第52話 歌劇場ー04
「――あの、どうかされました?」
控えめな誰かの声が耳に届いて、胸がどきりと跳ねた。
低い、男性の声――けれどその声の主は、わたしを取り囲む燕尾服の壁に阻まれていて見えない。
男性たちが、「はあ?」と顔を歪め、声の方を向いた。確かめたくて、わたしは爪先立って首を伸ばす。安堵と期待で、どきどきと胸が逸った。
――もしかして……もしかして……?
「あ、あの……、どうかされました……?」
もう一度繰り返された声は、ひどく弱々しかった。
男性たちが、そちらに気を取られ身体をずらすと、ようやく隙間に、声をかけてくれた人の姿が見えた。
暗めの金髪、平均的な顔立ち。中肉中背の身体を包むのは、紺色の制服。
わたしは深い息を吐く。
声の主は、船のメンバーではなかった。どころか、知り合いですらない。
――歌劇場の係員だわ……。
いえいえ、がっかりしてはいけない。アナベルには繋がらなかったけれど、ひとまず、この場は切り抜けられるのだから。
もとから、そんな簡単に見つかるとは思っていなかったでしょう――と自分に言い聞かせる。
これがもっと騒ぎに発展し、第二騎士団の耳に届いていたら……ウェイン卿は呆れ返っただろう。そしておそらく今後、護衛なしでは外出できなくなり、アナベルを探せなくなるところだった。
助かった、とほっと息をついたわたしを囲んだまま、三人の男性たちは揃って胡乱げに目を細めた。
「関係ないだろ」
「向こうに行ってろ」
「邪魔すんな、身のほどをわきまえろ」
貴族然とした彼らの強気な言葉に、係員は怯えたような表情を見せる。
「ああ、いえ、すみません。……で、ですが、旦那様方、だいぶお酒を召しておられるようで……よろしければ、お水をお持ち――」
「うるさい! 何度も言わせるな! 労働者階級が! でしゃばるなっ!!」
黒髪の男性の手が、ぶんと振られる。握られたグラスから、中身のシャンパンが飛沫を撒き散らしながら弧を描く。
はっと息を呑んだのと、係員の胸元でぱしゃんと水音が跳ねたのは同時だった。紺色の制服に、みるみる濃い染みが広がる。係員は泣きそうな顔で、おろおろと視線を泳がせた。
「あ、あの、申し訳ありません、……で、ですが、そちらのお嬢様は――」
「あのっ!」
思わず、わたしは声を上げる。まだ、肩に触れられたままだった。その部分が、気持ち悪い。全身に怖気が走る。
――この人たち、嫌だ。
「あのっ、このなさりようは、あまりに失礼ではありませんか? 手をお離しください。わたくしには、ちゃんと連れがおりますから――」
しかしながら、わたしのこの声ときたら……! 自分でも驚愕するほど、迫力に欠けた。おっとり、ゆったり、もどかしい。
こんな風だから、絡まれるのだ。これからは毎日、発声練習してやるんだから。先を続けようとした時――
「――おや? レディ・リリアーナ?」
後方から声が届いた。
振り向いたそこに――。
見知った翡翠の色と視線が合う。さらりと流れる、青銅色の長い髪。
制服の胸に並ぶ、数えきれない勲章。なによりもそのオーラ、その後ろにずらりと並ぶのは、白い――。
にっこりと微笑んで、彼は口を開く。
「お久しぶりですね」
まあ、とわたしは驚いて呟く。
「……ドーン公爵閣下……」
わたしがその名を口にするよりも先に、肩に置かれていた手は、まるで磁石が反発するみたいに離され、遠ざかっていた。
「……えっ?……ドーン?……公爵閣下?」
「……し、白獅子の……団長閣下?」
「つつつっ、連れっ……? って、まさか……?」
じりじりと後退ってゆく三人の背中は、たまたまそこに立っていた白い騎士にぶつかる。
「あっ」
「ひっ」
「うっ」
さっきまで壁のように大きく見えていた男性たちの身体は、白い騎士たちの前では子どものように小さく見えた。
三人は赤らんでいた顔を瞬く間に青くしたかと思うと、次の瞬間、これ以上ないほど低頭した。
ドーン公爵が彼らをちらりと一瞥すると、低頭したままの身体が、雨に濡れた子猫のようにぶるりと震える。
「公爵閣下、ご機嫌麗しく――」
わたしの口上の途中で、ドーン公爵は和やかに微笑む。
「ふふ、堅苦しいのはなしで。お顔を上げてください。お会いできて嬉しいです。しばらくぶりですが、その後、いかがお過ごしです? レディ・リリアーナ」
その声から優しくいたわるような響きを感じて、先日の落水事故を思い出す。白い騎士たちに、わたしは運河から引き上げていただいたのだ。
