第56話 林檎と朝食ー01

 そして、翌日曜日。

 食卓には、焼き立ての林檎デニッシュに林檎のスコーン、林檎のジャム、林檎と胡桃のサラダ、林檎ジュースに林檎ゼリー、角切り林檎がごろごろ入った紅茶が並んでいた。


 ――やっぱり林檎かしら。


 昨日のお茶の席で、『秋の食べ物で一番好きなものは何?』と訊かれて、わたしはそう答えた。そういえば、あの時、料理長のモーリーが近くでクレープシュゼットを火にかけていたように思う。


 あのね――、と重大な秘密を打ち明けるみたいに、ブランシュが声を低くする。

 

「実を言うとわたし、この顔ぶれで朝食を囲む時間が、たまらなく好き」


 食卓のあちこちから、林檎の匂いとともに「同感」という声が上がった。


 シャツに濃い色のセーターを重ね、寛いだ格好のランブラーが、りんごのジャムを薄いトーストにたっぷり塗りながら言う。


「昼食も夕食もいいけど、朝食って言うのが格別だね、なんていうかこう……すごく、親密って感じがする」

 

 その隣で、優美に背筋を伸ばし紅茶に口をつけていたウィリアム・ロブ卿が、にこっと笑う。


「私も、自宅より王宮より、こちらで過ごせる時間が、実は一番好きです」


 わたしの隣で、ウェイン卿が「わたしも同感です」と短く同意する。結局、泊まっていただいた。この屋敷には、客間が数えきれないほどあるのだから。


 窓から吹き込む風が、白銀の前髪をさらっと揺らす。今朝は、お疲れが取れて見える。その精悍な横顔のシルエットときたら、光を放って見える。はあ尊い。この瞬間を切り取って部屋に飾っておきたい。

 うっとりと胸を押さえ溜め息をついていると、「そういえば」とロブ卿が穏やかに笑う。


「第三騎士団――青竜の皆さんがお手柄のようですね? 今朝のどの紙面にも、一面に大きく載っていましたよ」


 ブランシュに崇拝の眼差しを送っていたノワゼット公爵がひとつ瞬いて、ナプキンで口元を押さえる。一拍の間の後、公爵は涼しげに微笑んだ。


「――ああ、そうらしい。さっき、僕も報告を受けたよ。大規模な秘密クラブが、閑静な高級住宅地の一角にあったみたいだね。客は金持ちばかりで、名簿には貴族の名前もあったとか。まったく……またしばらく王宮が騒がしくなるなぁ。何しろ被害者は年端もいかない少女たちで――、あ、失礼、女性の前で話すことでもないね」


 鳶色の瞳を細めてブランシュとわたしに麗しく微笑みかけてから、公爵は美しい所作でオムレツを切り分け始める。


「少女たちが保護されたのは何よりとして、問題は、あの暑っ苦しい熱血ジェフリー・ハミルトンだ」


 第三騎士団団長、ジェフリー・ハミルトン公爵。

 ご自身と年の近い従兄弟の名を、ノワゼット公爵はうんざりした風に口にした。まるで舌打ちしそうな勢いで続ける。


「――これもう絶対、自慢たらったら聞かされるよ。僕はしばらく、王宮に顔出すの控えるよ」


 ランブラーが軽く溜め息を落とす。


「折角の休日なのに、僕とウィリアムはこのあと、王宮に顔出してくるよ。修道士モンクの手下を何人か捕まえたらしい。そのハミルトン公爵に、取り調べの結果を伺ってきます。ま、どうせ無駄なんだろうけど」


 ノワゼット公爵とロブ卿が、揃ってふふっと片頬を上げる。


「ま、難しいだろうね。前に捕まえた連中も、我々が丁重に訊ねても、肝心な部分は何にも教えてくれなかった。修道士モンクがよっぽど恐ろしいらしい。僕らだって充分怖いって自負してるのに。自信喪っちゃうなあ」


修道士モンクについては何も知らない。これまでのところ皆、そう言い張りますね。修道士モンクの機嫌を損ねることは、無法者たちにとって『シャトー・グリフ』に送られるより、絞首刑になるより、怖いようです」


 諦観からか、やけにあっさりした二人の声に、隣に座るウェイン卿や周りに控える黒い騎士が無言で頷いて見せる。

 その時、壁の隅の一角がどよよぉぉおおん、と湿気て淀むのが目に入り、わたしはぎくっとする。淀みの中心にいるのは、カマユー卿だ。窓の外に切ない眼差しを向け、心ここにあらずな溜め息を何度も繰り返している。なるほど――あれはウェイン卿が心配するはずだわ――と内心で頷く。


