第68話 本番の日―04
「証拠がないでしょう」と憐れんだように、みんなが言った。「正義」なんてものは、時代と場所とともに移ろう。保身を選ぶ方が、ずっと賢い生き方だ。
マーシャル・ノワゼットは、王弟だった。この国で彼に逆らおうとするものは、父のほか、誰もいなかった。
それなら、私はもう死んだことにしてほしいと頼んだとき、父はあっさりと頷いた。
そうして、私――エレノア・ブルソール・ディクソンは死んだのだ。
父は気づいていた。私の思いを。普段と変わらない無表情で、「ただし」と父は言った。
「――しばらく待て。必ず、思い知らせてやるから」
ならば、少しだけ待ってやる。
振り仰いだ剣。漆黒の制服。月光に照らされ、袖口に光るカフス――黒鷹の刻印。
あの男の、皮膚を裂き目玉を抉り舌を抜き、念入りに塩を塗り込んでから四肢を八つ裂きにする夢を毎晩、見るけれど。
目覚める度に、それが現実でなかったことに、絶望するけれど。
あの子は、建国以来の二大公爵家の、唯一の血統。利口な男なら、生かして利用しようと目論むに違いない。
暗い森から攫われて、あの子は、今もどこかで生きている。
閉じ込められて、今も助けを待っている。
なぜなら、あの時、私は祈ったのだから。
――『神様、……そんなものいないなら、悪魔だって、誰でもいい。
何でもいいから、あの子を生かして。
私は、何もいらない。この命も、未来も、世界も――
――ぜんぶ、あなたにあげるから』
霞んでゆく夜空。焼け付くような痛みは一瞬で去り、あとはひどく寒かった。身体から、感覚が失われてゆく。何も聞こえなかった。赤い月から冷たい光の触手が伸びてきて、私の頬に触れた。
――目が覚めた時、季節は秋になっていた。
夫の埋葬はもう済んだ――と言われても、ぴんとこなかった。墓石に刻まれた夫の名前を見ても。ひんやりと冷たい、それに触れても。
わかったのは、未来は永遠に閉ざされたということ。世界は昏いまま。もう一生、笑うことはないということ。
ほらつまり、祈りは通じたのだ。ならば、あの子は生きている。そうでなければ、おかしい。変じゃないの。
父には、力がある。父に、任せよう。
怒りに任せてあの男を殺してしまったら、あの子の居場所がわからなくなるかもしれない。あの子の身に、危険が及ぶかもしれない。
――レイモンド。幼くして行方知れずとなった、ブルソール公爵家とディクソン公爵家、唯一の直系。
それは、詐欺師たちにとって、とてつもないご馳走に見えるらしい。
だらしなく涎を垂らして、彼らは甘美な蜜にたかりにきた。
十年が経った頃に現れた、十六人目のニセモノは、命乞いに叫んだ。
『死んでるに決まってる!! 生きてるはずない!! それなら頼む!! 僕を代わりにすればいい! ほら! 眼の色も、髪の色も! あんたによく似てる!! きっと一生、何でも言うことを聞くから! うまく、成り切って、可愛がられて見せるから!! 命だけは! 頼むよぉお!!』
呆然とした。なんて愚かなの。
――あの子の代わりが、お前なんかに務まるはずないじゃないの。
『…………あの子はっ! 生きてる! 決まってるでしょうっ!?』
そう口にした途端、周囲に落ちた沈黙。古参の使用人たちが、気の毒そうに私を見ていた。目が合うと、逸らされる視線。
季節は幾度も移ろい、やがて、最悪なことが起こった。
マーシャル・ノワゼットが、国外に逃げたのだ。
二十年だ。食べ物と言う名の砂を噛んで、身体はとうに元の輪郭を失くして、私は待った。
けれど、レイモンドは、まだ帰らない。
――呼び戻さなくては。
息子のアランが死んだなら、あいつはさすがに戻ってくるだろう。
そうしたら、今度こそ、ちゃんと言わなくっちゃね。
「レイモンドを返して」って。
さあ、レイモンド……もう大丈夫よ。
お母さまには、計画があるの。あなたのためなら、何だってできますからね。ほら――――
――あのロンサール家の、金髪の娘。
あの娘を使えば、きっと簡単ね。あの男の息子に、ずいぶんと大切にされているみたいだもの……。
§
口直しの
――アランったら、ちょっと、神経質過ぎるんじゃないかしら?
