第50話 歌劇場ー02
もともと目の覚めるような美人だと思っていたけれど、今夜のマージョリーはいつにもまして美しかった。ディクソン公爵から贈られた花束に顔を近づけ、すうと息を吸う彼女の真珠のような肌に、薔薇の色が透ける。
白とピンクの花弁を持つ大輪の薔薇が、その美貌にぴったりよく映えた。
「公爵様、素敵なお花をありがとうございます」
ディクソン公爵は、わたしには赤い薔薇の花束をくださった。ラッピングも上品かつ豪華。礼を述べると、ディクソン公爵はいたたまれなさそうに俯いて身じろぐ。
「えーと……その……こういうとき、どうすればいいか、僕にはわからなかったから……その……」
しどろもどろ、蚊の鳴くような声でディクソン公爵は呟く。
「君は美しい」だの「好き」だの「愛してる」だのをあっさり口にする男ほど胡散臭いものはない――と断言して憚らないニコール、メリル、ペネループがいつも傍にいる身としては、この人はやはり善い人なのだろう、と内心で微笑ましく思う。
ふんと鼻で笑って、マージョリーが柳眉の片方を上げた。
「そんなこと、わざわざ説明されなくてもわかります。ヒューバート・ディクソン公爵が社交に不馴れだってことは、王都にいる誰だって知っていますわよ」
「あ、うん」と困ったように俯いて、ディクソン公爵は大きな身体を小さくさせた。
「ほ……本当言うと、うちの騎士と侍女に相談して……二人のイメージに合うように、フローリストに頼んで作ってもらったんだ」
へえー、とマージョリーはつんと顎を上げる。
「――やっぱりね。そんなことだろうと思いましたわ。あなたみたいな方が、女性に洒落た花束だなんて」
――あらまあ。
薔薇に刺あり――という言葉は、どうやら彼女の為にあるらしい。今夜のマージョリーはひときわツンツンである。あれから何度か行き来した際には、そうでもなくなっていたのに。
――虫の居所でも悪いのかしらね。
歌劇の幕はもうすぐ上がる。幼馴染みで気心は知れているらしい二人の遣り取りを横目に、わたしは所在なく周囲を見渡した。
ディクソン公爵が通年所有しているバルコニー席は、馬蹄型の劇場のちょうど正面にあたる。当然のように、王立歌劇場の中でも最も良い席の一つ。
赤と金で飾られた広々とした個室には、コート掛けやテーブルの他、四、五人で掛けても余裕がありそうな赤い天鵞絨張りのソファが、舞台の方を向いて二つも置いてある。
片方のソファにマージョリーとわたし、テーブルを挟んでもう片方に、ディクソン公爵が腰を下ろした。
「――花だって気の毒ですわ。ロンサール伯爵様のような方に、手にとってもらえたら幸せでしょうけど」
つんと形のよい顎をあげたまま、彼女は澄ました声で刺を吐き続ける。
「ごめんね」と何故か恥ずかしそうに謝って、ディクソン公爵はますます小さくなる。
なるほどー、とわたしは得心する。ランブラーへの八つ当たりの原因、ここに見たり。
「ええっと、それはそうと、どうされたんです? そのお怪我……」
微妙な空気を遮るように、わたしは自身の額を指して訊ねた。
ディクソン公爵の白い額に、先週は見当たらなかった傷がある。顎には、痣まで出来ていた。痛そうだ。
ああ、と気恥ずかしそうに頭裏に手を遣り、ディクソン公爵は口を開く。
「――これは……その、転んでしまって。慌てていて、階段で躓いてね……見苦しくて、申し訳ない」
わたしが口を開く前に、隣でマージョリーが呆れたような声を上げる。
「まったく! そんな風だから、国務卿閣下からだけじゃなく、他の貴族からもなめられて、失礼な渾名をつけられるのですわ! それじゃ、いつまでもたっても社交界で誰にも相手にされなくてよ! 悔しくないんですの!?」
瑠璃色の瞳をぎゅっと眇め、厳しい声で言い募るマージョリーに、ディクソン公爵は眉尻を下げて頭を掻いた。
「……うん。心配かけて、ごめんね。マージョリー」
しかし、その榛色の瞳はどこか愛おしげだ。マージョリーの声に滲む本当は心配しているらしい気持ちを、この方はきちんと汲み取っているのだ。
彼はどうやら、薔薇の刺を厭わず、まるごと愛す度量をお持ちらしい。
しかし、当のマージョリーの目つきは鋭さを増す。
「しっ、心配なんて! わたくしがするわけなっ――」
「それよりマージョリー、今日のドレス、とても素敵。ね、そう思われません? 公爵様」
そのドレスを見た瞬間、わたしはピンときた。こう見えて、姉とその友人たちから、流行のなんたるかを叩き込まれているのだ。
「え?……あ、ああ! うん! 全く、その……その通り!」
ディクソン公爵はびっくりしたように榛色の瞳を丸くした。
「初めて会った時の目の覚めるような赤のドレスも素敵だったけれど、今日の落ち着いたピンクもとても似合っているわ。薔薇の精みたい。ね、そう思われますわよね? 公爵様も」
耳まで真っ赤にした公爵が、大きく頷く。
「そ、そうだね! その、まったく、その通り!」
途端に、マージョリーの頬はみるみる薔薇色に染まる。
そっぽを向いて「こんなの、いつも通りの普段着よ」と言ってから、つまらなそうに口を尖らせて続ける。