「お従兄様が直接、聞いてみられたら? お従兄さまの魅了術をもってすれば、口を割らない人なんて、きっといないわ」


 紅茶に蜂蜜をたっぷり掬い入れながら、ブランシュが茶化すように言う。途端にティーカップからは、焼き林檎のような甘い香りが広がった。

 言われたランブラーは、巷で『雨上がりの空に架かる虹のよう』と形容される笑みを浮かべ、悪戯っぽく肩を竦める。


「それでうまく修道士モンクを捕まえられたら、僕ら王宮政務官は、高く積み上がる書類と戦う日々から逃れられるんだけどなぁ」


「あら、修道士モンクが捕まったら、お従兄様のお仕事は少し楽になりますの?」


 わたしの問いに、ランブラーが遠い目をして見せる。王宮政務室のランブラーの机上に聳えていた、アルディ山脈風の書類に想いを馳せていると思われた。


「うん、詳しくは言えないけど、七合目程度にはなるだろう。まったく、憎々しい相手だよ。夏のブランシュの懸賞金騒動だって、依頼主は別にいるとしても、修道士モンクの仕業だし」


 内容とは裏腹に、軽い世間話のように肩を竦めてランブラーは言う。


「その正体が貴族だってことまでは、わかっているんでしょう?」


 ブランシュが食卓に向かって問うと、ノワゼット公爵は鼻の頭にぎゅっと皺を寄せる。


「そう。しかも、枢密院の誰かだろう、ってね」


「まあ、枢密院の?」


 驚いて、わたしは聞き返す。

 ――『国王陛下の高潔なる最高枢密院』

 そこに名を連ねる顧問官と言えば、建国記にも名が載るような高名な家柄ばかりだ。


 ああ、とその一人であるノワゼット公爵は頷く。


「詳しくは言えないけど、ずっと以前、枢密院で立案した法律があった。それは緘口令が敷かれていて、ある時期まで必ず秘密にされるはずだった。市場しじょうを混乱させないよう、準備が必要だったから。ところが――」


 一度大きく息をついてから、公爵は続ける。


修道士モンクは、それを知っているとしか思えない金融操作事件を起こした。修道士の頭巾党モンクスフードはそれで、巨万の富を築いたはずだ」


 まあ、と驚いて見せると、ウェイン卿が、わたしに説明するように優しい声音で後を続ける。


「それぞれの騎士団でも調べていますが、今のところ、まったく修道士モンクの尻尾は掴めないんです」


 ロブ卿がくすっと笑って、冗談めかして続ける。


「それを言うなら、枢密顧問官だけでなく、我々のような王宮政務官である可能性もありますよ。枢密院会議の議事録を作るのは我々の仕事で、政務官なら内容を知れますから」


「真犯人は隣の席の良く知る誰か……だったりして?」


 ランブラーが芝居がかった口調で言うから、わたしは首を竦めて見せる。


「まあ怖い。なにはともあれ、早く捕まるといいですねえ……」


 二つに割ると、それはふわっと湯気が立った。半割りのスコーンに、たっぷりのクロテッドクリームと林檎のジャムを乗せる。崩さないように気をつけて口に運ぶと、さっくり、シャリシャリ、独特の甘酸っぱさが口の中で弾けた。やっぱり、秋と言えば林檎だわ。後で、モーリーにお礼を言わなくちゃ。


 ふと視線を感じて顔を上げると、食卓を囲む全員がこちらを見ていた。


「……ねえ? リリアーナ? もしも修道士モンクを探し出そう、なんて楽しそうなことを考えているなら、今度は絶対、わたしも仲間に入れてくれなくっちゃだめよ?」


 ブランシュが、うふふと意味ありげに小首を傾げると、ノワゼット公爵、ウェイン卿、ランブラー、ロブ卿の柔らかな笑みがみるみる深まった。


「いやそもそも修道士モンクに近づこうなんて、絶対に駄目」

「まさかとは思いますが、修道士モンクに心当たりがあるなら、今すぐここで仰ってください」

「ちゃんと調べて証拠見つけてから言おう――、なんてこと、くれぐれも思わないように」

「危険なことはいけませんよ、令嬢」


 四人の男性からほとんど同時に言い聞かせるように言われ、わたしは思わず口を尖らせる。


「もう、何ですか! そんなこといたしません! 皆さん揃って、わたしを何だと思っておられるんです?」


 周囲から注がれるひどく疑わしげな視線をこほんと咳払いして流し、わたしは話題を変える。


「それよりも、……わたしが気になっているのは、ディクソン公爵様が仰っていた、国務卿のお孫さんの『レイモンド』が襲われた二十年前の事件のことです」


 ああ――とランブラーも言う。


「僕もディクソン公爵が政務室に訪ねて来られた時に聞きましたよ。あれの犯人って、まさか本当に第二騎士団ではないでしょう?」


 幼いレイモンドを襲うなんて――彼は、まだたった五歳。


 ウェイン卿らは胸に手を当て、『やってそう』と言っていたが、わたしには違和感しかない。二十年前とは言え、第二騎士団の騎士が子どもを襲う図なんて、想像もできない。最初は怖かったけれど、知ってみると誰もが優しかったもの。

