第54話 乗船資格ー02(トマス・カマユー視点)

「――しかし、俺がここにいるって、よくわかったね。俺の方は、影も形も見つけらんなかったのに……」


 感心したように呟くと、水滴のついた黄金色のグラスに口をつけていたアナベルが、隣で息を吐いた。


「トマス・カマユーって名前の騎士が、『銀髪で青い目の女』を探して回ってるって、仲間のうち三人から連絡が。それで、今日は途中から後を尾けていました」


 俺に向かって細い指を三本立てて見せながら、アナベルはしらっと言う。フードは深く被ったままで、その横顔は口許しか見えない。


「……あそう、なるほど……。俺、どっかでアナベルの仲間に行き会ってたのか……。しかも三人……? 誰だ? 怪しそうな奴……? あ! 一人はあいつだろ? ビデンス商会の、新しい用心棒! 身のこなしと発音にどっか違和感あるなー、と思ってた」


 どうだ当たりだろう、と自信持って胸を張る。しかしアナベルの声は、至って冷ややかであった。


「違います。全然」


 あ、そう、と俺はにっこり微笑む。墓穴を掘る予感しかしないので、これ以上は掘り下げないことにする。


「捕まる気ない、って言ってたのに。俺に会いに来ていいの?」


 場末の酒場のカウンターは狭く、隣の席との距離は体温を感じるほど近い。思わず弾んだ声で言うと、アナベルの口許が柔らかく笑う。


「ええ、問題ありません。騎士だらけのロンサール邸とは訳が違います。相手がカマユー卿一人なら、余裕で逃げ切れますから」


「…………相変わらず、歯に衣ってものを着せないねぇ……。いやでも、あの時、マジで早かったもんなー。俺、一瞬で見失ったもんね」


 他人事のように笑って言うと、アナベルはふふっと真珠の歯を覗かせた。

 俺はずっと、アナベルの笑顔を見たいと願っていた。視線が合うだけで自然と頬が緩んで、雲の形が変だとか目玉焼きが失敗だとか雨の日に傘がなくてびしょ濡れになったとか、どうでもいいことを声を上げて笑い合いたかった。

 ところが今は、微笑まれるたび、やるせなさが増して胸がちくりと針で刺されたように痛む。


「……もう無表情、やめたんだ?」


 軽く肩を竦めて、アナベルは濡れた珊瑚のような唇をうっすらと緩ませる。


「そう。もうそうする必要ないから――ああそう言えば、さっきから思ってたんですけど、カマユー卿、前より痩せてません? ダイエットですか?」


「…………」


 誰のせいだと思ってる。だいたい、人の気も知らないで『必要ない』ってなんだ。思わず半眼になって、しかし俺はにっこり笑う。


「ああこれね。ここんとこ、食欲なくて夜も眠れんかったからさー。ほらもう、誰かさんのことが心配で心配で。どっかで弱って、独りで泣いてんじゃないかと思ってさ。あー、そういや、今日も晩メシ食い忘れてる。急にハラ減ってきた。何か頼むわ。アナベルも何か食う?」


 あえて冗談めかして言いながらメニューを広げる。アナベルはふっと笑って、いらない、と手をひらっとさせた。

 チーズと冷製肉の盛り合わせを頼むと、不機嫌な売り子はほんの少しだけ、赤く塗られた口角を上げる。たぶん、さっき弾んだチップの効果だ。

 

 ぬるくなったビールの口当たりは、ひどく重たかった。


「……ところで、さっき、最初に言いかけたことだけど――」


 声はうまく砕けた調子を出しながら、心臓は激しく脈打つ。

 アナベルは黙ってグラスに口をつけた。濡れた珊瑚色の唇が艶めいていて、こんな時なのにどきどきした。フードで隠された、あの静かな水底のような瞳が見たくてたまらなかった。


「――俺、アナベルと、あともちろん仲間も、自由になれるようにするよ。もう二年も経ってるし、有力な貴族が口添えしてくれたら、恩赦は難しくない。俺、全力でやって成功させるから。……まあそれで、大陸を離れて未開の新天地なんか目指さなくても――」


