第57話 林檎と朝食ー02
途端に、ブランシュがぱっと顔を輝かせる。
「まあ? リリアーナったら、何か思いついたのね!」
麗しい姉から、きらきらしく期待に満ちた眼差しを向けられて、わたしは急に気恥ずかしくなる。
「ええと、ほら、あの……ずいぶん前にも、こんな風に、犯人当てをしたことがあったでしょう? あれは、ストランドにいるときでしたけれど。ハーバルランド産の高級酒スピリットが、輸送中に盗難に遭ったというお話。あの……覚えていらっしゃいます?」
「ああ、したね」
「もちろん、覚えているわ!」
にっこり笑うランブラーとブランシュ、それから、あの場に居たオデイエ卿が、壁際でにこっと頷いてくれる。
中立国を名乗る隣国、ハーバルランドは、ハイドランジアとローゼンダールという広大な二国に挟まれた、小さな山岳国だ。
そこから輸入された高級酒『スピリット』が、かつて盗難の被害に遭った。
それを話して聞かせてくれたランブラーとオデイエ卿の声が過る。
――『国境を通る時、確かに馬車の荷台に積まれた箱の中には、スピリットの瓶が詰まっていた。ところが、王都に着いて箱の蓋を開けると、中身のスピリットの瓶だけが忽然と消えていたんだ』
――『それも一本二本じゃなく、大量に、何度も抜かれていた』
――『疑わしき登場人物は三人。国境警備隊に長く勤める四十代の男。馭者として雇われたばかりの若い青年。小売業者で働く女性だ。――犯人は、誰だと思う?』
――『わたしがまだ小さい子どものときに起きた事件ですけど、よく覚えてますよ』
ノワゼット公爵とロブ卿はすぐに思い出した様子で、「ああはい」「その事件ですね」とにっこり頷く。
「僕も覚えているよ。当時は……ほんの子どもだったけど。ドラマチックかつセンセーショナルな事件だったし、何かあると今でも引き合いに出される、有名な冤罪事件だしね……」
記憶の引き出しを開けているらしく、ノワゼット公爵はこめかみを指先で叩いて視線を上に向ける。
「確か……最初に疑われた小売業者で働く女性は、実際は無実だった。だけど、私生活を暴き立てられ世間から袋叩きにされたんだ。訳のある不幸な生い立ち、過去に友人と起こした諍い、少しばかり奔放な異性関係まで、洗いざらい衆目に晒された。まったく……彼女こそ、杜撰な捜査と過熱しすぎる報道が生み出した、悲劇の被害者だよ」
「ええ、私も覚えていますよ。……記憶が確かなら、その女性の疑いが晴れたのは、ずいぶん後になってからでしたよね。アリバイを証明できる人物が船で外国に行っていて、しばらくぶりに帰って来た、とか何か、そんな風じゃなかったですか? その間に、彼女はすっかり犯罪者に祭り上げられていた訳ですが……」
「そうして、真犯人は別にいたんでしょう? しかも、正義を守る側である筈の、国境警備隊員だったなんて! 大金を持っていた理由が、『酔っぱらってふらっと入った店で知らない相手とポーカーをしてビギナーズラックで勝った』ですって? あまりにも杜撰な言い逃れだわ!!」
いつも記者に追いかけられているブランシュは、他人事とは思えないのか、可憐に頬を膨らませる。そんな姉に微笑みかけながら、わたしは言葉を選ぶ。
「小売業者で働く女性は、それはもう、とても美しかったのでしょうね? きっと、誰もがはっと息を呑んで見惚れるほど。そうして、新聞と民衆は彼女に熱狂したのでしょう?」
ウェイン卿はこの事件を初めて耳にした様子で、黙って耳を傾けていた。わたしを見て、不思議そうに首を傾げる。
「令嬢……その事件が、どうされたんです?」
ウェイン卿に微笑み掛けて、わたしは続ける。
