第45話 夜(アナベル視点)

 秋は嫌い。夜を早く連れてくるから。


 秋もまだ半ばだというのに、夜になると霜を降ろすほどの冷気が、ローゼンダールの王都に降りる。安宿のがたがた鳴る窓から忍び込んだ冷たい霧が、私の首筋をそっと撫でた。

 固く寝心地の悪い寝台に横になり、薄い毛布を肩まで引き上げると、湿った黴のにおいが鼻をつく。


 目を閉じると、私の意識は揺蕩いながら沈んでゆく。沈み着く先は、決まってだ。


 ――そういえば、ロンサール邸にいる間は見なかった……。



 ――『ねえ、アナベル。わたし、アナベルと一緒にいられてすごく幸せです』


 ――『わたくしの傍に、ずっといてね』


 リリアーナをレオンが連れて来た時、よく似ている――、と思った。

 どんなものにも優しく注がれる眼差し。おっとりと柔らかな話し方。光を纏ったような姿。

 

 ――……殿下が成長していたら、あんな風だったろうか。



 ――――あの日。


 王城の塔から、王都の街並みとそれをぐるりと囲む城壁の様子を見渡した。


 石積の壁の向こうを隣国ローゼンダール王国の軍旗である赤薔薇の紋章旗が埋め尽くしていた。

 まるで花畑ね、と近衛騎士仲間と皮肉っぽく、冗談みたいに言い合った。

 ハイドランジア王都の横を流れるクムロフ川は、異様に水嵩を増していた。ローゼンダール軍に、下流を堰き止められたのだ。

 幸いなことに、市民は何もかも置いて逃げていた。かつて世界一美しい古都と称された街は打ち捨てられて空っぽで、どこから湧いたのか、おびただしい数の鴉たちが空き家になった庭先の菜園を啄んでいた。


 城で働いていた者も、戦えない者は逃がした。残っていたのは、国王と主要な貴族、衛兵、近衛騎士わたしたち、それから、幼い王女だけ――。


 ――「降伏すれば、ベルフィーヌ王女の命は保障する」


 ローゼンダール王国第二騎士団副団長、ロイ・カントと名乗った騎士がそう告げた時、城内の誰もが、安堵の息を吐いた。


 ベルフィーヌ王女殿下は、ほんの一週間前に十一歳の誕生日を迎えたばかりだった。


 どう足掻いても、もう敗けは揺るがないとわかっていた。

 後退し続けた前線は、とうの昔に崩壊している。

 戦えるのは、王城に残った少数精鋭の近衛騎士と僅かな衛兵だけ。辺境からの援軍は、きっと来ない。いっそ来ない方がいい、来たとしたって、今さら、どうしようもないんだから。


 陛下は、ローゼンダールの騎士がもたらした降伏勧告をあっさりと受けた。


「降伏しよう。どのような条件も、甘んじて受け入れる。領地の割譲にはもちろん同意する。北西部ドゥフト=ボルケ地方は、貴国のものだ」


 発端は――西端にある山岳地方を取り合ったことだ。そこは荒れて痩せた土地で、人が暮らすには適さないけれど、鉄鉱石が採れる。

 ずっと昔から自国の領土だと言い張り合って、互いに一歩も譲らなかった。獲ったり獲られたりを繰り返し、かれこれ数百年が経つ。本当はどっちが正解だったかなんて、知っている人間は一人もいない。


 ドゥフト=ボルケ地方に執着を見せていた陛下の言葉は意外だったけれど、私は内心で胸を撫で下ろした。

 建国以来の名君と謳われた国王陛下は、四年前に王妃陛下を失くしてから徐々に正気を失って見えた。緋色の瞳に宿る、虚ろで残虐な色。


「……それでも、王女殿下のことは大切に思っていたんだな……」


 隣に立つ仲間の一人が、私にだけ聞こえる声で囁いた。

 当然じゃない、――そう応えた私の声も心なしか弾んでいた。後輩である彼は、どこか嬉しそうに頬を緩ませ頷いた。確か、一つか二つ年下だった。

 近衛騎士わたしたちは捕虜になるだろう。最悪、処刑されるかもしれない――。だけど、それが何だって言うの?


