第44話 重さ(リリアーナ&トマス・カマユー視点)
窓辺に背を預け、指輪を秋の柔らかな陽光にかざしてみる。
ブーゲンビルの街でウェイン卿から贈ってもらった銀の指輪の赤い石が、きらきらと光りを弾いた。胸のあたりが切なくなって、ぎゅっと目を瞑る。
アナベルは用ができたとかで、代わりにリジーが持って来てくれたヒースフラワーが仄かに香る紅茶は、ティーコージーのお陰でまだ暖かかった。
アナベルとゆっくり話したいのに、なかなか機会に恵まれないでいる。
――まあいいわ。
いずれ訪れる別れまで、きっとまだ間がある。来週の歌劇には一緒に行ってくれると言っていたし……少なくとも、それまでには話せる。なにしろ秋の夜は長く、時間はたっぷりあるのだ。
ティーカップを受け皿に戻しながら、昨日のディクソン公爵邸で起こった出来事を思い出す。
――『令嬢、帰りましょう』
バルコニーの下――つる薔薇とクレマチスの葉が張り巡らされたロマンチックな噴水を背景に、ウェイン卿は腕を伸ばした。風に揺れていた銀の髪、瞳に宿っていた妖しい光。
「くっ……!」
クッションに顔を埋め、罪のないベビーピンクのクッションにぼすんぼすんと、殴打を繰り返す。
胸を押さえ、独り言ちる。
「はあー……尊すぎた……!」
わたしの婚約者ときたら、ちょっとあれ、格好良すぎじゃないだろうか?
「はあー……重いかぁ。重いわー、あー重い」
指輪を左手の薬指に嵌めてみるが、運河に落ちた後、五日も寝込んだ身体から肉が落ちてしまった。細くなった指から、それはするりと抜ける。
「まだ無理かー……体重はほとんど戻ったのに……」
仕方なく、銀の細い鎖に慎重な手つきで輪を通し、首から下げて胸元に仕舞う。
そこにあるのを確かめたくてドレスの上から触れると、長い嘆息が零れ落ちた。いやぁしかし、わたしったら――
「おーもーいわぁー……」
大きすぎる声で独り言を言って、両手で顔を押さえると、ますます情けなさが増す。重いのはもちろん、体重などの質量のことではない。
わたしはウェイン卿が好きだ。
好きで好きでたまらない。
なんなら知らないうちに、生き霊まで飛ばしてしまっている可能性すらある。
でも、気付いてしまった。メイアンさんにもはっきり指摘されたしね。
――メイアンさんはアレね、ちょっと容赦ってものがないわね。胸をざっくざっくとえぐってくるわね。
いやそれも、ウェイン卿への愛の深さ故と思えば、親近感を持ってしまう。
しかし彼の言う通り、わたしは重すぎる。
――嫌われたくない。
本当は、もっと会いたい。ずっと一緒にいたい。触れてたい。口にだせないようなこと、いっぱいして欲しい……。
「……ニーナ・ナディン……」
口の中で、その名を転がしてみる。なかなか強そうな名前だわ……戦ったら負けるかな? 負けそう……いやいや、がんばろう、と首を振る。
――どんな人?
医務官で、しっかり者で、美人?
会ってみたいかな? いや、ちょっと怖いかな……。
従軍も……。わたしには絶対に夜営させないって言っていたのに――ニーナ・ナディンさんはいいの?
ついこの前まで、わたしはこんな風じゃなかった。潔く引き下がれる――はずだったのに。
だけど、わたしは知ってしまった。
令嬢、と呼んでくれる声の甘やかさ、繋ぐ手の温もり、隣にある体温のかけがえのなさ――それをあっさり手離す? とんでもないわ。
だけど、心が離れてしまったら……きっともうどうしようもない。
ウェイン卿がニーナ・ナディン一人を選ぶと決めてしまったら、縋っても怒っても泣き叫んで地団駄を踏んでも、どうにもならないだろう。
だけど、それまでは……。
できることをしよう。我が儘は言わない。ぐずぐず泣いたりもしない。
――重たいおこちゃま女を、卒業する……!