今日、何か動きがあるらしい。とリリアーナが掴んできた。わたしの妹ときたら、ちょっと驚くほどに賢くて可愛くて最高なのだ。
国務卿と
広間の壁際には、見知った騎士たちが険しい顔つきで立っている。白獅子の騎士もずらりと並んでいて、実に物々しい。どの角度から刺客が現れても、成功するとはとても思えない。
ここ、赤の大広間は、両陛下が枢密顧問官を招いた昼餐会の真っ最中だ。
巨大なロの字型テーブルの最上座におわすのは、太陽に例えられし国王陛下その人である。そのお隣に、美しい王妃陛下。お二人の間には成人した王子が二人いらっしゃるが、外遊中のために不在である。
コースはアミューズ、オードブル、スープ、魚料理をつつがなく終え、今まさに佳境に差し掛からんとしていた。
とにかく高い天井から、うちの馬車と同じくらい大きなシャンデリアがいくつもぶら下がっている。
弦楽器が奏でる洗練されたリズムに乗って、給士たちが、動きを揃えて入場してくる。左手は後ろにまわし、右手にはメインの皿を載せて。
客と同じ数の給士が、客の背後に一人ずつ音もなく止まる。
今から、最上座の国王陛下から最下座の伯爵にいたるまで、完璧に同じタイミングで皿が給される。
そこに、一秒の違えもない。
『国王は、枢密院のいかなる家臣をも平等に遇す』――を体現するのだ。
ぴったりと息の合った給士の動きは、機械仕掛けのように正確だ。
今、このテーブルに着いている人々こそ、『国王陛下の高潔なる最高枢密院』に名を連ねる、ローゼンダール王国の先行きを決める、枢密顧問官。
――現在における、この国の最高権力者たち。
まあ、それで、
――居心地、悪ぅ……。
目の前に置かれたシャトーブリアンのステーキは、完璧な彩りとバランスで美しく盛り付けられている。ナイフを入れれば肉汁が溢れ出し、舌の上に載せると、ほぐれ溶ける。
けれど、今のわたしには、呑気にそれを味わう余裕なんかない。
――わたし、ちゃんと麗しいかしら?
化粧、崩れてない? 髪、ほつれてない?
血統がものを言うこの場で、自身の身を守る鎧は、この美貌だけだった。
席に居並ぶ、老成した公爵、侯爵、伯爵、その奥方たち――建国記に名が載るほどの名家のお歴々。
それを押し退け、わたしは王妃陛下の近くに座している。
彼らの目は、柔らかく弧を描きながら、語る。
『後ろ盾もないたかが伯爵家の娘が、顔だけで上手く取り入りやがって』――と。針のような視線。ゆったりと微笑んで、わたしはたおやかに瞬いて見せる。
――父が生きていてくれたら、ちょっとはマシだったかしら……?