「お陰さまで、すっかり良くなりました。先日は、そちらの騎士様方に危ないところを助けていただき、誠にありがとうございました」
申し訳なさを滲ませて言うと、「それは良かった」とドーン公爵はにこにこと微笑んだ。後ろに控える白い騎士たちも、にこりと笑いかけてくれる。
「こちらこそ、その節は丁寧なお礼状をありがとう。騎士たちも感激していましたよ」
「まあ、わたくしこそ、寝込んでおりました際には……きれいな紅薔薇の花束を贈っていただきまして、ありがとうございました。香りに癒されて、治りが早くなりましたわ」
ふふ、とわたしたちは微笑み合った。この方は本当、親切な方だ。
「今日は……まさかお一人ではないでしょう? はぐれてしまわれました? 誰のエスコートです? ロンサール伯爵? レクター・ウェイン……まさか、アラン・ノワゼット?」
従弟であるノワゼット公爵の名をその理知的な唇に乗せるとき、ドーン公爵の顔には少しの不機嫌さが滲む。
――相変わらず、ライバルなのね……。
けれど、いざという時は助け合うのだ、彼らは。ブランシュが狙われている際、ブーゲンビルのお城をお借りしたことは、まだ記憶に新しい。
ノワゼット公爵とドーン公爵の関係は、まるで親の愛を競おうとする、負けん気の強い兄弟のよう。
「はい。今日は、ディクソン公爵様にエスコートしていただきましたの」
あっさりと答えた途端、忘れかけていた三人の男性が、器用にも低頭したまま飛び上がった。
「ディッ、ディッ……ディクソン公爵!?」
「あああああの……ブルソール国務卿の後継者の?」
「きききき気分を害したら、もれなく国に居られなくなることで有名な、あの一門の……ヒューバート・ディクソン公爵?」
「は、はい、ですが――」
まさか国に居られなくなるなんてことは――と答える前に、彼らは言い募る。
「おおおおお嬢様! お許しを! 王都の華やかさと酒に、哀れな下流貴族が飲まれてしまったのです!」
「わたくしどもは、取るに足りない虫けら! お嬢様が踏み潰される価値もない!」
「今後は身のほどをわきまえますから! お約束しますから! どうかお慈悲を!」
呆気に取られるわたしに向かってそれだけ叫ぶと、彼らは背を向けて脱兎の如く駆け出した。まるでケルベロスにでも追いかけられているみたいに、転げるように大階段を駆け降りてゆく。
ばーん、とすごい音を立てて大扉に体当たりしたかと思うと、そのまま大通りに飛び出してしまった。
「……まあ……? 劇はまだ半分、残っておりますのに……」
さっきまでは嫌で堪らなかったのに、雨に濡れた子猫のように怯えきった姿を見た後では、なんだか気の毒にすらなった。
あの人畜無害を絵に描いたようなディクソン公爵の悪名ときたら、わたしの噂以上に独り歩きしているらしい。
後ろ姿を見送ってから視線を戻すと、ドーン公爵の翡翠の瞳と白い騎士たちの瞳が、揃って零れ落ちそうに開かれていた。
「……ディッ!? ディクソン!? ……そう仰いましたか? あの、ぶ……こほん、失礼。あのヒューバート・ディクソン? 本当に、あの、ヒューバート・ディクソン?」
「はい、大変お優しく紳士的な、ヒューバート・ディクソン公爵様でございます」
「優しい……? あの男が?」
実は、かくかく然々ございまして、と先日ディクソン公爵邸で起きたことを大まかに語ると、ドーン公爵は不思議そうに首を傾げた。青銅色の長い髪が揺れる。
「へえ……あのディクソンが……。何かの間違いじゃ……わたしもてっきり、嫌な奴だとばかり……」
少し考える素振りを見せてから、ふむ、と気を取り直したように唸って、ドーン公爵は悪戯っぽく笑って続ける。
「それにしたって、あのレクター・ウェインが、よく貴女を快く送り出しましたね。嫉妬に狂ってディクソンを斬る、とか言い出しませんでしたか?」
ドーン公爵の茶目っ気たっぷりの冗談に、わたしは笑う。
「まあまさか。ウェイン卿はだって、余裕たっぷりで、大人ですもの」
内心でため息を落とす。早くわたしも手に入れたいものだわ――嫉妬とは無縁の、大人の余裕。
ドーン公爵は、ふと達観した笑みを浮かべる。
「いいえ、大人も子どもも関係ありません。恋に落ちたその時から、誰しも正気を失くすのです。この世から恋と金が消え去れば、犯罪もまた、そのほとんどが消え去る――とは、よく言うでしょう?」
その話し方は、相変わらず愛嬌が溢れていた。この方のオーラは、舞台上のどんな歌劇役者も太刀打ちできないほど華がある。