 

 ノワゼット公爵はうーん、と視線を上げ、考える素振りを見せた。


「二十年前っていうと……第二騎士団の団長は僕の父だった。父……あの人……五歳の僕の寝相が悪いからって、ベッドに横になった僕の身体の両脇に剣を突き刺して、『ほうらっ、これで寝返りうったら君は真っ二つだ。これでお行儀よく眠れるだろうね?』って親指立てて笑ってみせるような、陽気かつ、実に躾に厳しい人だった……」


「へ、へー……」


 ランブラーが微妙な表情を浮かべて、曖昧に相槌を打つ。ノワゼット公爵の眉間の皺が深まる。


「すごくやっていそうな気もするし、すごくやっていなさそうな気もする……。王都にいる引退した騎士たちには聞いてみたけど、皆知らないの一点張り。――ま、もし父に口止めされているなら、僕にすら言うわけないよ。あの人って本当、底が知れないんだ」


「前公爵閣下に、直接お尋ねすることはできないんですか?」


 ランブラーの控えめな問いに、ノワゼット公爵はとても悲しそうに首を横に振る。

 憂いの嘆息をひとつ落としてから、フォークに差した黄色いオムレツを持ち上げて、懐かしむように目を細めた。


「……きっかけは、あれだった。こんな風に良く晴れた秋の日に、母が朝食のトリフ入りのオムレツを口に運びながら、アンニュイな感じで呟いたんだ。――『わたくし、一生にたった一度でいいから、世界一周なんてものがしてみたかったわ。このささやかな夢が叶うなら、このちっぽけな人生も、どんなにか幸せだったでしょうにねえ……』」


「……はあ……」


 ランブラーがまた、曖昧な相槌を打つ。


「それを聞いた父は、その週のうちに僕に爵位を譲り、国で一番豪華な客船を一隻買い上げた。荷物を纏めて、母と選りすぐりの腹心の部下達を連れて旅に出ちゃった。まあほら、あの人、母のこと溺愛してるから。それっきり八年間、一回も会ってない」


 公爵が「一回も」のところに力を入れて言うと、食卓が微妙な沈黙に包まれる。


「ああでも、時々、手紙と土産は届くから――生き生きと元気に過ごしてるらしい。世界をその目で見ることは、母の性に合ってたようだ。屋敷に居る時はいかにも箱入り娘然として、しおらしいお人形のような人だったんだけどなぁ。この前は、ジャングルで少数民族と共闘して人食い虎を退治し、『酋長の家族』に認定されたとかって浮かれた手紙が、変な槍と不気味な仮面と一緒に送られてきた。

 ――でまあ、脱線した話を元の問題に戻すけども、向こうが住所不定で、こっちからは連絡取れないから、真相の確かめようがない」


 王宮のノワゼット公爵の執務室にあった異国情緒溢れる調度品の数々が脳裏を過った。なるほどー、と内心で手を打つ。


「…………ノワゼット公爵って……。一人っ子でしたよね? 今更ですけど、これからも好きなだけ、うちに入り浸っていいですからね……」


 ランブラーがなんだかやるせなさそうにそう言うと、公爵は少年みたいに頬を染めて、少し照れたように笑った。


「まあ、そんなわけで――。二十年前の真相は僕にはわからない。父の仕業だったとして、あの父が、証拠を残しているわけもなし」


 ノワゼット公爵は、お手上げ、という風に肩を竦めた。

 つまり、深く妻を愛する前ノワゼット公爵には、『レイモンド』と同年代の息子がいた。そんな人が、『レイモンド』を襲わせた? いよいよ、あり得ないように思える。

 ロブ卿が、楽しいことを思いついたみたいに柔らかく微笑む。


「……しかし、そうですね。ここはひとつ、第二騎士団は犯人ではない。――という前提に立って、皆で考えてみませんか?」


 ランブラーがいいね、と大きく頷く。


「僕はもともと、犯人は第二騎士団じゃないと思う。もちろん、根拠は精神論だけじゃない。暗殺者が、ご丁寧に制服を着ていたって? しかも、目撃者まで残した? 本当なら大馬鹿だ――まったく腑に落ちない」