「新大陸に行くのは、もう決めたことだから。ここで生きていく道は、もうとっくに捨てた」


 俺が最後まで言う前に、アナベルは強く言い切った。はっきりした拒絶だった。


「……あ、……そうか」


 内心の動揺を悟られたくなくて、明るい声がうまく出せた己を褒めてやりたくなる。

 ずいぶん減ったグラスをテーブルに置いて、アナベルは俺に向かって優しく笑った。


「――カマユー卿、元気でね」


「…………ペース早えよ……もう一杯、頼む?」


「いい」とアナベルは静かに首を横に振る。


「……そっかそっか、じゃあ、しょうがねえな……あれか、新大陸で一旗上げるってのも、夢があっていいよな」


 アナベルの口許は、今日はもうずっと緩んだままだ。白い歯が覗く。


「そう、悪くない」


「金鉱がたんまりあるんだって? 川底浚うだけで金が採れるとかって、一攫千金狙って行く奴、多いらしいじゃん」

「そうらしいね」


「見たことない不思議な生き物が、いっぱいいるんだろ? ロマンがあるね」

「うん」


「こんなとこで狭い土地取り合って、命掛けてんのが馬鹿馬鹿しくなるほど、新大陸は広い」

「うん」


「冬ばっか長いこの辺と違って、一年中、ほとんど夏ってくらい暖かいらしいし」

「うん」


 グラスの黄金色は、ほんの僅かに残っているだけだ。


「……なんか、そっちの方が楽しそうだな」

「そうかもね」


 揺蕩う気泡に魅せられたみたいに、アナベルはすっかり浅くなったグラスの底を覗き込んでいる。


「……いいなー、その船、どうやったら一緒に乗れんの?」


 明るく言ったつもりが、漏らした本音はびっくりするほど切なく響いた。しまった、と思う。


「…………ちゃんとした居場所がある人は、乗れない」


 低く呟かれたアナベルの声は、喧騒の中で静かに響いた。


「……そうかー、じゃあ、俺は無理だな。大家族の大事な末っ子だし。変わり者揃いの第二騎士団の良心を自負しているし」

「うん」


「おまけに、イケメン騎士として名を馳せている」

「ぱっと見、だけど」


「そりゃそうだけど、そこは目を瞑ってくれ」


 涼やかな笑い声を上げてから、アナベルはグラスの残りを一気に呷った。

 古びた染みのついたカウンターにグラスを置き、白い手の甲で珊瑚色に光る唇を拭う。


「ごちそうさま」

「おう」


 席を降りながら、アナベルはゆっくりと言った。


「カマユー卿、ありがとう」


 背を向けたアナベルの外套のフードに、立ち上がって思わず手を伸ばす。俺の視線よりも低い場所にある頭に触れる。

 アナベルは半身を向けて立ち止まった。フードで隠れて見えないが、涼しい目元はたぶん、思いっきり不機嫌にひそめられているに違いない。


「えーと……俺、アナベルを応援する。なんでも協力する。自由になって、ロンサール伯爵と幸せになりたいなら、だから――」

「は?」


 アナベルはぽかんと口を開けて、それから、また微笑んだ。


「……ロンサール伯爵は、みんなの王子様でしょう」

「……い、いや、でも、アナベルならいける気がする。美人だ、世界一」


 ふ、とアナベルはまた優しく笑う。


「……いいよ。やめとく」

「……そうか」


「うん」

「…………そうか……」


 うん、と声には出さず、フードに覆われた顔は頷いた。

 その頭を、フードの上からそっと撫でる。小さな頭、細い肩。ずっと傍にいて、守る夢をみた。


「俺は……俺は……ずっと、何があっても、何処に行っても、何処にいても、アナベルの幸せを祈ってる。だから、ずっと笑ってろよ。そんで、新天地でやってみて、やっぱり笑えなさそうだったら、戻ってこい。俺が、アナベルのこと、一生笑わせてやる」


 意外にも振り払わずに、アナベルは頭を下げて、されるがままに撫でられていた。ずれかけたフードを両手で引っ張り、深く被り直す。


 アナベルの頭を撫でる自身の黒い袖口に、銀のボタンが光った。

 夕陽の差し込む質素な使用人部屋で、アナベルに借りた針と糸で自分でつけた。

 意図したのとは違う形になったけれど、やっぱり、俺のお守りになった。

 アナベルの頭から手を離して、そのボタンを引きちぎる。

 俯くアナベルの手に、それを無理やり押し付けた。


「やるよ。餞別に。……本当は、もっといいものあげたかったげど」


 太陽の下を自由に、歩かせてやりたかった。他愛もなくて、穏やかな幸せ、そういった類のものをあげたかった。

 こんなものいらない――と呆れて突っ返されるかと思ったが、アナベルは黙ったまま、鷹の紋章が彫られた銀ボタンを小さな手で握った。


「……俺、アナベルのこと忘れない。ずっと待ってるよ」


「………………なにそれ? 私は……、私は好きじゃない、嫌いだから――いい加減、さっさと忘れればいい」


 俯いたまま紡がれた低い声は、冷静なアナベルらしくなく、震えていた。


「…………」


 それっきり、振り返りもせずに、アナベルは迷いのない足取りで歩み去る。

 小さな背中がドアの向こうに消えたのを見届けた後、俺はくらっときて、よろめく身体をカウンターに手をついて支えた。


 ――……ついに、終わった。



 一世一代の、大失恋だ。




 勘定を済ませて酒場を出た後、王宮まで全力で走った。

 深まった夜の空気は、頬を切り裂きそうなほど冷たくて、風と一体になったみたいで、酔いはみるみる醒めてゆく。


 ――今の時間は、王宮詰所にいるはずだ。


 王宮の第三騎士団詰所のドアを軽く叩き、返事も待たずに開けると、濃い珈琲の香りがランプの明かりと共に溢れる。

 青竜の制服を纏った姉のヘザーが、仲間の騎士とカップ片手に雑談しているのが目に入る。夜勤中の浅葱の騎士の視線が、一斉にこっちを向いた。俺に気付いたヘザーが、ひらっと手を上げる。


