第43話 ほころび(アナベル視点)
「アナベル、今ちょっといい?」
トマス・カマユーが、惜しみなく愛想を振りまいて使用人部屋にやってきたとき、私は内心で少し驚いた。
ここのところ、めっきり近付いて来なかった。
昨日、ディクソン公爵邸でのあの騒ぎの後ですら、話し掛けて来なかった。口を利くのは久しぶりだ。
お仕着せに身を包んだ使用人たちが入れ替わり立ち代わり、忙しく出入りする木製のドア枠に腕をかけ、制服姿を凭れさせている。
「今、忙しいので――」
リリアーナの部屋に運ぶ、小花模様の茶器の載った銀のトレーに視線を落とし、冷淡に聞こえるよう意識して続ける。
「――用事なら、他の者に言いつけてください」
騎士らしい厳めしさの欠片もないトマス・カマユーは、困ったみたいに眉尻を下げる。
これで引き下がるだろうと思ったのに――
「そうかー……あ、侍女頭さん、アナベル、ちょっと借りていいです?」
今日に限って、彼は食い下がった。
穏やかに笑いかけられたのは、背筋の通った伯爵邸の侍女頭だった。「どこかで表情筋を落としてきてしまったのよ」と若いメイドたちから噂される彼女は、顔の筋肉を全く動かさぬまま、器用に固い声を出す。
「かしこまりました。アナベル、行ってきなさい。――リジー、アナベルの代わりにリリアーナ様のお部屋へこれを」
お茶運びに指名されたリジーは、ぱあっと顔を輝かせた。やった! と小さく叫び、ゆっくりしてきていいからね、とすれ違いざまに私の肩を軽く叩く。
使用人が集うこの場において、誰よりも身分が高い王宮騎士――トマス・カマユーは柔らかな笑みを深める。
不機嫌な表情をして見せても、今日の彼は全く気にしない素振りで、「さ、行こうか」と私の背中にゆるく触れた。
欅の大木に背を預け、伯爵邸の広い庭を眺める。落葉樹たちは半分ほど葉を落とし、辺り一面を鮮やかに染めている。薄紅色の葉がはらりと落ちて、その模様を変えた。くしゃりとそれを踏みしめながら、トマス・カマユーが優しい声で言う。
「葉っぱ、だいぶ散っちゃったな。寂しいような気もするけど、これはこれで趣あって、俺はわりと好きだな。アナベルは? 秋、好き?」
――ねえ?
――『わたくし、秋って好き。欅は、同じ枝に違う色の葉をつけるのね。これは赤。こっちは黄色と紅色。ほら、これなんて、わたくしの瞳の色とおんなじ。妖精が絵を描いたみたい。ねえ? あなたはどの季節が好き?』
似たようなことを訊いた少女の声を思い出した。冷たい空気と、この欅の葉のせいだ。
「――これから、レディ・リリアーナがレディ・ブランシュと買い物に行かれます。準備がございますから、手短に願います」
単調な声で告げた途端、ふっと吹き出して、トマス・カマユーは頬を緩めた。
「うん、了解。だけど、手先が不器用じゃなかったっけ? 外出の準備でアナベルが手伝えることってあんの?」
「…………」
これ見よがしに大きく息を吐いても、今日のトマス・カマユーは余裕の笑みを崩さない。子どもが落ち葉を蹴って遊ぶみたいな仕草をしながら、明るい口調で言う。
「いやー、昨日はマジびびったわー。メイアンが、令嬢とアナベルが連れ去られたとか言うもんだから。何でかあいつの態度、普通じゃなかったし」
「……ディクソン公爵様、情け深い方で助かりましたね」
公爵邸の中庭で抜き身を手にした場面を目にしたときは、さすがに仰天した。
「いや、マジで。俺、抜剣しちゃってたし。シャトー・グリフ行きは免れんと思った。うちの団長なら、間違いなくそうしてる。なんなら絞首台に送ってる」
あはは、と大きく笑うと、彼の目尻には皺が入る。
「そうですか」
「うん、良かった。アナベルも令嬢も怪我なかったし。めちゃくちゃ心配して、馬かっ飛ばしたんだ。俺、早かったろ? 少しはときめいた?」
呆れたように、また大きく溜め息をついて見せると、彼はまた、あはは、と笑った。柔らかそうな金の髪に木漏れ日が落ちて、紅葉の色が映っている。
私より一回り大きな身体が近付いてきたかと思うと、背後の欅の幹に左手をついた。
「それでさ、アナベル――」
黒い制服の襟元と咽喉仏が真正面にきて、思わず顔をしかめて見上げると、優しく微笑みかけられていた。目を合わせたまま、穏やかな声は続ける。
「――ディクソン公爵邸の深緑の騎士と、どういう関係?」
柔らかな弧を描く空色の瞳の奥は、笑っていない。
市場で聞いた、プファウの声――。
『ブルソールらへんじゃないかって……レオンとオウミが、その線で潜るって』
――しくじった。
「何のことです?」
とぼけて、首を傾げて見せる。
トマス・カマユーは目を細めた。おどけた口調で言う。
「アナベルの優しい微笑み、久しぶりに見た。そうかー、こういう時には、笑ってくれんのね」
「…………」
「ノア・シュノー騎士、二十八歳、西部トルソー村出身。三か月前、深緑の騎士に採用されたって?」
「……誰のことだか」
「そう?」
「はい」
目の奥は笑わぬまま、空色の瞳は笑みを深めた。
「おっかしいなあ……昨日、合図、送り合ってたじゃん? 瞬き三回。知り合いかなー? と思ったけど、その後はずっと、わざとみたいに視線合さなかったろう?」
舌打ちしたいのを堪える。侮っていた――ヘラヘラ笑ってたくせに。
黙っていると、トマス・カマユーは明るい声で続ける。
「今のところ、俺しか気付いてない。ほら、みんなはレディ・リリアーナの方を見てたから? これも愛の力ってやつ?」
