハイドランジア国民から恨みをさらに買うだろう。


 その上、ハイドランジア王国は、横に長く広大だ。王都以外の都市――北都、東都、南都も王都に負けないほど栄えている。西都は壊滅させたが、まだ三つもある。またあれをやるのは、気が滅入った。


 王朝を途絶えさせると、現王を見限り様子を伺っている辺境伯らが跡目を狙ってくる。

 国王はともかく、幼い王女は生かしておく方が得策――傀儡にするのだ。


 ――どうするかな……。


 頭の後ろで両手を組んで、椅子の上で行儀悪く身体を反らしてると、ロイが言った。


『ここは人道的に考えて、逃げ道を用意してやるべきでしょう。俺、行ってきます』


『一緒に行くけど?』と言うと、冗談じゃない、と笑われた。


『公爵、ご自身の放つ悪役オーラに自覚ないんですか? ヘルツアス達、人好きするメンバー連れて行ってきます』


 ――ま、大丈夫だろう。


 もう堰を切るだけで、ハイドランジア王朝は沈むのだ。まともに考えて、僕が考えた策に乗らない馬鹿はいないはずだ。


『やばそうだったら、呼子吹け。大軍で突入してやる』

『やばくなりようがないです』


 いつもみたいに笑って、見送って――


 しばらくして――――――



 王城の――塔の上。


 ぶら下がって風に泳ぐ、四つの黒い影。その回りを、飛び交う鴉。



 ――…………なんだ、あれ?



 ――僕は間違えた。




 帰国後、夜を徹して遊び回った。英雄だと持て囃す口は、ひっそりと陰で囁く。


『能天気な冷血漢』『副団長を死なせた』『女、子どもまで、水に沈めたらしいわよ……』


 ――「いいですよね。これ」


 執務室に飾られたタペストリーを見上げて、いつか、ロイがぽつりと呟いた。二世紀ほど前に夭折した芸術家の作品だった。


「気に入ってるならやる。生まれた時からそこにぶら下がってる。僕は特に何の感銘も受けない」


 親切から言ったのに、ロイは呆れた眼差しを向けてくる。


「何言ってんですか。これ、城と交換できるような代物ですよ。そういうことじゃありません。自分のものにしたいとかじゃなくて――」


 明けない夜はない、って訴えてくる――タペストリーを見上げて、ロイは言葉を落とすように言った。開戦して一年。報告のために一時帰国した夜だった。


 闇に包まれた人の世界に、曙の女神アウローラが夜明けを導く、神話の一場面。


 ロマンチストだなぁ、とからかうように返してやると、ははっと照れたように笑ってた。



 それから一年と少し後――ロイのいなくなった執務室で、独りでぼんやり飲んでいた。夜は、永遠に終わらないんじゃないかと思えるほど、長かった。


 目の前に、タペストリーが変わりなく掛かっていた。


 唐突に、声が過った。


「いいですよね、これ――」



 ――明けない夜はない、って訴えてくる



 ――「どうしてでしょう?」


 連れ帰ったロイの身体の横で、セシリアは僕に訊いた。セシリアはただぼんやりとロイの頬を撫でていた。泣きも叫びも、僕を責めもしなかった。

 その横で、まだ幼い子どもが「ぱぱー?」とロイに話しかけていた。

 落ち着いた声が、僕に尋ねた。


 ――どうして、ロイは、敵なんかに、情けをかけに行ったんでしょう? 


 

 ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん、ごめん――――


 