「わたし、その話を聞いた時、何か違和感を覚えました。……だってね? おかしくありませんか? 大金を隠し持っていた国境警備隊員は、ポーカーをした相手も店もいつだったかすら、覚えていないと言った。真犯人で間違いないと思われたけれど、証拠不十分で釈放――そこまではまあ、わかりますけれど、その後です」
一つ息を吐いて、わたしは眉をひそめて言う。
「国境警備隊に戻った――ですって?」
ランブラーとノワゼット公爵も合わせて眉根を寄せる。
「まったく、恥知らずも甚だしいよね」
「厚顔無恥にも程があると思う。だけど、それが一体――」
ゆっくりと、わたしは昨夜閃いた考えを口にする。
「わたし、思ったのですけれど……。もし、彼が真実を言っていたとしたら? どうでしょう? 気の毒なスケープゴートが、実はその国境警備隊員の方だったとしたら……?」
「……は?」
一同が怪訝そうに首を傾げたのを見て、わたしは勢い込んで続ける。
「だって、その、考えてもみてください。彼のせいで、国境警備隊はずいぶん新聞に叩かれたのでしょう? 『限りなく黒』『国境警備隊、堕ちた威信』などと書き立てられた。それなのに、釈放後に何食わぬ顔をして古巣に戻った? ……どうしてかしら? 鋼の心臓を持っていたのでしょうか? だって、正義感に駆られた人々が、限りなく疑わしい容疑者へ向ける眼差しって、きっと容赦のないものでしょう?」
「まあ確かに、戻ったところで、針の筵なんて言葉では言い表せない目には遭っただろうね。確か、たぶん独身で、人好きのするタイプでもなかったようだし」
ノワゼット公爵が軽く肩を竦めて言う。
わたしは想像してみる。
限りなく疑わしい、証拠不十分で釈放された男。
その後、彼が受けた仕打ちはどんなものだったろう。
忌むような冷たい視線、悪意に満ちた無視、これみよがしな嫌がらせ、聞こえるように囁かれる陰口、浴びせられる罵詈雑言……それでも彼は、そこに居続けることを選ぶ。
――どうして? 何が、彼をそこに留まることを選ばせた?
「彼は、大金を持っていたのでしょう? それなら、どこか別の場所に移って、ひっそりと生きて行くこともできたはずです……その方がずっと、楽な生き方ですもの。でも、そうはしなかった。――これはあくまでも、わたしの想像ですけれど、彼は真犯人を見つけ出し、身の潔白を証明しようと考えたのではないのかしら? 荷抜きの真犯人捜しをするなら、国境警備隊以上に適した場所はありませんものね」
「つまり、リリアーナは、真犯人は彼じゃないと考えているってこと? それじゃ、他の誰だと――」
訝しそうなランブラーに、わたしは頷く。
「その事件が起きたのは……お従兄さまが幼い頃……それって、『レイモンド』が襲われた二十年前か、そのほんの少し前じゃありません?」
言った途端、一同は何かに思い当たった様子ではっと息を呑んだ。彼らは元々、打てば響くような鋭い性質である。
まさか――、とノワゼット公爵が顎先に手を遣りながら「あの時、僕の歳は……だから……」とぶつぶつ言い始めた。
「確かに、時期は一致しますね」
ウィリアム・ロブ卿が、黒曜石の瞳をゆったりと細めて頷く。
「それって、すごく古めかしいトリックでしょう? 普通なら、それを疑う人が複数、現れたはずです。けれど目の前に、人々の注目を集めてやまない、美貌の容疑者が用意されていました。しかも、彼女は最初、疑ってくれと言わんばかりの態度を取ったのではないかしら。その上、次々に明らかになる彼女の過去ときたら、すごくドラマチックでいかにも悪女らしかった。そうするうち、その筋書きの
こめかみを押さえるランブラーが、考え込む表情を見せた。
「……いや、そうか……そうなるように、誘導されたってこと?……誰でも知っている、ありきたりなトリック――単純なからくりから、大衆も治安隊も、誰もが、目を逸らされていた……?」