「そうでしょうか……ウェイン卿や……ドーン公爵様のような方でも?」
首を傾げると、ドーン公爵は美しい翡翠の瞳を細めて優しく微笑む。
「はい、それはもう。間違いありません。しかも、あの無表情男は、内に溜め込む質ですよ、ぜったい」
「…………では、聞いてみます」
「はい是非、そうされてみてください」
ふふ、と意味ありげに、ドーン公爵は微笑む。
「……そう言えば、ドーン公爵様は、騎士の皆様と観劇でいらっしゃいますか?」
彼らの近くに女性の姿はない。なんとなく、ただの勝手な想像と偏見であるが、ドーン公爵のような方は、歌劇には女性を同伴しそうに思える。
「ああいいえ――」とドーン公爵は言いかけて、少しの間が空く。
「公爵、もうすぐ始まりますよ。そろそろ戻りましょう。おや、レディ・リリアーナ。ごきげんよう。その後、お加減はいかがです?」
少し離れた場所から、ガブリエル・ラバグルート第一騎士団副団長の声が聞こえた。こちらに向かって、にこやかに立礼をしてくださる。わたしがスカートを摘まんで返礼していると、ドーン公爵が口を開く。
「今日は、妹と参りました。フィー、こっちにおいで」
ドーン公爵がそう呼びかけた途端、まるでモーセの海割りように白い騎士たちの垣根が割れた。
そして、ラバグルード副団長の背後から、ちょっとびっくりするくらい可愛らしい天使が顏を出した。
まあ! とわたしは思わず、感嘆の声を上げる。
「妹です。フェリシア、こちら、レディ・リリアーナ・ロンサールだ。会いたがっていただろう」
ぱちくり、とその絶世の美少女は瞬いた。
「まあ……! まあまあまあまあ! レディ・リリアーナ・ロンサール……!? お兄さま!! 仰っていた通りの、すごくキレイな方! ね、ね!」
美少女がこちらに向かって駆け寄ってくると、大事な宝石を守るように彼女を囲む白い騎士たちも、一斉に移動する。わたしは慌てて低頭する。
「はじめまして。公爵令嬢。リリアーナ・ロンサールと申します。お会いできて光栄です。お見知りおきくださいませ」
ドーン公爵の妹――ということは、彼女は国王陛下とノワゼット公爵の従妹なのだ。高貴なる公爵令嬢は、鈴を鳴らすような美声で、はしゃいだように言う。
「嬉しいですわ! ずっとお会いしたかったんですの! わたくし、フェリシア・ドーンと申します。以後、お見知りおきくださいませね」
公爵令嬢が頭を下げると、柔らかそうな金糸の髪がさらりと流れた。
朱鷺色の瞳に、抜けるように滑らかな透明肌。ふんわりとした、幼さの残る顔立ちと体つきは、わたしよりたぶん、四つか五つくらい下だろう。ブランシュの幼い頃と少し似ている。とにかく美少女である。
妹姫を愛おしそうに見やって、ドーン公爵が口を開く。
「レディ・リリアーナ、また改めてゆっくり。妹と仲良くしてやってくださいね」
「光栄でございます」
頭を下げると、公爵令嬢はほうっと溜め息を落とす。
「ねえ、レディ・リリアーナ、わたくしをお屋敷に招待してくださらない? わたくし、ロンサール邸にすごく興味がございますの! ……その、ロンサール伯爵様にも、お目にかかってみたいわ」
最後の方、恥ずかしそうに頬を赤らめながら、愛くるしい瞳で見つめられて、わたしは言われるがまま頷く。
どうやらこの美しい公爵令嬢もまた、罪作りな従兄に心を奪われているらしい。
「もちろんでございます。光栄でございます――」
「嬉しい! ずっとお願いしているのに、兄はちっとも会わせてくれないんですもの」
「だから今日、ちゃんと紹介しただろう」
口を尖らせる妹姫に、グラハム・ドーン公爵は苦笑しながら言い訳めいた口調で言う。
「フェリシア、あまりレディ・リリアーナを困らせてはいけないよ。第一、伯爵は忙しい身だから、君と遊ぶような時間は取れないだろうし、屋敷にいるかどうかも――」
「ね、きっとよ! きっと、招待してくださいませね!」
妹に弱い兄と無邪気な妹との遣り取りに、わたしと白い騎士達は微笑ましく目を細める。
「レディ・リリアーナ、お会いできて楽しかった。騎士にお席まで送らせましょう」
ドーン公爵が白い騎士の名を呼ぶと、二人の騎士がさっと前に出る。
さっきのような事態はもう懲り懲りであるから、今度はありがたく礼を述べて、申し出を受けた。
ドーン公爵と妹姫の一行に別れを告げてから、わたしは辺りを見回す。
――もう、いらっしゃらないかしら……?
