第70話 事態、動くー02
――バケモノめ。
長椅子に深く凭れ、男は呻いた。体に力が入らない。息をする度、肺に走る痛みを少しでも逃すため、浅い呼吸を繰り返す。おかしいぞ。どこをどう間違えて、こうなった――――。
ハーバルランド外交官夫人を脅し、うまく王宮に侵入できた。
あとは、ターゲットを消すだけ。あと少しで、帳消しにできる。あのお方のお怒りを解ける。そう思ったのに――
下卑た笑いが満ちる中、お仕着せに身を包んだ配下のひとり――最近入ってきた女だ――が、すっと右手を上げたのだ。
「質問があります」
ここに連れて来る前、使い物になるか試してみた。
非力な小娘のような外見に似合わず、そこそこ銃の腕は立った。お仕着せのスカートの下、白く細く柔らかそうな足首に巻いた帯革を想像して、知らず頬が緩んだ。
もちろん、配下には、女より遥かに腕の立つ強者を揃えている。しかし、実力は劣ろうとも、華がある女がいるとやはり気分がいい。贔屓目に、柔らかく頷いてやる。
「いいとも」
つれない視線をこちらに向けて、アナベルと名乗った女は口を開いた。
――アナベル。そんな名の白アジサイがあったな。なかなかどうして、この娘の纏うお高く止まった空気に、ぴったり合うじゃないか。
「あと五人、いたはずです。彼らはどこに?」
おや、と内心でひっそり首を傾げる。
「……別のルートで侵入している。詳細は、君らが知る必要はない」
配下のうち、最も手練れの暗殺者は、別の門から侵入させた。この作戦には、何よりも大事な己の命がかかっている。失敗は許されない。「それでは――」とアナベルは淡々とした口調で続ける。
「ロンサール姉妹と
――おいおい。この場でそんなことを言い出して、どんな目に遭うかも分からないほど、愚かではないだろう?
「……それも、知らなくていい」
「では、ターゲットの男は、何者です? 裏切り者ですか?」
「……知らなくていい」
そうですか――と応えたアナベルの気の強そうな眼差しから目を逸らして、ため息をつく。
――残念だ。
気に入っていたのに。この状況でなければ、再教育してやることもできた。
愚か者だって、そう嫌いでもないのだ。女なら、可愛がりようはいくらでもある――だが、この場ではどうしようもない。壊すしかない。惜しむように、思わずため息をついた。
「……どうやら、鼠が紛れ込んでいたようです」
酷薄な声を落としたのを合図に、部屋の空気は一変した。
瞬く間に、腕の立つ男達が細く小さなアナベルの身体を取り囲む。薄嗤いを浮かべ、目をぎらつかせた手下たちは舌を嘗めずった。
まったく意外なことに、アナベルは少しも怯んだ様子を見せなかった。
ゆっくりと顎を引き、海色の瞳をゆらりと揺るがせる。
次にはてっきり、スカートをたくし上げ、白い足に差した銃を抜き取る――と思ったのに、彼女はマントルピースに鎮座する銀の燭台に手を伸ばした。
そうして、現在。
配下の男たちは一人を除いて、絨毯の上に転がっている。一様に白目を剥き、口から泡を吹いて。
目の前で、バケモノが北極海のような瞳をすうっと眇めた。細い手の中で、おそらく王宮の侍女によって曇りなく磨き上げられた燭台が、眩しいほどに光っている。
「――訊かれたことに答えろ。侵入した他の五人はどこだ?