 ランブラーが言うと、ノワゼット公爵もふふっと噴き出して頷く。


「確かにね。その点は、まったく父らしくない。あの人は抜かりない人だった。むしろ、父を罠に嵌めようと誰かが画策したって可能性の方が、ずっと有り得るように思う」


 ふぅむ、と食卓を囲む全員が首を傾げて、しばし考える素振りをした。


「……人間って、つい、見たいと願う世界を見てしまう生きものだと思いません?」


 わたしが言うと、皆はきょとんと首を傾げる。構わずに、わたしは続ける。昨夜、このことに気付いたのだ。これもメイアン従騎士のお陰だわ。


「もちろんそれって、悪いことじゃありませんわ。人それぞれ、見たいと願う世界を見ている――誤解を生んだり、噛み合わない、なんて困ることもありますけれど、偉大な芸術や、需要のないところから生みだされる斬新な発明、肌の粟立つような素晴らしい文学や音楽なんかは、人それぞれ違う世界観を持つからこそ、生み出されるんですもの。問題は――二十年前のこの時も、それが起こったんじゃないかと思うんです」


 ふむ、と少し考えて、ランブラーが微笑する。


「ブルソール国務卿は、先代のノワゼット公爵と政治的に対立していた。だから、そう思い込んだ? もしくは、そういう風に、誘導された?」


「なるほど……ですが……それで誰が、得をしたでしょう?」


 ウェイン卿が誰に言うともなく首を捻る。ノワゼット公爵が思案顔で口を開いた。


「ブルソール国務卿と王宮騎士団の両方に敵対する危険を冒す……勇敢だな、実に。いたとしたらその勇気は買うけど、思いつく限り、国内の有力貴族にはいないだろう。表面上は保身的に見えて、実は病的な破滅願望を持つ奴が一人くらい潜んでいる可能性はもちろん、否定できないけども」


 確かにね、とランブラーが頷く。


「虐げられた平民や下級貴族の中には、国務卿や騎士団に恨みを持つ者もいるでしょう。ただし、彼らには公爵家の護衛騎士を倒す力がない。するとやはり、容疑者は上流貴族に絞られる」


「公爵家の護衛騎士って、やっぱり、とてもお強いんでしょうね?」


 わたしが訊くと、ウェイン卿とノワゼット公爵が揃って微笑んで頷く。


「少なくとも、陽炎は使える手練れ揃いです。待ち伏せして闇討ちにしたって、並みの人間に相手できたとは思えませんね」


「例えば――傭兵や兵団の類いだったとしても、難しいと思うよ。公爵付きの護衛騎士に勝てるとしたら、それはやはり、別の公爵付きの護衛騎士か、あるいは王宮騎士だけだろう」


 しん、と少し沈黙が降りて、わたしは口を開く。


「……あのう……国内の貴族では思いつかないっていうと、外国人だったら有り得るってことですよね?」


 ランブラーが目を細めて微笑む。


「いいとこ突くね、リリアーナ。……国務卿と騎士団を内輪揉めさせたかった……。内紛狙い、すごく、有り得ると思う」


 ノワゼット公爵も頷いて同意する。


「周辺諸国――ハイドランジアあたりか。いかにもやりそうだな。昔っから、鉄鉱石の取り合いが高じて殺し合うほど仲が悪い」


 ウェイン卿が首を捻る。


「ハイドランジアの騎士なら、動機、実力ともにあるでしょうが、しかし、そうだとして、護衛付きの公爵一行を襲えるほどの人数を、どうやって送り込んだんでしょう? ハイドランジアとの国境には昔から軍事境界線が張られて警戒されていました。少なくとも二年前の戦争終結まで、抜けるのは相当困難だったはず」


 ランブラーは難しい顔で肩を竦める。


「だけど、ロウブリッターの例もある。中立国ハーバルランドや友好国フローレンベルク経由で入国したんじゃないのか?」


 ウェイン卿が淡々と応えて言う。


「一人、二人の間諜をばらばらに送り込むことはできても、大勢は厳しいと思いますね。わたしは昔、国境警備軍にいました。国境警備隊は、ハイドランジアとの国境はもちろん、友好国フローレンベルクや中立国ハーバルランドとの国境も厳重に警戒していました。集団での密入国なんて不可能です」


 うーん、と皆が唸るのに、わたしは口を開く。


「そう! それこそです! その時、人々は見たい世界を見させられていたんじゃないかと思うんです。本当は、とても単純なことでした。誰でも解るようなものだった。けれどそこに、いかにもな筋書きがあったせいで――」


 途端に、ブランシュがぱっと顔を輝かせる。



「まあ? リリアーナったら、何か思いついたのね!」


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