第51話 歌劇場ー03
そういうことなら、わたしの存在はキューピッドではなく、むしろ真逆の存在――お邪魔虫である。
「わたくし、せっかくですからサロンを見て参りますわ」
いそいそと、わたしは言う。二幕目が降りると、待ちに待った幕間であった。
「僕はここにいるよ。深緑の騎士と一緒に、サロンへ行ってくるといい」
穏やかな声でそう言うディクソン公爵は、予想通り、人の多いサロンへ行きたがらなかった。マージョリーは少し考える素振りをしてから口を開く。
「……わたくしもここにいるわ。サロンでよく知りもしない父の知り合いに挨拶しなくちゃいけないのって、疲れるもの」
マージョリーもまた、こちらは少し意外なことに、人前に出ることが好きではないらしい。ボックス席の後方には、騎士や侍女が控えている。彼らの空気になりきり具合は、もはや達人の域に達している。
しばらくの間、ディクソン公爵とマージョリーは二人きりの雰囲気を味わえるはず。
マージョリーの言葉を聞いたディクソン公爵が柔らかく頷く。
「それじゃ、ここに軽食を運ばせよう」
扉がノックされ、ワゴンを押した給士が現れた。一口サイズのサンドイッチ、タルティーヌ、マカロン、おとぎ話を連想させるカップケーキなどが、次々に大理石のテーブルに載せられていく。
「わたくしは折角の機会ですので、行ってまいります」
わかったわ、と手を振るマージョリーとディクソン公爵を残し、わたしはいそいそと扉を出る。
誰が思いついたのか、王立歌劇場のバルコニー席の扉には、ちょっとした仕掛けがある。
個室の扉は、中からは自由に開けられるけれど、外側にはノブ自体がない造りとなっている。劇場の係員だけが、鍵を使って開けることができる。
ディクソン公爵のバルコニー席だけでなく、他の個室も全て同様だ。
上流階級だけが出入りを許されるこの場所は、入念にプライバシーが守られている。
付き添ってくれようとする深緑の騎士には「すぐに戻りますので一人で大丈夫です」とドアの前で、やんわりと断りを入れた。
「いやでも」「しかし」と、しきりに言われたけれど、黙って微笑みかけて頷いて見せると、弱りきった様子ながら、なんとか引き下がってくれた。
多くの貴族が出入りする歌劇場は、護衛騎士の姿もたくさん見える。警備員もいるのだから安全だろう、と彼らも考えたらしい。
この場所は、貴族たちの重要な社交場だ。
幕間になるのを待ちかねたように、観客たちはバルコニー席を出る。
向かう先は、大階段を上り切った場所にある『太陽のサロン』と呼ばれる壮麗な広間。人々はそこで、シャンパン片手にオープンサンドなどのフィンガーフードを楽しみながら、知人を探す。
そして、知人を見つけたら挨拶し、その知人が一緒にいる人を紹介してもらう。さらにそこに、別の知人も加わる。そうやって、貴族達はコネクションを繋ぎ、広げてゆくものらしい。
さてさて――――
アナベルは侍女、レオンは執事、ノア・シュノー騎士はディクソン公爵に仕えていた。
船に乗っていた彼らは、元・騎士――。
剣の腕が立ち、王宮に勤められるほどの所作が身についているならば、市井で賃金の安い仕事に就くより、貴族のお抱えとなっているのではないか。
王都を当てどなく歩き回るより、貴族が集まる場所に赴く方が、再会の可能性が高いように思った。
たどり着いた『太陽のサロン』は、パーティさながらに多くの紳士淑女で賑わっていた。
音楽に関わる神話の場面が描かれた天井には、巨大な黄金のシャンデリアが一ダースも並ぶ。壁には、歴史に名を残す作曲家たちの彫刻――今日のすばらしい演目を作り出した偉大な作曲家の顔が、すぐ真上に見えた。けれども――
――なにはなくとも、人探し。
きょろきょろと辺りを見回す。談笑する紳士淑女の脇に控える護衛騎士の中に知った顔がないかと、覗き込むように探しまわる。似た髪色の後ろ姿や背格好を見つけては、期待にどきりと胸は高鳴り、次に、がっかりと息を吐く。それの繰り返し。
そうしていると、目の前を突然、黒い壁に塞がれた。
「あ……、申し訳ありません。こちらがよそ見をしておりまして」
ぶつかりそうになったことを謝罪し、避けて通ろうとすると、黒い燕尾服の壁も移動した。ふたたび謝罪して避けると、ふたたび壁も動く。
――……?