記憶にある父は虚ろで、話しかけてもたいていのときは無反応だった。わたしは昔から気が強く、ぐいぐい行く性質だったから、仕方なく返事をする――という風だった。
想像するのも難しいけれど、かつては覇気に溢れ、陛下の覚えめでたい日もあったらしい。
跡を継いだ従兄のランブラーは、最高の人で、将来有望には違いないけれど、いかんせん顧問官たちを黙らせるには若すぎる。
隣のアランをちらと見やると、ジェフリー・ハミルトン公爵と一緒に、王妃陛下を軽い冗談で笑わせていた。
向かいの席に座るグラハム・ドーン公爵もまた、寛いだ様子で国王陛下と他愛もない世間話に興じている。
ドーン公爵と陛下の間には、空席がひとつ。
ブルソール国務卿のものだ。
急遽、昼食会は辞退。本当かどうか知らないけれど、軽い風邪を引き、陛下にうつさぬための配慮だとか。
ディクソン公爵もいる。大きな身体を窮屈そうに丸め、黙々とフォークを口に運んでいる。
取っつきにくそうなオーラを発して、いっそ清々しいほどに、彼は浮いている。誰にも、陛下に向かってすら、愛想よくしないからだ。
――リリアーナは……「善い人」だと言っていたわね。
けれど、お声掛けいただいたならまだしも、こちらから国務卿の後継者である公爵閣下(しかもご機嫌ななめ)に果敢に話しかける勇気は持ち合わせていない。
ディクソン公爵の隣には、酸いも甘いも噛分けた老成した公爵とその細君が続く。マージョリーの父であるダーバーヴィルズ侯爵、コンスタンスの父であるバルビエ侯爵、ウィリアム・ロブ卿の父であるロブ侯爵。端の方には、デリアの父ビシャール伯爵や、リリアーナの友人だというグラミス老伯爵の姿もある。
ディクソン公爵とグラミス老伯爵。
――リリアーナったら、こんな場に、二人も友人がいる。本人は気付いてないけど、実はすごく、強者なのよねぇ……。
「――ブランシュも、そう思わないかい?」
優しい声が聞こえて、わたしは王妃陛下に向け、柔らかく頷いて微笑む。
「はい、陛下の仰る通りと存じます」
途端に、辺りにほうっと溜め息が落ちた。
グラスにワインを注ぐ給士は、睫毛を瞬かせ頬を染める。
隣国フローレンベルクの王妹である王妃陛下は、高貴なる
「やっぱり、レディ・ブランシュがいてくださると、食卓に花が咲いたみたい。グラハムとジェフリーも、いつか素敵な女性を連れて来てくださるかしらね?」
年上の王妃から、弟を心配する姉のような眼差しをいたずらっぽく向けられて、ドーン公爵とハミルトン公爵は揃って苦笑を浮かべた。
こっそりと、ほっと小さく息をつく。目の端で、老公爵や夫人たちが皮肉っぽく唇を歪めたのが見えたけれど、いちいち気にしないことにする。
――どうやら、なんとか、ちゃんとできてるみたい……。
今いるこの場所は、この国の頂点。
理想的で、美しくて、優雅で――何もかも完璧。だけど――。
――早く、リリアーナのいる執務室に戻りたいわ。
ほんとうは、完璧に盛り付けられたシャトーブリアンより、リリアーナといっしょにミートパイにお行儀悪く齧りつきたい。
曇り一つない銀食器より、お母さまが実家から持って来た傷の入った天使の羽模様のお皿がいい。
ベルベットの精巧な細工が施された椅子に腰掛けるより、青空の下、芝生の上で寝そべりたい。
胸にふっと淀む、陰り。不満とは言えないような、不満。
自分が、いつか後悔しそうで、怖いのだ。
いつか、やっぱり自由に生きたかった、と。サロンを作って女性たちを輝かせたかった、と。女だてらに経営で身を立てたかったのに――って思わないかしら?
隣に目をやるとアランの横顔が見える。満ち足りた、幸せそうな表情。シャトーブリアンに、優美な手つきでナイフを入れる。
――アランが好き。
傲慢だし、自信家だし、徳が高いとは言い難い。
それでも、ぜんぶ含めて、愛している。
本当は繊細で傷つきやすいところも、瞳が少年みたいにきれいなところも、とろけるみたいな笑い方も、甘い声も、長い指も、首筋も――――。
だから、大丈夫。
結婚したら、きっと忙しくなる。毎日のよう開かれる、パーティーにチャリティー。夢なんて、移ろいやすく儚いもの。
きっとすぐに、忘れる。
シャンデリアの光を弾いて輝くグラスに手を伸ばしながら、わたしは微笑む。
わたしには、わかっている。
アランは彼の父親と、よく似ている。
この人はきっと、わたしが不満を漏らした途端、いいよ、と微笑むだろう。この人は、わたしの為に捨ててくれる。公爵の地位、枢密院、この国すらも。
――だから、わたしは弱音を吐かない。
王宮の給士が、完璧な所作で注ぎ足してくれた、スパークリングウォーター。
レモン風味のそれは、ぴりりと苦い味がして、喉が、ひりつくようだった――
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