「あれ? トマスー、どうしたー?」

「マリアとシェリーは?」


 女性騎士が多い方が良いと思った。三つの騎士団の中で、第三騎士団は最も女性騎士の割合が多い。ヘザーは、指だけで奥の扉を示す。


「仮眠中だけど。二人に用?」


 頷きながら、さっきアナベルに渡された紙片を胸ポケットから出し、ヘザーに手渡す。


修道士モンクが、ハイドランジアと北部地方から連れて来た少女達にその住所で強制売春させてる。確かな筋だ。そっちで頼める?」


 ヘザーを含む浅葱の騎士達の目つきが変わる。


「――わかった」


 ヘザーが短く応えると、別の騎士が奥のドアを叩く。


「おい起きろ。すぐ出るぞ」


 騎士の一人が、自身の横をすり抜けて外に駆けて行った。団長に報告に行くのだろう。団長は名誉職、と言って憚らないうちの団長と違って、ハミルトン公爵は熱血団長だ。事態の大小に関わらず率先して陣頭指揮を執り、浅葱の騎士達に愛されている。


 ヘザーが青い竜が薄く刺繍されたマントを羽織りながら、柔らかく微笑む。その微笑の奥の怒気に気づく程度には、長い付き合いである。


「お手柄じゃん。うちにくれていいの?」


 ここ数年ですっかり巨大化した修道士の頭巾党モンクスフードが起こす犯罪は、世間の耳目を集めている。陛下も王都の治安には関心を寄せていた。『不遇な少女達を王宮騎士が救出』という文字は、きっと明日の高級紙とタブロイドの両方に載る――ノワゼット公爵も喜びそうなネタではあった。


「いい。うちは女性騎士が一人しかいないし、今夜は別件で出てる。その代わり、情報の出処は聞かないでくれると助かる」


 男にひどい目に遭わされた少女達の元に踏み込んで、毛布で包んで抱き締める役は、強面の男性騎士じゃない方が良いに決まっている。


「わかった。任せときな。全員、助け出してくる。でもって、今度なんかあったら、ちゃんと借り返すからね」


 空色の瞳を鋭く光らせるヘザーに、頼む、とだけ言って、詰所のドアを出た。

 反対のファザードにある第二の詰所に、ゆっくりと歩いて向かう。眠れそうもないけれど、あと四時間もしたら、ロンサール邸で交代だ。仮眠室で横にだけなろう。


 澄み渡っているはずの夜空は、滲んで見えた。


 ――あー、かっこ悪い……。


 ひどい気分の時には、地面ではなく空を見る。

 空だけは、どことも繋がっているから。


 ――いつか、新大陸だって、もっと近くなるだろうか?


 発表されたばかりの最新鋭の汽船より、もっと早く走る船が発明されて、新大陸なんかすぐそこって時代が来るかも知れない。……いや、そんなものなくても、我慢できなくなるだろう。


 さっき別れたばかりなのに、もう会いたくて堪らなかった。


 ――俺のこと嫌いでもいい。


 ここで一緒に生きて欲しいって、土下座するの、忘れてたな……。


 こんなことになるなら、変な意地張らずに、たくさん花を贈って、たくさん食事に誘って、断られても呆れられても嫌われても、何度も何度も好きだって言っておけば良かった。一緒にいられた、貴重な時間を無駄にした。


 ――新大陸に渡った後、アナベルの行く道は今度こそ何もかもうまく行って、あの細い肩に乗る重い荷物はきれいに消える。そして、俺の知らない誰かと恋をして、そいつといっぱい笑い合う。

 これまであった悲しいことや苦しいこと全部、きれいさっぱり忘れて、楽しく笑って暮らす。

 そうなる方がいいのだ。そうなるように願うのだ。

 俺は、俺を忘れるアナベルの幸せを、全力で祈ってやるのだ。

 いつか再会できた時、俺を忘れて幸せそうに笑っていることを、心の底から喜んでやるのだ。



 長閑に瞬く星達に、頑張れと慰められた気がしたが、胸をぎしぎしと軋ませる苦さは、少しもマシにならなかった。


 


 

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