ええ――とわたしはゆっくり続ける。
スピリットの瓶が、ぎっしり詰まっていた木箱。王都に着いて蓋を開けると、中味が忽然と消えていた。これって、つまり――
「……盗難事件なんかじゃない。『トロイの木馬』だったんじゃありません?」
神話の中に描かれる、巨大な木馬――その中に潜んでいたのは、数多の敵兵だ。そうとは知らず、トロイアはそれを城壁の中に引き入れてしまい、陥落する。
ぎゅっと眉を寄せて、ウェイン卿が低く呟く。
「――警備隊は、全ての荷を底までひっくり返して改めることはしないでしょう。重さを計り、蓋を開けて確認くらいはしたでしょうが……まして、中立国から届いた荷なら、なおさら。油断があったかも知れない」
「国境を通るとき、警備隊が蓋を開けた時には、スピリットの瓶は綺麗に詰まっているように見えたわけね……」
ブランシュが、なるほどねえ……と感心したような声で続ける。
「人間の身体は、ほとんど水分でできているものね。お酒の瓶と、質量はほとんど変わらないでしょうから。二重底になっていて、その下には、元からお酒なんか入っていなかった。中身は外国から来た刺客だった――ってことね?」
「盗難事件の犯人なんて、元から、存在しなかった……? これは、もっと大きな陰謀――国務卿の家族を襲うために、刺客を潜入させた。敵国による、工作活動だった?」
ノワゼット公爵が、悩まし気に腕を組んで目を閉じる。
「確かに、国境を越えることさえできれば……後はそう難しくない。馬車は外から現れる強盗の類いには気を付けていただろうが、中から出て行く分には――」
例えば、草木も眠る深い深い夜。
人気のない山道を走る幌付き馬車の荷台で、木箱の蓋は内側からそっと開く。窮屈な場所から這い出した彼らは、静かに伸びをして、それから、走る馬車から茂みへと音もなく飛び降りる。――第二騎士団とそっくりの、黒い制服姿で。
ノワゼット公爵は愉快そうに、にやりと片頬を上げた。
「ふ……なるほど。リリアーナの説なら、説明がつくね」
ええ――と頷いたロブ卿が、気遣わしげな溜め息を落とす。
「そうなると……最初に疑われた女性こそ、わざと自身に疑いの目を向けさせた、工作員の一人、ということになりますね」
ランブラーがほうっと大きく息を吐く。感心したように首を振る。
「ああ。この工作活動の成功の鍵は、彼女の演技力にかかっている。さんざん疑わしい素振りを見せて人目を惹き、美しい顔の下には醜い裏があると、人々に信じ込ませる。そうして、『正義の名の元に悪女を断罪する』大義名分とカタルシスを、人々に与える」
「一国が絡み、れっきとした工作員が計画実行したなら……新聞記者が飛びつきそうな甘い
ランブラーがぎゅっと眉根を寄せる。
「やがて、人々はこれを『盗難事件』としか捉えなくなる。『トロイの木馬』の発想が生まれない状況を作り出した後、満を持して、アリバイを証明できる人物を登場させたわけだ。この男も当然、協力者の一人だったんだろう」
「もちろん、その間に哀れな
「……まあ! あんまりにもひどいわ。だって、そうだとしたら……気の毒なのは、国境警備隊の人よね。もう二十年もの間、『泥棒』という目で、周りから見られ続けてきたってことでしょう? それって、気の遠くなるような話だわ……」
やるせない声でブランシュが言うと、朝食の席には居たたまれないような沈黙が落ちる。
しかも――とランブラーが残念そうな声で言う。
「これが本当なら、かの女性はもうとっくに、ローゼンダールから去っているだろう。ほとぼりが冷めた頃、適当な口実をつけて国外逃亡したに違いない。そのアリバイを証明した男も、また同様だろうね……」
ノワゼット公爵が強く眉根を寄せて、困ったような声で呟く。