「あれは――公開演習の日に着てた深紅のドレスは、あなたに張り合ったのよ」
「あら? わたしに?」
「そう。どうかしてるでしょ? ……わたくしったら、ずうっとロンサール姉妹に張り合って生きてきたの」
最後の方、マージョリーは張っていた肩を下げ、恥ずかしそうに笑った。
どうやら、本日のマージョリーの棘は、ディクソン公爵だけに向けられているらしい。
「――張り合う?」
首を傾げると、ええそうよ、とマージョリーは笑った。笑うと、彼女はとても愛らしい顔立ちであると気づく。
「あなたのイメージカラーでしょう? ブランシュは白、あなたは紅――ゴシップ誌にそんな風に色分けされてたから、わたくしもそう思い込んでたの。同じ色のドレスをあえて着て行ってやろう! と思って」
ふふっと笑う彼女に、わたしもつられて笑って頷く。
「ああそういうこと。その記事、わたしも読んだことあるわ」
「だけど、その様子じゃ、本当は落ち着いた色が好きなのね」
そうなの! と強く頷くと、マージョリーはうっとりと瞳を細める。
「何を着ていても、あなたのその輝きときたら……。わたくし、抱き締めて頬擦りしたくなっちゃう……!」
わたしの紺のドレスを見やり、溜め息をつくマージョリーは本当に抱きついてきそうである。わたしは苦笑混じりに口を開く。
「だけど、深紅も大好きよ。公爵様が下さったこの花束もとても綺麗」
わたしがいただいた深紅の薔薇を一瞥したマージョリーは、我が意を得たりばかりに悪戯っぽく微笑んだ。
「愛しいどなたかの瞳の色みたいですものね」
うふふ、とマージョリーとわたしは笑い合う。
「あ、実はもう一つ、贈り物があって――」
わたしたちの遣り取りを目を細めて見ていたディクソン公爵のふっくらした手が、テーブルに置いた二つの包みを取り上げる。
マージョリーとわたしに一つずつ手渡してくれる。
「以前、マージョリーが好きだって言ってただろう? 『フリュイテ物語』の最新刊……今もまだ好きかはわからなかったけど、まあその、一応……」
「「『フリュイテ物語』の新刊!!」」
マージョリーとわたしの声が重なる。
読む前と読んだ後では、世界が違って見える、素晴らしい物語。
包みを持つマージョリーの瞳は、さすがに興奮気味に煌めいている。わたしの声も、自然と弾む。
「嬉しいに決まっていますわ! ですが、まだ発売前ではないですか? 確か来月でしたでしょう? どうやって……」
「ああ、その出版社はうちの系列だから……いや、その、喜んでもらえたならそれで……」
ディクソン公爵は小さな声で呟きながら、恥ずかしそうに俯く。
「『フリュイテ物語』の出版! まあ……人類に希望と幸福を与えるお仕事ですわね……!」
「いやそんな……」
ディクソン公爵は俯いてしまう。マージョリーは、黙ったまま頬を染めて、口元を緩ませて包みをじっと見つめている。
その時、ちょうど緞帳が上がり始めた。一幕が始まるのだ。
わたしたちは揃って口を閉じた。明るい舞台に視線を移す。
マージョリーが誘ってくれた歌劇は、純真無垢な田舎の青年が澄ました貴族令嬢に恋に落ちるというロマンチックなお話で、物語は楽しく優雅な音楽の流れに乗って進んで行く。
幕間になったら、いよいよアナベルを探しに歌劇場を探検しなくては――と思いながら、わたしは内心で半眼になる。
――キューピッド役を思い立つにあたり、わたしだって思い悩んだのだ。余計な真似をして、ディクソン公爵とマージョリーを傷つけてはしまわないかしら、と。
何しろ、壁ドンも突然のキスも耳元で囁かれる「愛してる」も、その相手が『好きな人』でなければ、何の意味もなさない。意味をなさないどころか、好きな人とそれ以外では、「天にも昇れそうなほど幸せ」と「地獄におちろこの犯罪者」くらいの差が生まれてしまう。どうしたって無理――その可能性は多分にあった。
しかし、ことこの案件においては杞憂であったらしい。
――なるほどね……。
まったくもう。
マージョリーにとって、ランブラーとロブ卿はあくまでも夢の中の理想の王子様だった。
現実に、孤独だった彼女に寄り添ってくれる王子様を、彼女はとっくに見つけていたらしい。
ディクソン公爵とマージョリー。これどうみたって、
――両想いじゃないの。
隣に座る、素直になることがひどく苦手らしい、美しい友人の横顔を見る。
輝くように艶めく肌は、下地に時間をかけ、丁寧に仕上げられたもの。身に纏うドレスは、現在王都でもっとも人気のデザイナー『マダム・ルシエル』のものだ。特徴的な刺繍のパターンは、ブランシュに詳しく説明してもらったばかりだから、間違いない。
女性の清楚さを引き立てるデザインに人気が殺到し、現在、予約待ち一年以上。一点ものオートクチュール。
――王都中の女性が勝負服にと欲しがる、『マダム・ルシエル』。
こんなのいつも通りの普段着よ――ですって?
――ふうーーん。なるほどねぇー。
照明が落ちたバルコニー席で、思わずニヤニヤと緩んでしまいそうになる頬を、わたしは必死に両手で押さえた。
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