 がたがたっ、と窓が風に激しく揺れて、我に返った。


 こめかみに、冷たい感触。

 ぎょっとして手を離すと、それは、ぼとりと重たく落ちた。

 絨毯の上。

 ランプに照らされて――拳銃が、黒く光っていた。


 ああ、これは良くないよな? ロイ。

 ぼんやりと、話しかけた。

 僕にはまだ、跡継ぎがいないものな。皆をどうする?  戦後処理も残っている。まだもう少し、待っててくれ。すぐに行くから。

 これからは、夜を独りで過ごすのをやめる。闇に、引きずり込まれてしまうから――――。


 全力で、夜遊びに徹した。

 あの夜も、いつものように一晩中遊び明かそうと適当な夜会に繰り出した。


「そういや、グラハム・ドーンはどうしたんだ? 今日も来てないのか? 僕に負けないくらい浮き名を流してたのに、最近はさっぱりじゃないか」


 デビューしたての令嬢を追っかけている、と聞いて、らしくない、と笑った。しかし、もちろん噂は届いていた。

 ロンサール伯爵家の娘が、目の覚めるような美人らしい。


 先代のロンサール伯爵は、たしか戦死だった。開戦初期だったから――随分前のことのような気がした。

 今の伯爵は……あれか。一度見たら忘れない、ぎょっとするほど美形の政務官。有能そうだが、若い。後ろ盾としては物足りない。


 グラハム・ドーンの奴、そんなの追っかけてどうするつもりだ。まさか、たかだが伯爵令嬢と本気で結婚するつもりじゃないだろう。


「お目にかかりたいもんだな」と何の気なしに呟くと、カマユーが冷たい視線を投げてくる。


「公爵……? デビュー間もない純粋なご令嬢に手を出されてはいけません。お遊びの恋は、互いに了解済みの遊び慣れたお相手とするものです」


 わかってるって、と応えながら、カマユーの健全さは眩しかった。

 どうして、闇に呑まれずにいられるんだろう? 自分やレクター、キャリエールなんかは、もうとうに呑み込まれている。

 痛みの感覚に鈍くなれるんだよ。鈍感でいた方が、ずっと楽に生きられるだろう?

 連日連夜、遊び回る僕を見て、呆れ果てた顔をして見せるのに、カマユーは、ジェフリー・ハミルトンの誘いを断ったらしい。あっちのほうが、ずっといいだろうに。変わった奴だ。


 垣間に見せる、ふとした表情から、遊び回っている理由を見透かしているのではないかと思った。

 エルガーとアイルと三人で、申し合わせたように僕を一人にしないように動いていた。

 

「――今日、来てるはずですよ。ほら、あの人だかりの辺りじゃないですか?」


 カマユーの指し示す方に――



 彼女がいた。



 ――明けない夜はないって、訴えてくる。



 見てるか、ロイ、すごいぞ。


 女神アウローラだ。ほんとうにいた。



「……名前、なんだっけ?」



 は? と周りの騎士たちが眉をひそめた。



 なるほど――――。

 グラハム・ドーンめ。確かに、別に後ろ楯なんて、大したものじゃない。第一、僕は天才であるから、コネなんかこれ以上なくても充分やっていける。

 グラハムもそう考えているわけか。毎日毎日、白薔薇の花束を届けているだと? いやらしい下心が見え見えだな。恥ずかしくないのか? 涙ぐましい努力の甲斐あって、二回ほど夜会でダンスを踊った、と。へええー、そういうことか、なるほどねえ。

 

 確かなことは――――


 彼女がデビューして、既に三ヶ月――僕は、かなりの遅れをとっているってことだった。



 その後、気を惹こうとやったことは、ことごとく虚しい空振りに終わった。

 

 いつものように宝石を突き返され、ロンサール邸をとぼとぼ後にしていた。天を仰いだら、月がきれいだった。誰にも聞こえないように、口の中で「ブランシュ、ブランシュ」と唱えてみた。もっと切なくなった。

 恋をすることが、こんなにつらいとは思わなかった。今まで驕ってひどいことばかりしてきたバチが当たってるのかな、と思ったりした。深く長い、溜め息をついた。


「公爵って、意外なほど根性あったんですね」


 エルガーが、感心したように言った。

 この頃には何でか、 騎士たちがやけにフレンドリーに接してくるようになっていた。

 そうかなあ……? と返事しながらふと気付いた。


 どうやっても抑えられなかったあの衝動が、消え去っていることに。

 夜を一人で過ごしても、あんなことはもう、起こらない。

 ロイ、もうちょっと、待たせてもいいか?



 救ってもらったんだ、女神アウローラに。



§



 それなのに――――。


「ブランシュ! お願い! 目を開けて!! 食べたものを吐き出して!!」


 リリアーナの悲愴な声が、執務室に響く。「ブランシュ! 頼む……! 目を開けてくれ!!」とロンサール伯爵も悲痛な声を上げる。

 レクターや騎士たちが、痛ましげに目を伏せている。


「ブランシュ……」


 握った手は、氷のように冷たかった。細い身体を、かき抱く。


「ブランシュ……っ! 目を開けてくれ……! 君を助けられるなら、僕は何もいらないんだ! この命だって――」


「お取り込み中のところ、お目汚し失礼いたします」


 差し出せる!――と吼え終わる前に、背後から卑屈極まる声が届いた。


「――――は?」


 振り返るとそこには――


「………ダーバーヴィルズ……?」


 扉の向こうに、カメレオン侯爵が、腹の中の読めない微苦笑を浮かべて、立っていた。

 この男を見るたび、人が人を嫌うことに、ちゃんとした理由は必要ないのだと痛感する。この男は、とにかくひたすら、得体が知れない。


 どこか嬉しそうに、カメレオンは薄く笑った。この状況を見て、笑える人間がいることが信じられない。



「この私めが、お役に立てるかもしれません。ノワゼット公爵閣下」




  



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