「なんのことだか、さっぱり」
そうか――、とトマス・カマユーは欅の幹に手を突いたまま顔を近づける。至近距離にある瞳。すっと表情を消して、彼は低い声で言う。
「わかった。じゃあ今すぐ、この足でディクソン公爵邸に向かう。ノア・シュノーは拘束させてもらう」
「……どうぞ、知らない人ですから」
空色の瞳は、柔らかな弧を描いた。
「脅しじゃない、わかってるだろ? レディ・ブランシュの懸賞金は取り下げられたけど、安心はできない。俺は護衛だから、不安要素は取り除く」
「…………元カ――」
「元カレっての、もう無しね。俺、アナベルに元カレいないって知ってるし」
「…………清い交際の、元カレです」
「そうきたかー」
あはは、とトマス・カマユーは明るく笑った。欅の幹から手を離す。
「じゃ、ちょっとディクソン公爵邸行ってくるね。アナベル、悪いけどアイルたちに身柄預けるから、一緒に来てくれる? 手荒な真似はしないし、疑いが晴れたらすぐ解放するって約束するよ」
行こう――と手を差し出して、トマス・カマユーは半身を向けた。
「…………」
薄紅色の陽が揺れるその掌に、この手を重ねてみようか――。手を伸ばしかける。
夕焼けの光が、部屋を染めていたから。
器用に針を通す大きな手と長い指が、優しかったから。
『一生愛して、大事にするのに。後悔させない自信あるのに』
優しい声で、あんなことを言うから――。
差し込む光が、理性を溶かす。
――その光に、触れられるのは誰?
例えば、戦争なんて起きてなくて、隣の国とは関係良好で――私は船にも乗っていなくて。もうずっと昔から、ここで侍女として働いている。長く帰れていないけれど、故郷は変わらずあの場所にあって、そこでみんな元気に暮らしている ――
――そういうことに、できたなら。
ほんの少し、この手を伸ばせば。
それなら――
『わたし、アナベルが一緒にいてくれて、すごく幸せです。夢みたいです。一緒にいてくださいね』
きらきらきらきら。
この場所は、輝いていた。
もしも、ここにいる資格があったなら、どんな未来があっただろう?
――ねえ?
あの日、少女は欅の大木を見上げた。
『葉はこうして風に誘われて落ちてしまうけど、土に還って、根に吸われて、いつかまた樹に帰るでしょう。だけど、あの人たちは……、お父様に命じられて……戻れなかった人たちはどうなるのかしら……』
その朝、報告が届いたガリカ谷の戦いのことを言っているのだろうと、わかった。敵も被害甚大ながら、昨夜ついに突破された。
陛下は決して和睦に応じない。
今は立て直しに追われているローゼンダールが、じきに進軍してくる。
陛下は、撤退禁止命令を出していた。「戦線を死守せよ」――あの戦線、ガリカ谷から生きて退けた味方はいない。同期や知人の顔が浮かんでは消えた。
『……故郷でないところで、身体は土に還っても、魂は風になって帰ってきます』
建国神話にある、風の神が魂を掬い上げる話を思い出しながら、私は言った。それが本当だったらいい。頬を撫でるこの風が、彼らのうち誰かかも知れない――
『……そうね……』
『この王都ある限り、帰ってきます。風神と水神の兄弟に愛され、母なるクムロフ川に守られたハイドランジアは、永遠ですから』
『…………でも、あなたは風になんかならないでね。わたくしの傍で、ずっと生きていなくてはだめよ』
いつも気丈だった少女は、その時だけ、ひどく不安そうな顔をした。
『もちろん、お約束いたします。何があっても、お傍でお守りします。だって私、すごく強いんですよ? 敵がここまで来るなんてありえませんけど、万に一つ来たって、どうってことありません』
冗談めかして言うと、彼女は瞬きながら、うっすら微笑んだ。幼い頬が、薄紅色に透けていた。
彼女の瞳と同じ色に染まった葉が、一枚、足元に落ちる。
――……丁度、頃合いだった。
ずっと、ここにはいられない。
――あの日、心はあの場所に置いてきた。
深く、長く、息を吐く。
身体中の空気と一緒に、迷わせるものを全部、吐き出せるように。
「カマユー卿」
「お、言う気んなった?」
振り返った空色の瞳を、まっすぐに見る。
きらきらきらきら――眩しい光。
真っ暗な水底で泥に沈んだ私を照らす。
「私、ロウブリッターの仲間でハイドランジアの元騎士です。令嬢の敵じゃありません。伯爵と令嬢方は事情をご存じですから、後で確認してください。ノア・シュノーは偽名ですが、私の仲間です。例の懸賞金の件、ディクソン公爵邸に潜入して調べていました」
一息に言ってしまうと、空色の瞳はみるみる見開かれた。笑顔は固まる。
「…………マジで?」
大きく頷く。これでもう、無理しなくていい。
きらきらきらきら。
私のこと、好きなの?
だけどここにいるのは、空っぽの入れ物。
心はもう、あの水底に捨ててきた。
「私、捕まる気もローゼンダールにつく気もありませんので、これっきりです。短い間でしたがお世話になりました。屋敷の皆様にもよろしくお伝えください」
空色の瞳はさらに開かれた。
「…………は?」
そのまま背を向け、駆け出す。
「……っ?……アナベルっ!!」
秋色の木立に響いた偽りの名は、風に吹かれて、散って消えた。
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