 ――殿下は助かる。


 皇統の存続とか、そんなくだらないことはどうでもいいと思った。殿下はまだ十一歳で、子どもなのだ。私たちは、お腹が空いたら子を捕食する魚とは違う。人間には心がある。心がある人間は、鉄鉱石のために子どもを死なせたりしない。


 良かった……。

 ――やっと終わった。


 城の窓の外に、飛び交う黒い影が見えた。王妃陛下が急逝された日も、こんな風に王都の上を鴉が群れ飛んでいたことを、ふと思い出した。

 まるでその頃に戻ったように柔らかく微笑んで、陛下は言った。


「祝杯の準備を――」



 大陸の平和に――、と言った陛下と大臣達、使者の騎士達が銀杯を交わしてすぐだ。その異変は起きたのは。

 ローゼンダールの騎士たちが膝をついたかと思うと、胸をかきむしり始めた。


 謁見の間にいた誰もが、慌てふためいた。

 なぜ、なぜ、なぜ、と誰かが叫んでいた。


「――無駄だ。もう助からない」


 静かな声が、玉座で響いた。

 黒い騎士の口元に寄せる水差しを持つ私の手は、とにかく情けないほどがたがた震えていた。

 

 何故――? 掠れた声で訊いたのは、黒い騎士の一人を抱えて吐かせていた近衛騎士団長だ。

 陛下はひっそりと笑った。


「終わるんだよ、どうせ」


 は……? 唖然と立ち竦む広間の人々に向かって、陛下はゆったりと微笑んだ。そして、まるで明日の天気の話しでもするみたいな調子で続けた。


「終わることはもう決まっている。決まっているんだから、もうどうでもいい。私の領地ものだって、誰にもくれてやる必要なんかないんだ」


 ――間違えた。敵を、間違えていた。


 嗚呼、と誰かが泣き崩れた。大臣の一人だったろうか。


 ――母なるクムロフ川に抱かれた、豊かな大地。

 神代の時代、天から降りた水の神が興した国。太陽と風と雨に愛された、永遠の繁栄を約束された王国、ハイドランジア。――それは今まさに、終わるのだ。


「その毒は、緩やかに苦しみを与えながら殺す。気の毒だけど、解毒剤はこの世にない。生きたまま塔に吊るしておいで。鴉の餌にして、奴らにも少しは絶望ってものを見せつけてやるといい」


 ほら、ちょっとは胸がすくじゃないか、ざまあみろだ、と陛下は穏やかに笑った。


 ――最後の、機会だったのに。


 目の前で苦しむ黒い騎士達の命は、ハイドランジアの、ベルフィーヌ殿下の命だった。

 小さく、淡く、消えてゆく。



「――もういいわ」


 広間に、凛とした声が響いた。


「貴方達はもう行きなさい。これ以上、付き合うことない。馬丁や下男や、侍女の格好をして出れば、きっとなんとかなるでしょう。これは命令です。みんな今すぐ、この城を出なさい」


 薄紅色に透けているはずの幼い頬は真っ白だった。肩と唇を小さく震わせて、だけど声は少しも震わせず、殿下は広間にいる私たちに向かって言った。


 苦しそうに浅い息を繰り返す黒い騎士を抱え上げて、師団長は何も言わずに広間を出た。他の近衛騎士も黙ったまま、その後に続いた。人ひとり通るのがやっとの細い階段を登り切り、狭い塔の上に着くと、私は剣を抜いた。かけなくてもいい情けをかけに来た騎士達を、せめて楽に逝かせてやりたかった。

 振り上げた剣は、止められた。


「俺がやる。お前らは手を汚すな。彼らの姿を見せたら、ここは沈む。お前らは王女殿下を連れてここに登れ」


 今さら――震える声でそう呟いたのは、誰だったっけ。


「いくらローゼンダール人が怒り狂っていようと、街一個まるごと沈めたら、少しはすっきりするだろう。その後で、殿下の命だけは助けてくれってお前ら全員、命かけて頼み込め」


 師団長は一人で黒い騎士達を介錯した。それから、嘴で損なわれないよう、皆で厚い布でくるんだ。やり終えた後、師団長は疲れ切って脱力していた私に向かって青灰色の瞳を細めた。