そうだとしたら、改めてお礼とお詫びに――と思いかけた途中、その姿を見つけた。
さっき止めに入ってくれた勇気ある係員は、柱の陰に退いてシャンパンに濡れた制服を見下ろしていた。
二人の白い騎士を付き添ってもらい前に立つと、気の弱そうな係員はびっくりしたように顏を上げる。
「あの……さきほどは、お声を掛けてくださってありがとうございました」
頭を下げると、係員はぎょっとしたように目を見開く。
「とんでもありません! 頭をお上げください! ぼ、僕のほうこそ、なんのお役にも立てずで……」
消え入りそうな声で言いながら、彼は肩を落として、また俯いてしまう。
「いいえ、とても助かりましたわ。あの方たちが無礼なことを申し上げ、わたくしのせいでご不快な思いをさせてしまいました。誠に申し訳ありませんでした」
頭を下げてから、ハンカチを差し出す。
彼は仰天、という風に両手を顔の前で振った。人の好さそうなその顔は、耳まで真っ赤だ。
「ええっ!? い、いいえっ! ぼ、僕のような身分の者が、お嬢様のハンカチをお借りするなんて、とっ、とんでもない!!」
「それもこれも、わたくしが隙だらけでいたせいですから……。このハンカチは返していただかなくて結構です。これは……刺繍の練習中で、沢山ありすぎて困っておりますの。……あ、ちゃんと、清潔ですよ?」
微笑みかけ、手の中に半ば無理やりよのように渡すと、彼は困惑気味に何度か瞬いた。
手の中に納まったハンカチの刺繍に、視線を落とす。
ちなみにこのハンカチ、メイアン従騎士に強めのダメ出しを受けてから、精進を重ねているうちの一枚である。
ウェイン卿のイニシャルのモノグラムに、剣と盾、百合を白い刺繍糸で細かく刺しているけれど、なかなか完璧には仕上がらない。
そうして積み上がって行く失敗作――捨てるのも勿体ないし、こうして自分で持ち歩くしかない、という次第である。
「ああ、はい……では、お言葉に甘えて……。ありがとうございます。刺繍、とてもお上手ですね」
濡れた制服をハンカチで押さえ拭きしながら、人の好さそうな係員は訥々と、穏やかな声でお世辞を言ってくれた。
まんざらでもなく、わたしは頬を緩ませる。
「いいえ、まだまだで……」
「そうですか? 素人目には、すごく完璧に見えますけど……」
「差し上げる相手は完璧な方ですから、完璧なものを差し上げたいんです。まだまだ修行中の身でございます」
しんみりと胸を押さえて言うと、後ろにいる白い騎士たちがくすっと笑う。
係員も目を細め、俯いて制服を拭きながら呟く。
「……お相手の方は、お幸せですね」
そして、はあ、と大きな息をついて、しょんぼりと続ける。
「僕ももっと、失敗しないようにちゃんとしなくちゃ……」
「あら、すでにとてもちゃんとしておられますわ。素晴らしいお仕事に就いておられて、先ほどなんて、まるでヒーローのようでしたもの」
この人は、ドーン公爵やノワゼット公爵のように歴史に名を残しはしないかも知れないけれど、善良な人はそれだけで、多くの人を救う。生きる宝石。
「あ、そう言えば……その制服、支配人様に叱られませんか? もしそうなら、わたくしの方からご説明と、改めてクリーニング代を――」
とんでもない! と彼は首を振る。
「シャンパンでしたから、幸いでした! 赤ワインだったら叱られるところですけど、これなら問題ありませんから! あ、もう始まってしまいます。僕は大丈夫ですから」
「今日は本当に助かりました。ありがとうございました」
最後に重ねて礼を言うと、係員も深々と頭を下げる。
その時ちょうど、三幕の開演が間もなくであることを知らせる曲が流れ始めた。
バルコニー席に戻るために歩き出しながら、わたしはまた、深い溜め息をつく。
――やっぱり、今日は空振りだった。
けれど、こうして地道に探すほかはない。アナベル……どこにいるんだろう。
明日は――どこに探しに行こうかしら……?
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