大人の女になる――ウェイン卿から、傍に置きたいのはわたしだと思ってもらえるように……彼の役に立てるように――。
こんこん、とノックの音が響いて、雑念まみれの海に沈んだ思考からから引き戻された。
はい、と返事して、深呼吸する。
眉間の皺を指で伸ばし、口角を上げてからドアを開けると、トマス・カマユー卿がそこに立っていた。
ああそうだわ、と内心で手をぽんと打つ。
――例の件、カマユー卿にお願いするのはどうだろう? アナベルにも一緒に行ってもらうつもりだし……ちょうどいいんじゃ――
「令嬢……、ちょっと、いいですか?」
いつも穏やかな笑みを湛えるカマユー卿の顔は、珍しく盛大に引き攣っていた。額から玉の汗を流し、肩で息をしている。
「はい、もちろんです。カマユー卿……、どうかされました?」
……ジョギング? 打ち込み稽古? いずれにしろ、こんなに汗だくになるまで……とても熱心な人なのだわ。アナベルとうまくいってくれたらいいのに。微笑ましい気持ちで、わたしは聞き返す。
「いやあ、あのー……」
カマユー卿は廊下に誰もいないのを確かめるように、視線を左右に送る。
そして、額から滴る汗を拭いもせず、眉を下げ、頬を引き攣らせて口を開く。
「あのー、アナベルが、ロウブリッターの仲間って、マジですか?」
「……あ……」
――……ばれた……。
あんぐりと口を開けたわたしの顔を見下ろし、カマユー卿は俯いて額を押さえた。泣きそうな声で、呻く。
「あー……くっそ、まじかぁ……」
§
四人の男が顔を付き合わせて立っているのは、伯爵邸の書斎である。どっしりしたマホガニーの家具を、オレンジ色の明かりが照らしていた。
「そうか……ばれたか……。黙ってて、悪かった」
端麗な顔を物憂げに曇らせたランブラー・ロンサール伯爵は、観念したように目を閉じて頭を下げた。
そんな動作すらも素晴らしく優雅だったが、ノワゼット公爵とウェイン卿は不満たっぷりの嘆息を落とす。
「……あのさー伯爵? そういうの、教えといてくれないと」
「……まったくです」
瞳を眇めて不機嫌な声を出した公爵とウェイン卿に、首裏に手を遣ったロンサール伯爵は申し訳なさそうに返す。
「すみません。アナベル本人の意向だったから……。貴方方に知られたら、出て行くだろうと思って……」
まあいいけどさ、とノワゼット公爵はあっさりと息を吐く。
「――ロウブリッターの仲間……あの子がねえ。女騎士か……侍女の間違いじゃなくて? 見かけに惑わされたなあ……スカウトしたかったなー……」
ノワゼット公爵が呟く横で、ロンサール伯爵は肩を落とした。
「リリアーナの命の恩人だし、ずっといてもらいたかったけど……。そうか、行っちゃったか……。初めて会った時、彼女、ひどく思い詰めて見えた。ここを出て、どこ行ったんだろう? ……大丈夫かな……」
眉間に哀愁を漂わせ、伯爵はアナベルを気遣った。
多忙な王宮政務官でありながら、数多くいる使用人の心情を察して思い遣る――己との器の差を感じる。
「最初から、長くはいられないって言われてた。それでもいいってリリアーナが頼んで、いてもらったんだけど……」
「へー……」
呆然の境地から覚めないままの頭で、俺は考える。それ、教えといてくれれば良かったのだ。そうしたら――
「カマユー、それで?」
ウェイン卿が真剣な表情をこちらに向けたので、俺は顔を上げる。
「――ああはい、背中を向けたアナベルは、速いのなんのって。木立の中で見失って、急いで門を閉じました。だけどもう、外に出た後でした」
言いながら、自分でも実感が湧かなかった。
――追いつけなかった、だと? この俺が? アナベルに?
滑らかに、舞うように――去ってゆく小さな背中。後ろで一つに結ばれた銀の髪が揺れていた。
何度呼んでも、振り返りもしなかった。余裕で追いつける思っていた俺の慢心を嘲笑うみたいに遠ざかり、木々の隙間に消えた。
――『アナベル! 戻ってこい!』
悪かったから。聞き方間違えた。
こういうのって、思った時には、たいてい後の祭りなのだ。
予定では……、もちろん、こんなはずじゃなかったのだ。
――『令嬢の敵じゃありません』
そんなことは分かっていた。何しろ、アナベルは運河に落ちた令嬢を危険を省みず助けた。にやけたツラでアナベルに合図を送ってたノア・シュノーの奴は途方もなく怪しかったが、アナベルは令嬢の命の恩人なのだ――他にどんな問題があろうとも、丸く収める自信あった。
丸く収まる――はずたったのに……。
――……ん? あれ? これ夢かな?
思い切り自分の頬をはたいてみた。ばしん、と音が鳴る。
「ええー、ほんとに?」
痛む頬を押さえる俺に、ノワゼット公爵が疑わしげな視線を送ってくる。やっぱり、頬は痛い。
「……本当ですって。全力で追いかけました。わざと逃がしたりしません。ハイドランジアの騎士だったって、あれ、わりと出来る方だったんじゃないですかね」
へえ、とノワゼット公爵は愉快そうに鳶色の眼を細める。
「――で、馬に飛び乗って、ディクソン公爵邸まで全力で飛ばしましたけど、ノア・シュノーも忽然と消えた後でした」
――自分で言ってて、やるせなくなってくる。足下が崩れ落ちて行くような……。
ノワゼット公爵が口端を上げた。
「カマユーから逃げ切ったか……。こっちに呼び込めないかな?」
「……無理そうでした。ローゼンダールにつく気はないって、はっきり言われました」
「……ああ、僕にもそう言ってましたよ」
ロンサール伯爵もそう言うと、ノワゼット公爵は口を尖らせる。
「なんで第二騎士団って人気ないんだろう? 僕、身内には優しいのに」
「人使いが荒いからでしょう」
しれっと返すウェイン卿との遣り取りに、口を挟む。
「さあ……恨まれてんじゃないですか? 故郷は水の底だし。敗国の騎士は戦犯として追われる。……もう二年以上も、逃げ続けてるんでしょ」
軽い調子で言った自分の言葉に、自分の頭をがつんと殴られる。
――あれ? 俺、本当に嫌われてた……?
「そうか、残念だけど、しょうがないな……」
「はい」
嘆息交じりに神妙に頷き合うノワゼット公爵とウェイン卿に、言い忘れていたことを思い出す。
「あ、それから――」
なんだ? と二人は俺を見る。
「俺がアナベル追い出しちゃったから、レディ・ブランシュはすごくお怒りで、レディ・リリアーナは泣いてます」
申し訳ない――と言い終わる前に、団長と副団長はひゅっと息を呑んだ。
それを先に言えよ……! と同時に言った二人の顔からは、みるみる血の気が引いていった。
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