真夜中に降る雪を思わせる冷淡な声を浴びて、まるで怯えた小鹿のように自身の体が強張る。
「まあまあ」と穏やかな声で女を遮ったのは、糸のような目をした男である。
こいつは、どういう事情で俺の配下になったのだったか。確か、なかなか使える奴だから、と誰かが連れてきた。
特に目立った取り柄もない、毒にも薬にもならない男――いつか捨て駒くらいにはなるか、と手元に置くことにした。それが――
「あまり責め立ててやるなよ、アナベル。彼、肋骨が折れちゃってる。可哀想じゃないか」
糸目を一層細めて、男は言った。アナベルと呼ばれた女が、ふっと皮肉っぽく笑う。
「よく言う」
「…………こんな真似をして、ただで済むと思うな。貴様らがどこに逃げようと、
言いかけた途中、ぷっ! と吹き出した糸目の男が、「失礼」と口許を押さえた。
「いや、ごめんなさい。人の
反省――とでも言いたげに、男は片手を胸に当てる。
「オウミ、遊んでないで早く。何なら私がやる」
女の掌中で銀に光る燭台に視線が引き寄せられ、胸がすうっと冷える。
言われたオウミは、弱ったように眉尻を下げて、俺にむかって声を潜めた。
「すみません、彼女、ちょっと短気で。アナベル、暇なら……そこらへんの伸びてる連中、縛っといたら?」
呆れたように海色の目を細めて、アナベルは「だいじょうぶ」と応えた。
「目が覚めても、もう、欲望のままには動けない。二度と」
淡々と、こともなげに発された声を聞いて、視線を下げる。高級な絨毯の上に投げ出されている、配下たちの手足。いずれも歪な方向を向いている。あそこまで曲がった手足は、いつか元に戻るのだろうか、と考えて、もう治す時間など残されていないのだと思い至る。
作戦は、失敗したのだ。
失態を咎める、あのお方の穏やかな声が過る。
――『困ったね。僕に黙って、こんな下手を打たれちゃあ』
些細な出来心。最初はちょっとした小遣い稼ぎのつもりだった。
――『そうだな……王宮にいる男をひとり、消しておいで。どうだい? 他愛もないことだ。それで、手打ちにしてやろう』
けれど、俺は、失敗したのか――――?
「良かったね」
オウミは俺に向かってにっこり笑った。
「君だけは傷が浅いぞ。今から、たっぷりお喋りできる」
じとり、全身に汗が滲む。自分は、怖いのだ。この状況が。あの女の、人ならざるものを思わせる動き。配下の者を打ちのめすときも、眉一つ動かさなかった。氷の彫像のような無表情。この女は、害虫を踏み潰すよりもためらいなく、自身の命を消してみせるだろう――
「……貴様ら、何者だ?」
震える声で問うたその時――
外交官室のドアが、外側から叩かれた。
――助かった。
思わずほっとした自分に気づいて、ぎくりとした。助けなど、来るわけがない。ここは王宮だ。けれど、衛兵や王宮騎士が乗り込んでくることを、自分は期待している。
自分は、この得体の知れない女を畏れている。
理屈じゃない。同じ部屋にいたくない。逃げ出したい。
「どなたか、いらっしゃいますか? 王宮内に侵入者があった模様です。室内の安全確認をさせていただきたく――」
一生、シャトー・グリフに閉じ込められてもいい――ここから連れ出してくれ。
アナベルとオウミが眉を顰め、顏を見合わせた。かと思えば、躊躇いもせず、ドアノブに手を伸ばす。
「……うわぁ。お前ら、ここにいたのかよ」
ドアの向こうから気安い声が聞こえ、己の期待が泡沫に消えたことを知る。
紫紺の騎士が、後ろ手にドアを閉めながら室内に足を踏み入れてくる。――ブルソール国務卿の騎士が、なぜこんな場所にいるんだ。
「レオン?」
「ああ、そっか。ここの外交官夫人、ギャンブル依存症で有名だったね。利用されたか。――いやあ、悪い悪い」
レオンと呼ばれた紫紺の騎士は、少しも悪いと思ってなさそうな軽い口ぶりで言いながら、トレードマークの不気味な白仮面をあっさりと脱いだ。さっぱりと整った顔立ちが現れる。
「俺、しくじったみたい。プファウ達の方が罠で、ブルソールに見抜かれた」
仮面は指の先に引っかけられ、器用にくるくる回っている。アナベルが、ふうん、と感情の読めない顔で頷く。オウミは両手を上げて軽く肩を竦めて見せた。
「まあ、五人もいれば、逃げるくらいなんとかなるだろ」
「それより、レオンも来たならちょうどいい。そいつ、早く吐かせて。