「……お前、俺の不肖の弟と同期だったな? 末っ子のあいつは昔っからしぶとくて要領がいい。間諜は天職だろ。前線に出てた他の二人はもう駄目だろうが、あいつだけは今も飄々と元気にやってるだろうから、もし会えたら言っといてくれ。―――――って」


 私たちが塔から降りると、ベルフィーヌ殿下はいなくなっていた。我先にと塔に駆け上がるだろうと思っていた大臣達は、意外にも誰も部屋から出てこなかった。殿下を探す途中、汚職まみれの金満家ともっぱらの評判だった大臣の一人にばったり行き会った。先に塔に登るよう促すと、枢機卿の礼服にきちんと身を包んだ彼は皺を緩めて静かに笑った。


「若い君らから先に登るといい。大臣室から見る眺めときたら、最高なんだ。すごく偉大な人間になれたような気分になれる。塔に行くのは、もう少しそれを堪能してからにするよ」


 王城の塔は細く、狭かった。城にいる全員ではそこに登れないことを、彼自身も、私達はみんな知っていた。


 手分けして探し回り、ようやく地下の隠し部屋にいた殿下を見つけた。小さな身体を抱き上げて、私は走った。

 殿下を任された私が先頭だった。後ろから、仲間の騎士や衛兵たちの長靴ちょうかの音が追いかけてきていた。


「――今日が無事に終わったら、旅に出ましょう」


 轟音をあげて迫る水の音を聞かせたくなくて、震えながらしがみつく小さな体に、私は叫び続けた。


「見たことのない不思議で珍しい景色を見て、晴れた街を歩きながら、珍しいものを食べて、そうやって、これからは何でも好きなことをして、自由に暮らすんです。ほら、すごく楽しそうでしょう?」


 全力で駆けながら、大声で喋り続けた。言葉にすると、叶う気がした。


 ――お願い。お願い。


 神様でも、悪魔でも、誰でも、何でもいい――。


 ――この小さな体さえ守れたら、あとはもう、何にもいらないから。


 お願い――――――――






 ぼろ布を頭から被り、ローゼンダールに向かって足を進めていた。師団長に頼まれた最期の言葉だけは、彼の弟に伝えるつもりだった。

 途中、寂れた村の寂れた宿屋の前で、村の男たちが話す声を聞いた。


『王城の生き残りを見つけてローゼンダールに差し出せば、三万フラムも貰えるんだってよ』

『おお知ってる。条約違反、だろう? 卑怯者どもは、見せしめに吊るすんだってさ』

『へえー……高潔な騎士とかって、偉そうにしてた近衛がいたのにねえ……。三万フラムは欲しいけど、あの水攻め受けて生きてるやつはいねえだろ?』


 ははは、違いねぇな、と笑い合う男たち。


 白地に金の刺繍がきらめく、誇り高い近衛の制服。初めて袖を通した時、胸に溢れた期待と喜び。ずっとずっと、続くと思っていた世界。



 ――違う……卑怯者なんかじゃない。


 ――だけどそれを、誰が信じるの?


 生き残ったのは、私ひとり。

 何もかも沈んでしまった。騎士の中では若い方でしかも女だったから、私は殿下を任された。一番先に塔に登らせ助けてくれようとした彼らは、水の底にいる。

 あの塔の上に残されたのは、剣で止めを刺された黒い騎士たちの冷たい躯だけ。



 ――私は吊るされる。

 違う、私達は卑怯者じゃない――そう叫びながら、大衆の前に無様に引き立てられるのだ。



 冷たい隙間風が、黴臭い毛布の隙間に入り込んで首筋を撫でた。浅い眠りから醒めたばかりの、虚ろな頭でいつものように思う。

 この何の意味もなく続く生を、一刻も早く使い切ってしまいたい。そうして、もしも次があるならば、魚に生まれたい。風か石ころか、虫やとかげや蛙でもいい、心を持たずに済むならば、何だっていい。



 ――『一生愛して、大事にするのに』


 きらきらきらきら。

 虹が咲くみたいな笑顔。


 ――この最低の人生に、光を見せてくれた。


「…………カマユー卿……ありがとう……」


 横になったまま、ぽつりと寝言のように呟いたそれは、もう枯れたはずの雫とともに、薄い枕に零れて落ちた。

 


 

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