不審に思って見上げると、見知らぬ男性たちが、わたしを取り囲んでいた。
「美しいお嬢様、どなたかお探しですか?」
「どこかでお会いしたことが? 美しいお嬢様」
「まさか、こんな美しいお嬢様とお会いして、覚えていないはずがない」
見知らぬ三人の手には、なみなみと注がれた赤ワインのグラスが――と思ったら、彼らはそれを一気に呷った。ちょうど通りかかった係員の持つ銀盆に、空になったグラスを置き、代わりにシャンパングラスを取る。
年の頃は、わたしより少し上くらいと思われる、若い男性たちだった。燕尾服や靴、訛りのない話し方から、どこかの貴族のご子息だと思われる。顔は赤く、タイは緩み、髪は乱れ、目が据わっている。
いわゆる、酔っぱらい――。
内一人、黒髪の男性が、わたしに向けてシャンパングラスを差し出し、口を開いた。
「どうぞ、美しいお嬢様」
君は美しい――などの歯の浮くような台詞をさらっと口にする男は胡散臭い、と断じるニコールたちの声が過る。この人たち、さっきからそれを連呼している。さっさと退散しよう。
「ああいえご親切に。ですが――」
「どなたかお探しでしたら、我々がお手伝いいたしましょう。こう見えて、顏が広いのです」
「いいえ、せっかくですが――」
「良ろしければ、我々のバルコニー席に来られません? 伝手で良い席がとれましてね」
言いかけた言葉は、彼らの得意気な声に次々遮られる。
そうしている間にも、彼らはにじりよって来る。いつの間にか、壁際に追い込まれたわたしの身体を隠すように、彼らは取り囲んだ。
「我々の席は、すぐそこですから――さ、行きましょう」
「いいえ、本当に、連れが――」
「大丈夫ですよ。少し席を離れるくらい。我々の良い席で、シャンパンをいただきましょう。このまま別れるなんて、あまりに名残惜しいじゃありませんか――」
明るい茶髪の一人が近づいてきて、わたしの背後の壁に手をついた。お酒臭さを感じて、思わず息をつめる。
この壁ドンしてきた人は、当然、好きな人でもなんでもないからして――ぞわっと鳥肌が立つ。これはまずい。地獄行きを乞い願いたくなる事態である。
「さ、ご一緒に――」
くすんだ金髪の一人の手が、わたしの肩に置かれる。
「さあ!」
バルコニー席の、外からは自由に開けられないドア。舞台は明るく、客席は暗い。他の席の観客から、バルコニーの中は見えづらい。
――密室。劇が始まったら、管弦楽の大きな響きとよく通る歌声が、客席の悲鳴などかき消してしまうだろう。
三人の燕尾服男性は、ネズミよろしく壁際に追い詰めたわたしを、周囲の視界から隠すことに成功していた。
――あら……? これはそこそこ怖いわ……。
しかしながら、ここは歌劇場――人がたくさんいる。わたしを囲む彼らの隙間に、秋らしいワインンレッドのドレスを身に纏った女性と燕尾服姿の男性が見えた。シャンパンや軽食をトレイに載せ、忙しそうに働く歌劇場の係員の姿も見える。
――…………叫んで、助けを呼ぶ?
瞬きの間に、わたしは考える。
例えばこの瞬間、「やめてくださいっ! 離して! 誰か助けてー!!」と叫んだとする。当然、周囲の人々は驚いてこちらを向く。わたしは助かる。
しかしその瞬間、わたしを取り囲む三人の態度は豹変するに違いないのだ。
「は? 何勘違いしてんだよ? 誘いやがったくせに」
「自意識過剰女が。誰がお前みたいなの相手にするかっての」
「行こうぜ、まったく、これだからブスは――」
とかなんとか捨て台詞を残し、ささーっと立ち去ることは容易に想像できる。この際、「お待ちください。わたくしは誘ってなどおりません。証明する手段がございます。再現して見せましょう――」などの反論を述べることは、まず不可能だ。
すると、後にぽつねんと残されるのは、自意識過剰勘違いブス呼ばわりされ呆然と立ち竦むわたしと、どちらの言い分が正解かなど分かる筈もなく、談笑を中断させられ半笑いのまま表情が固まった善意の第三者からなる多くの人々――ということになる。想像するに、これはいたたまれない。
そして、何より最悪なことに、この件はちょっとした噂となって、少なくとも明日の朝までに第二騎士団の――ウェイン卿の耳に届く。いやだかなりまずい。
――どうする……?
悩んでいる数瞬のうちに、わたしの肩に置かれた男性の手に力が籠った。力任せに引っ張られる。わたしの靴が、大理石の床の上をずるずる滑りはじめた。いよいよこれは本格的にまずい。しょうがない――
叫ぶしかない。
すうと口を開きかけところで、その声は、控えめに響いた。
「――あの、どうかされましたか?」
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