へえ――と凍った眼差しがこちらを向いた途端、びくり、と心臓が跳ねた。
「得意分野でしょう」
壁際で腕を組んだ女が、しれっと続けて言う。
なんだろう? これは? どういうことだろう? 俺はどうなる? さっぱり分からない。
混乱した頭で、雑に散らばったピースを組み合わせ、必死に考える。
ああ、そうか……。俺は、俺は――
アナベルに言われて、二人の男がこちらに向き直る。レオンと呼ばれた男が、物珍しそうに瞳を瞬いた。
「へええ。この人が、あの有名な
青灰色の瞳が、三日月の弧を描く。男の手が、自身の左肩に伸びてきて、ぎくりとするが、その手は軽く埃を払っただけだった。
「敗けて逆らえない弱いものから搾取して、楽しんだか?」
軽く触れられただけで、さっき女に折られた肋骨がズキズキと痛み、思わず顔をしかめる。
「だけど、この程度ならオウミ一人でいけんだろ。俺ちょっと、すごいこと思いついちゃってさ。天才かもしれん。ここに来たのはマジ偶然。おい、おっさん、良かったな。オウミに訊かれて、耐えた人間は今までいない。すごい技が見られるぞ。――冥途への、いい土産になる」
謎の紫紺の騎士は明るい声で言いながら、部屋の隅に掛けられた絵画を外したかと思うと、額縁の裏を探るように撫で始めた。
そのまま、レオンという男はこちらへの興味を失ったように、「さがしものはなんですかあ」と調子っぱずれな歌を小声で口ずさみ始める。
オウミが、柔らかく微笑む。
こいつは、たいしたことなさそうだ。捨て駒くらいにはなるか。そう思っていた――
「すごい汗だけど、大丈夫かい? 事情はわかってる。
優しい口調の中に潜む、底知れないもの。
ああ、わかった。
――俺は、間違えた。
「急ごう。無駄に長引かせるのは、お互いの為にならない」
優しい声が、問いかけてくる。
額から吹き出る汗が玉を結んで、目に入る。激しく瞬きながら、必死で首を横に振る。
「大丈夫だ。アナベルは、レオンの方、手伝ってやって。何を思い付いたかは知らんけど。
アナベルは呆れた溜め息を落としながら、銀の前髪をかき上げた。涼しい声で、「早くね」とだけ言うと、素直にレオンの方に向き直る。
そうして、どこか上の空の様子で、アナベルはぽつりと呟いた。
「……令嬢の……知り合いの中に、
この女は、間違いなくヤバい。
だけど、違う。本当にヤバいのは――――
――ここまで登って来るのは、苦労した。
『おかえり。今日はどうだった?』
かつて、陽が当たらない黴臭い小屋に帰る度、生まれて一度も化粧をしたこともない窶れて醜い母は必ずそう聞いた。
いいことなんかあるわけない。つまらない親から生まれてしまったばっかりに。周りにいるのは、つまらない人間ばかり。生まれる場所を、間違えた。
欲しい物は、何も手に入らなかった。
――おかしいじゃないか。
俺は頭がいいのに。周りの奴らはみんな、馬鹿だ。慎ましくも穏やかな生活? そんなもの、ゴミとしか思えなかった。
だから、何もかも捨てた。
際限なく湧き上がる欲を、満たして生きてきた。一流の家に住み、一流の品に囲まれ、一流の女を抱いた。
うまくやってきた。
天性の、この勘のお陰だ。人の欲望を、金の湧く泉を、嗅ぎ当てる一流の勘。
少しばかり欲をかいて、賭場の他に強制売春にも手を出したのが良くなかった。金は湯水のように湧いたが、どこで知られたのか、青竜の騎士に摘発を受けた。
あのお方の、不興を買う羽目に。
全身はもう、シャワーを浴びたようにぐっしょりと汗で濡れている。
ああ違う。間違えた。ずっとずっと、登っていたはずだったのに。
気づけば――今、深い深い、底にいる。もうどうやったって、這い上がれない。
オウミと呼ばれる男の、柔和そうな顔が綻ぶ。
自慢にしてきた勘が、警鐘を鳴らす。一番やばいのは――――
「――すぐにおわるよ」
――――――この男だ。
あぁ……と咽喉の奥から掠れた声が漏れて、自分が泣き出したいのだと気づく。もう二十年以上、顔も見ていない母の声が、聞こえた気がした。
――『おかえり。今日はどうだった?』
オウミの手が、俺の方に伸びてくる。
母ちゃん! 母ちゃん! と大声で叫び出したかった。
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