「そうだな……この説を立証できるか……? 立証できたら、あの毒蛇ブルソールの鼻を明かせるな。――ちょっと考えとく」
ぷうっと薔薇色に輝く頬を膨らませて、ブランシュが憤って見せる。
「だけど、そんな風に人々を騙しておきながら、その女はまんまと逃げおおせて、どこかで幸せに暮らしてるってこと!? 無実の人が二十年も苦しんでいるのに!? とてもじゃないけど、許せないわ!」
ノワゼット公爵が、ぷりぷりと腹を立てるブランシュを愛おしそうに見つめる。
それはどうでしょうね――と穏やかな声で言ったのは、ウィリアム・ロブ卿だ。理知的な瞳を穏やかに細めて、彼は柔らかに言葉を紡ぐ。
「この説が
その穏やかな声音が、珍しく底冷えするように響いて、わたしはどきりとする。まあね、と応えたノワゼット公爵も、氷のように冷ややかに笑う。
「何に釣られたかは知らないけれど、敵国の工作員に乗せられ、祖国を裏切った若く美しい女性……ねえ。使い道があるうちはともかく、そういった連中は、情報が漏れることをとかく嫌う。そうして人は、どうやったって生きているうちは、貝になれない」
うっかりその女性の末路を想像してしまって、ぞくりとわたしの背は冷える。
一方でさ――と明るい声で言ったのはランブラーだ。
「国境警備隊の男は、想像よりも、そう不幸ではなかったかも知れないよ? もちろん、最初のうちはそうだったかもしれないけれど。どこにでも、本質を見抜ける人間や、偏見に惑わされない人が少数はいるものだ。彼が真面目に勤め、犯人捜しをしていたなら、それに気づく人もいたのじゃないかなあ? ほら、少なくとも、彼の釈放時に、口を利いた貴族がいたはずだ。もしかしたら、割と早い段階で、彼は味方を得ていたのかも」
「そうだといいです……」
しんみりと呟くと、ふと優しく笑うウェイン卿と視線が合う。
「それだと、黒幕は誰だ……? 中立国ハーバルランドか……いやそれとも、ハーバルランドを経由したハイドランジアの工作員……」
眉根を寄せたノワゼット公爵が自問自答するように呟くと、ランブラーがそれに明るく応える。
「もし黒幕がハイドランジアなら、ロウブリッターが知っているかも。彼、諜報員でしょう? 国務卿の家族を殺害し、騎士団と対立させる――かなり大掛かりな工作活動です。諜報部員には引き継がれているんじゃないですか? もっとも僕は、ハイドランジア人がそこまで卑劣なことをするとは、思いませんけど」
黒幕がハイドランジア? どうかしら――とわたしは内心で首を傾げる。
――『お前……それじゃ、誘拐じゃないか!』
わたしが誘拐されて船に乗った際、アナベルはレオンに怒っていた。プファウやオウミたちも同様だ。誘拐を「卑劣」だと憤る、騎士道精神に溢れる彼らの仲間が、『レイモンド』を襲った?……この説もやはり、違和感を覚える。
「わたしも……ハイドランジアではないように思いますけれど」
けれど涼しげに微笑んで、ノワゼット公爵はあっさり首を横に振る。
「いやいやー、時代が変われば人も変わるから。どうとも言えないよ」
差し込む秋の陽に金の髪を煌めかせ、天使のように微笑むランブラーが、ナプキンを膝から除ける。いつの間にか、朝食の皿は空っぽだ。わたしを見て、明るい声を出す。
「――さて、秋の空は高く、風は心地好い、素晴らしいお出かけ日和じゃないか。ウェイン卿とリリアーナ、これから出掛けるんだろう?」
ウェイン卿と顔を見合わせると、赤い瞳に優しく微笑まれる。頬を緩ませて「はい」と頷くと、一同は目を細めた。
「めいっぱい楽しんでおいで」とランブラーが笑った。
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